学習通信090302
◎競争させられ分断され……

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村の女たち

 『カムイ伝』第一部には、百姓(農・漁に携わる人々)の暮らしが詳細に描かれている。そこで男女(そして子ども)がどのように関わり、交わり、協力していたのか、その一端を窺い知ることもできる。ここからは、とくに村社会において女性がどのような存在であったのか、史実もまじえながら見ていく。

 まずは女性の、労働力としての価値を考える必要がある。そこで、当時、彼女たちがどのような労働に従事していたのかを見てみよう。ただしこれには時間性、また地域性の差異もあるので、今回はとくに共通した事柄だけを挙げようと思う。

 まず前提として、村社会においては身体(肉体)的な労働が中心であった。彼女たちの労働内容を考えると、その身体的能力的特徴が活かされる傾向にあった。その特徴とは、男性に比べ瞬発的筋力が劣ること、妊娠・出産・育児に拘束されること、思考力が柔軟であること、人間関係に弾力性があること、権力志向が少ないこと、丹念な作業に従事できること、と考えられていた。ここから女性には、たとえば田植え、草取り、脱穀、調整作業などの農業労働がまず求められ、続いて衣類を調達するための機織り、衣類作成、食事全般など、それこそ多様な労働が求められた。

 山村などにおいては、山仕事や養蚕業などに従事する女性の姿もあり、漁村では海女、さらに商品売買などの労働も見られた。彼女たちの役割はまだある。それは出産や育児、高齢者や病弱者の看護負担であった。もちろんこうした性別分業だけでなく、男性との共同作業もあり(こちらの方が大半を占めている)、子どもや老人もこれを補完するかたちで、労働に携わっていた。生きていくためには、一人一人の労働力が大きな価値を持っており、それは欠かすことのできないものでもあったのだ。しかしそうは言っても、やはりこれだけのことを女性たちがこなせた理由は、単独になることがなく、常に「協働・協力」の体制が整っていたからである。
(田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p263-264)

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孤独と連帯

▼人間は孤独なのか

 「人間は、けっきょく独りぼっちなのでしょうか」という疑問もたえず出されてきています。

 自分は独りぼっちだ。だれも私の気持ちをわかってくれない。私は孤独だと思っている人はとても多いと思います。とくに青年期、思春期に孤独感をもたなかった人はいないのではないでしょうか。

 親たちが自分の考えをわかってくれないとき、職場や学校で人間関係がうまくいかないとき、仕事や学習がうまくいかないとき、とくに失恋したときなど人は孤独を感じます。一面で孤独は人生につきもので、だれでも感じるときがあり、この場合はその状態をどうやってうまく乗りきるかが大事になります。

 他面でこの孤独をうまく乗りきろうとしても、自分一人ではどうしようもない孤独もあります。職場で孤立させられていたり、何かの事情で本当に友だちがいなかったりするときなど、これはいわば客観的に孤独な現実があるわけで、たまたま主観的に感じる孤独感というのとは違った問題がありそうです。

▼孤独感と孤独な現実とは違う

 まず、私たちは孤独感ということと孤独な現実とを区別して考える必要がありそうです。
 孤独感というものは、人生にはつきもので、とくに青年期にはだれでも体験する感情だといえるでしょう。孤独感を感じながら、いわばそれをバネにして人は成長していくこともできます。少年期あるいは青年期の孤独感は、たとえばよい意味での親ばなれのバネでありうるし、自立のきっかけになります。あるいは友だちとの人間関係のなかで感じられる孤独感は、ただ仲のいいだけの幼児的な友だち関係から、自我の自立を獲得し、自立した人格同士がお互いの人格の独立と性格の相違などを認めたうえでの大人の友情で結ばれる人間関係への成長のバネともなりうるものです。

 孤独感は本人にとってはたとえようもない淋しさであり、苦悩でありますが、同時に、これまで述べたように人間の成長と自立の過程でおこる積極的なきっかけとなりうる要素を含んでいることを見逃がすわけにはいきません。私たちは独りぼっちと感じたとき、その孤独感をよりどころにして、孤独に耐えて自立しうる新たな強い自我を鍛えあげていくべきでしょう。

