学習通信090306
◎共同的な自立観……
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ゲンダイ人類学
連帯ノススメ
富の再分配考える機会に
社会が激変する中で、いったんは色あせた言葉が再び輝きを取り戻すことがある。今なら「連帯」がそうだろう。貧困や格差が深刻になり、共生、団結といったキーワードが魅力的に響く。とはいっても、個人主義や競争社会に慣れてしまった私たちには、「連帯」は口で言うほど簡単ではなさそうだ。(文化報道部道又隆弘)
年越し派遣村で広がり
行き過ぎた競争主義への補正
「労働組合で非正規雇用の相談に乗ってきたが、少し前までは『連帯』『団結』なんて死語だと思っていた。二十代の派遣やアルバイトの人に『一緒に頑張ろう』と呼び掛けても、冷めた反応しかなかったのに」
貧困の連帯≠掲げて昨年創刊した雑誌「ロスジェネ」(かもがわ出版)の編集長を務める作家の浅尾大輔さんは、この一、二年で「連帯」に対する空気が劇的に変わったと話す。
じわり広がっていた連帯の動きが脚光を浴びたのが年末年始の「年越し派遣村」だ。東京の日比谷公園に集まった失業者への支援活動は、市民団体と労組を中心に、多くのボランティアや政治家を巻き込み、霞が関を動かした。党派性を超えた協調は、驚きとともに注目された。
「貧困の大雨が降って、体はずぶぬれ、足元はドロドロの状況では護憲も改憲も関係ない。愛国心やイデオロギーの違いよりも、皆で最後の安全網というブルーシートの端を持つことが先決、という感覚だった」
一方で、連帯には排他性を伴い、若者の連帯は世代間闘争の裏返し、との声もある。就職氷河期に社会に出た「ロスジェネ世代」(二十代後半〜三十代半ば)には、年金危機や国の借金の増大も合わさって、年長世代への不信は大きい。
「何で自分らの世代だけ割を食うのかという不満はある。でも政治を変えるには僕たちの力だけでは足りない。大きな思想がない、と説教せずに、上の世代も一緒に戦ってほしいんですが…」
連帯への関心は、「行き過ぎた競争主義に対する本能的な補正≠セ」と言うのは内田樹・神戸女学院大教授(フランス現代思想)。「道徳論ではなく、どう考えたって、孤立するより生き延びる確率が高いから」とクールな視線で共生を説く。
一九九〇年代以降、クローバル資本主義が流入し、弱肉強食と自己責任の論理が日本社会を覆った。集団に帰属したり、他者と協働することの意味は一層軽視されるようになった。
「小泉改革でも、互いののど笛を食い合うような市場原理主義の導入が支持され、より徹底した能力主義の実施を求める若者も多かった。ホリエモン(堀江貴文ライブドア元社長)が人気を集め、自民党が選挙で推薦したのは象徴的」
その後、熱が冷めるように、格差の是正と共生の大切さを訴える声が強まってきたが、「団塊の世代からロスジェネまで、自分らしさや自己利益の追求を何よりも優先し、共同体の負担を忌避してきた日本人が、今さら『小異を捨てて大同につく』ことができるのか」と案じる。
「立場の弱い人を支え合う機運が高まっている半面、弱者を排除する意識も根強い」と語るのは詩人の上田■奈代さん。大阪・釜ケ崎でアートNPOを主宰し、野宿者支援に携わりながら、行き場を失った若者らが集えるカフェを営む。
年末年始の炊き出し活動では例年より若者のボランティアが目立ち、繁華街でもチラシを取る人が格段に増えたという。
「でも野宿者襲撃のように敵意を弱者に向けたり、『不安定な立場にいるのは私か悪い』と自分を責めてしまう人は多い。どちらの孤立感も深く、なぜ自分がワーキングプアから抜け出せないか。なぜ彼らがホームレスになったのか、背景を伝え、社会的な視野でとらえないと、分断は埋まらない」
「理想は禁物」というのは、立岩真也・立命館大大学院教 (社会学)も同じだ。「連帯する光景を美しい、とたたえるだけではヤバい。もっと注意深考えたほうがいい」。弱い立場の人が何かを得るには、誰かが何かを差し出すしかない。分配する覚悟は──と問う。
過去二十年間、「共助」という言葉のもとに、現実には富裕層の負担は軽減されてきた。例えば、所得税率は最高70%から40%になった。