 しかし同時に、孤独感はいつもこのように、わたしたちの自我の成長をもたらす方向に作用するとは限りません。孤独感に押しつぶされてしまう人も出てきます。孤独感に押しつぶされて敗北したとき、ニヒリズム(虚無主義)が生まれます。ニヒリズムについては次の節で少し詳しく触れたいと思いますが、簡単にいえば、精神的退廃あるいは精神的内面の空洞化のことです。孤独感に押しつぶされ、自分はもうだめだと捨てばちになり、希望も誇りも捨ててしまった状態のことです。こうなってしまっては人間もおしまいではないでしょうか。孤独に負けずに、これを克服して、むしろ孤独感を人間的成長のバネにしていかねばならないと思います。

 そのためにどうすればよいかを考えてみようと思いますが、それにはまず、孤独感への敗北・屈服がなぜ起こるかという点から考えてみましょう。

 孤独感に押しつぶされてしまうのには、もちろんいろいろな条件や原因があります。本人の性格がひよわで、甘やかされて育ってきたため、少々の孤独感にも押しつぶされてしまうという場合もありましょう。しかし、それだけではなくて、現代社会には青年たちを(人びとを)とりまく孤独な現実があり、この現実が人びとを押しつぶすということが重大であり、問題となるのはほとんどの場合、このケースだと思われます。

▼資本主義社会と疎外

 青年たちをとりまく孤独な現実とは、矛盾に満ちた現代社会の現実であり、とくに現代資本主義社会の現実をまず第一にあげないわけにはいきません。もちろん、資本主義以前にも青年たちの孤独な現実はあったわけですが、現代青年にとっては現代資本主義こそ彼らを押しつぶしかねない現実として彼らの前に立はだかっています。

 資本主義社会の現実は、若いマルクスの言葉をかりるならば「人間の自己疎外」という状態、つまり、人間の人間らしさが失われている状態です。低賃金、長時間労働など「過労死」がおきるほどの超過密労働のなかで、労働者は人間らしさを奪われています。

 マルクスの「経済学・哲学手稿」のなかの「疎外された労働」の章から少し引用してみましょう。

 「人間が彼の労働の生産物から、彼の生活活動から、彼の類的存在から疎外されているということの、一つの直接的帰結は、人間からの人間の疎外である。もし人間が自分自身に対立しているなら彼には他の人間が対立しているのである。……一般に、人間から彼の類的存在が疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から疎外され、また彼らの各々が人間的本質から疎外されている、ということなのである」

 マルクスが、二六歳のときに書いた難しい文章ですが、非常に有名なものです。彼がいっているのは、人間が資本主義的生産労働のなかで、「労働の生産物」を自分でつくりだしながらそのなかで人間らしさを失っている。同様に「生活活動」のなかでも、「類的存在」(人間の本質的なあり方)から考えても、人間の人間らしさを失っているが、そのことの直接的な結果として「人間からの人間の疎外」が起こっているというのです。つまり、資本主義生産労働のなかで、人間と人間との関係がこわされてしまい、人間らしさが失われているということです。これが「人間の人間からの疎外」ということの意味です。

 資本主義的生産において、多くの労働者が一ヵ所に集められ一緒に労働していますが、そのような生産現場で労働者たちは労働強化と長時間労働のため、競争させられ分断され労働者同士の人間らしい人間関係を破壊されている現状があります。そのような状態を「人間の人間からの疎外」とマルクスはいったのでした。これは現代の労働者がおちいっている孤独な現実そのものです。つまり、現代資本主義がもたらしている疎外状況こそ現代的孤独の根底にあるものだといえると思います。

 このような現代人の孤独は、労働の現場だけのものではありません。学校でも地域でも社会全体が競争社会になってしまっています。学校教育が超過密で受験競争は受験地獄といわれるほどですから、学生・生徒たちはそのなかで人間らしさを奪われ、孤立・分断させられています。これが学生・生徒たちの孤独な現実の基礎になっています。しかも、このような受験地獄をつくり出している根本原因もまた人間同士を競争させることによって利益をあげている現代資本主義だという点も忘れるわけにいかない点です。

▼人間は本当は孤独ではない

 このように、資本主義社会の仕組みが人びとを分断し孤立させているのであり、この仕組みが孤独な現実の基礎となっています。

 孤独な現実の基礎となっているのが資本主義社会の仕組みだということが明らかになってみると、この仕組みによって孤独に直面させられている者は、自分だけでなく非常に多くの人たちだということ、少くとも自分一人ではないということに私たちは気づきます。

 多くの仲間たちが同じような条件のもとで、同じように独りぼっちだと感じて(孤独感を感じて)いるということは、実は人間は本来は独りぼっちではないということを示しているのではないでしょうか。もともと人間は集団生活をしており、集団として生産労働をはじめて、そのことによって猿から分かれて人間になっていきました。集団で力を合わせて助け合ったからこそ人間になれたのでした。長い間の原始共産制社会の生活から、階級に分裂した社会の生活に入ったのも、この共同労働のやり方がいっそう高度に発展したからでした。今日の資本主義社会において、多くの労働者が分断され、競争させられ、孤立させられているといっても、その基礎には機械制大工業のもとにおける大規模な集団労働の生活が厳として存在しています。

 日本における歴史の現局面では(日本特有の戦後史の事情があって)労働運動の未成熟などのため、労働者が孤立・分断されて、劣悪な労働条件のもとに置かれている面だけが目立っていますが、現在の日本資本主義の現状は、他面では支配階級と国民との利害の衝突を強めつつあり、不況が長期化する経済の実情も、政治腐敗の暴露なども現体制のゆきづまりを露呈しつつあり、労働運動の前進、労働者階級の団結の強化と国民的規模での民主主義の前進の条件が日々成熟しつつあるのも現実です。

▼孤立・分断から団結・連帯へ

 つまり、資本主義社会の現状は、人びとを孤立・分断して、人びとに独りぼっちだと感じさせる現実でもありますが、同時に人びとを団結させ、連帯させる条件を日々成熟させつつある現実でもあることを見抜かなければならないと思います。いままさに孤独を転じて団結へという過渡期にあるといえましょう。

 孤独を団結と連帯へと転じる原動力は、わたしたちの実践(活動)です。ただ静観して待っているだけでは転換は起こりません。日本独占資本はあくまで利潤追求を強めようとし、これと同盟する保守政党の悪政は国民生活の全局面で国民に総がまんを押しつけてきています。

 私たちは、労働運動、青年運動、学生運動、女性や高齢者の運動をはじめさまざまの市民運動を強化して、私たちを孤独感におとしいれている現実とたたかっていかざるをえません。この活動(実践)のなかで、わたしたちは多くの仲間たちと出会い、団結し連帯することになります。孤独感など吹きとんでしまいます。

▼ニヒリズムの克服

 今日の社会には、すでに述べたように孤独な現実がありますから、私たちが孤独感におちいる可能性はいつでもあります。その場合には孤独感に押しつぶされないように、じっと耐えることももちろん必要です。しかし、ただ耐えるだけでなく私たちを孤立させているものにたいして正面からたたかいを挑むことが必要であり、そのたたかいのなかで多くの人びとの団結と連帯が強まり、孤独な現実から抜けだすことができるだろうというのが私の強調したい点です。

 このような活動(実践)のなかに入ることができず、孤独感に押しつぶされてしまう人たちもあります。ここからニヒリズムがおこります。

 このニヒリズムの気分を哲学の学説に仕立てあげる学者も出てきます。現代観念論のなかで、かなりの影響力をもっている実存主義などの傾向がそれです。人間はどうせ一人ぼっちだといい、個人の主体性を一面的に強調し、真理や道理や正義にたいする無関心・無頓着、そして冷笑的態度などを基本とする立場です。人間の人間らしさを失ったこのような考え方や気分におちいったら人間もおしまいです。

 孤独感に押しつぶされて、このような気分におちこんでいる仲間がみなさんのまわりにも何人もいるのではないでしょうか。こういう仲間たちと話し合い、学習会やサークルなどの活動を活発にして、ニヒリズムの気分を克服することが、いま必要だと思うのです。
(鰺坂真著「哲学のすすめ」学習の友社 p61-68)

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エンゲルスから
ピョートル・ラヴローヴィチ・ラヴローフ(在ロンドン)ヘ
 ロンドン、一八七五年一一月一二日

親愛なラヴローフ様

 ドイツ旅行から帰って、ついにあなたの論文にとりかかる段になりました。いまそれを非常に興味ふかく読みおわったところです。以下はそれについての私の感想です。ドイツ語で書きましたが、これはそのほうが簡潔に書けるからです。

 一、私は、ダーウィンの学説のうち進化論は受けいれますが、ダーウィンの証明方法(生存闘争、自然選択〔自然陶汰〕)は、新たに発見された事実の最初の、暫定的な、不完全な表現にすぎないものととっています。

ダーウィンがでるまで、いまいたるところに生存闘争ばかりを見ている当の人々(フォークト、ビューヒナー、モレスコットその他)が強調していたのは、まさに生物界の協動ということでした。

すなわち、とりわけリービヒによって強調されたように、植物界は動物界に酸素と養分を供給し、その逆に、動物界は植物に炭酸と肥料を供給するというようなことです。

どちらの見解も、ある限界内で一定の正しさをもっていますが、両者ともに一面的で、狭溢です。自然物──生命のないものも、あるものもふくめて──の交互作用は、調和をも衝突をも包含し、闘争をも協動をも包含しているのです。

だから、自称自然科学者が、きわめて多様で豊かな歴史的発展を、一面的で貧弱な「生存闘争」という文句──自然の領域でさえ留保づきでしか受けいれることのできないこの文句──に包摂しようとあえてするならば、このようなやり方はすでにそれ自体でみずからに有罪を宣告するものです。

 二、引用されている三人の「確信をもったダーウィン主義者」のうちで、その名をあげる値うちのあるのは、ヘルヴァルトだけだと思われます。ザイドリッツは、せいぜいよくいって小才のきく人間にすぎませんし、ローベルト・ビュールは小説家で、目下その小説『三たび』が『ユーバー・ラント・ウント・メール』誌にのっています。彼のだぼら全体も、この雑誌にぴったりです。

 三、私が心理学的方法とよびたいと思っているあなたの論駁方法の長所を、私は否認するものではありませんが、私なら別の方法を選んだでしょう。

われわれはみな、自分が主として動いている知的環境から多少とも影響をうけています。

あなたは私よりもよくロシアの読者をご存じですが、そのロシアにとっては、また「共属感情」に、道徳的感情によびかける宣伝雑誌にとっては、あなたの方法のほうがたぶん適当でしょう。

だが、まがいものの感傷性がとほうもない害悪をおよぼしてきたし、いまもおよぼしているドイツにとっては、そういう方法は適当ではないでしょう。

それは誤解され、感傷的にゆがめられるでしょう。

われわれのところでは、──すくなくともさしあたっては──愛よりも憎しみが必要であり、なによりもまず、ドイツ観念論の最後の名ごりを一掃し、物質的事実にその歴史的権利を回復させることが必要です。

そこで、私なら、これらのブルジョア的なダーウィン主義者を、たとえば次のように論駁したいと思いますし、またたぶんいつかそのように論駁するでしょう。

 生存闘争についてのダーウィンの全学説は、ホッブズの「万人の万人にたいする戦い」という学説や、ブルジョア経済学者の競争学説、それにマルサスの人口論を、社会から生物界に移しいれたものにすぎません。

こういう手品(これが無条件に正当なやり方だということには、私は、第一項で示唆したように異議をとなえます。

とくにマルサスの理論については)をやってのけたあとで、今度はこの同じ理論を逆に生物界から歴史のなかにもちこんで、いまやこう主張するのです。

この理論が人類社会の永遠の法則として妥当することか、論証された、と。

このような手続きが幼稚なことは一目瞭然であって、それについて一語たりとも費やすにはあたりません。

だが、もしこの点をもっとくわしく論じようと思えば、私は、彼らかまず第一に劣悪な経済学者であることを示し、第二にはじめて、彼らが劣悪な自然科学者および哲学者であることを示すような仕方で、それをやるでしょう。

 四、人類社会と動物社会とのあいだの本質的な差異は、動物はせいぜい拾集するだけなのに、人間は生産する、ということです。

このただひとつの、とはいえ重大な差異だけからみても、動物社会の法則をそのまま人類社会に移すことは不可能です。

こういう差異があるからこそ、あなたが正しく述べていられるように、「人間は生存のためにたたかってきただけではなく、さらに享楽のため、また自己の享楽を増大させるためにたたかってきたのであって、……より高級な享楽のためには、より低級な享楽をよろこんで放棄する用意があった」というようなことが、可能になるのです。

このことからあなたがさらに引きだしている諸結論に異議をとなえるものではありませんが、私は、自分の前提から出発して、さらにすすんで次のように結論したいと思います。

人類の生産は、こうして、ある段階で、生活必需品だけでなく、たとえ当初は少数者のためだけにせよ、奢侈品をも生産するような高さに到達する。

したがって、生存闘争──このカテゴリーをここでしばらく通用させておくとすれば──は、享楽のための闘争に、もはやたんなる生存手段のためではなく、発展手段のため、社会的に生産された発展手段のための闘争に、転化する。

そして、この段階には、もはや動物界からとったカテゴリーを適用することはできない。

ところで、現在起こっているように、資本主義的形態をとった生産が、資本主義社会の消費しうるよりもはるかに大量の生存手段と発展手段を生産しているとき──これは、資本主義社会が現実の生産者の大多数を人為的にこれらの生存手段や発展手段から遠ざけているからなのだが──、またこの社会が、すでにそれにとって大きくなりすぎたこの生産をひきつづき増大させることを、それ自身の生活法則によって強制されており、したがって、周期的に、一〇年ごとに、大量の生産物ばかりか生産力そのものまでもみずから破壊する羽目になっているとき、そのようなときになお「生存闘争」についておしゃべりすることが、どんな意味をもつであろうか? この場合、生存闘争は、生産階級が、生産と分配の管理を、これまでそれを委託されていたが、いまではその能力を失ってしまった階級の手からとりあげる、ということでしかありえない。そして、これが、すなわち社会主義革命である。

 ついでながら、これまでの歴史を一系列の階級闘争として考察しただけでも、この歴史を、「生存闘争」のわずかに変化した現われとして把握することのまったくの浅薄さを明らかに知るのに十分です。

ですから、私なら、こんなふうに、これらのにせの自然主義者たちの機嫌をとることはけっしてしないでしょう。

 五、同じ理由で、「この闘争を緩和すべき連帯の観念がひろがって、……ついには全人類にゆきわたり、これを、同胞の連帯的な社会として、それ以外の鉱物、植物、動物の世界に対置するようになるであろう」という、実質上まったく正しいあなたの命題も、私なら、これにおうじて違ったふうに言いあらわしたでしょう。

 六、他方、「万人の万人にたいする戦い」が人類発展の第一段階だった、というご意見には、私は同意できません。私の見解では、社交本能こそ、猿から人間への発展の最も重要な槓杆のひとつだったのです。最初の人間は、群れをつくって生活していたにちがいなく、われわれがさかのぼってみることができるかぎりでは、実際にそうだったことが見いだされます。

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 一一月一七日。またしても中断させられてしまって、きょうあなたにお送りするためにこの手紙をふたたび書きつぐしだいです。ごらんのように、私の感想は、内容についてのものというよりは、むしろ形式について、あなたの論駁方法についてのものです。この手紙があなたにとって十分明瞭であればよいと思っています。急いで書いたので、読みなおしてみると、いろいろ言いかえたいところがあるのですが、そうすると手紙が読みにくくなることを恐れたわけです。
 心からの挨拶をおくります。
       F・エンゲルス
(ME全集第三四巻 大月書店 p138-141)

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◎「私の見解では、社交本能こそ、猿から人間への発展の最も重要な槓杆のひとつだった」と。