「格差を正すには累進性を元に戻すべきなのに、政府は今も消費税の増税を言っている。そのゆがみを放置したままで、社会的連帯と言えるのか。税制の在り方やワークシェアといった既得権益にも目を向けるべき」と、富の再分配を考える機会にするのは当然という。
殺伐とした現代日本によみがえった「イデオロギーなき連帯」は、エゴイズムや冷笑主義をかいくぐり、新しい時代のドアを開けるだろうか。
トリビア
不愉快な他者に折り合うこと大切
「連帯には修練と技術がいる。特に、我慢し、許す力が」と内田教授は話す。協力を得られる代わりに、不愉快な他者の干渉にも耐え、折り合うことが迫られる。「まず自分ありきーの考えを捨て、最初に共同体があって自分はその→ISと思った方が楽」。浅尾さんは「可視化」が有効という。経営側との労働交渉でも和解案の口外禁止条項に同意しない事例が増えており、「一人だけでなく、皆で貧困を脱するのが大切。公表すると連帯が広がりやすい」という。
(「京都」20090305)
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▼「自分を大切にする」とはどういうことか
歴史の法則性ということをふまえて、私たちの個性とか主体性とかいうことを、もう少し別の角度から考えてみましょう。
人間の主体性の尊重というと、「自分を大切にしたい」とか、「自分自身にたいして誠実であることが大事だ」ということがよくいわれます。自分を大切にすることは一般的には正しことだといえるでしょう。
しかし、内容をよく考えてみると、疑間もあります。
納得いかないことを押しつけられそうで、これを断わるために「自分を大切にしたい」と考える場合には、事柄の内容にもよりますが、これは当然のことでしょう。
しかし、他方で、労働運動や住民運動などの場面で積極的になれずに後むきに遠ざかる理由として「自分を大切にしたい」などといわれる場合があり、このケースは疑間の残るところです。
この場合は、自分と自分をとりまく外部を単純に対立させて、外部や他人との関係には目をふさぎ、もつぱら自分の心の内側だけに目がむいているところに間題がありそうです。そもそも「自分とはなにか」ということが間題です。
自分(個人)は一つの人格として、自立性と主体性、要するに個性をもった存在には違いありません。しかし、個人はまったく一人で存在しているわけではないことも明らかです。親がいて、育ててくれて、個人があります。家族や地域社会があり、衣食住を生産してくれる人がいて、私たちの生活がなりたっています。私たち自身もなんらかのかたちで、それぞれ社会のために役立っているはずです。
「自分を大切にしたい」というときの自分も、右の意味での「社会的存在」です。ですから「自分を大切に」とは、他人も大切にすることであり、世の中(社会)も大切にするという意味でなければおかしいのです。他人のこと、世の中のことを無視して「自分だけ大切」というのでは、ただのエゴイズム(利己主義)であり、これでは世間の信用もえられず、けっきょく自分らしさも発揮されないでしょう。
(鰺坂真著「哲学のすすめ」学習の友社 p81-83)
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どう若者を支援するのか
[さまざまな大人との出会い]
では、「立ちどまっている」かのように見える若者をどう支援していけばいいのでしょうか。
すでに見たように、価値観の多様化と言われますが、実際には意外と多様化していない。こうした生き方でないとダメだという一元的な価値観を内面化しています。もう少し自由に考えることができたら動けるのに、それができないで苦しんでいるのです。大人は若い人に対する期待と心配から、こうしたほうがよいとアドバイスをしているのですが、それがプレッシャーにしかならない。
このような悪循環を壊すには、どうしたらよいのか。いろいろな生き方があっていい、大人もいろいろな人がいるということがわかれば、一元的な価値観からはなれ、若者がもっと自由になれるということです。若者がそのことに気がつく仕掛けをどうつくっていくのか。社会に出る前は学校と家庭しかなく、大人は教師と親しかいなかった世界でした。社会に移行して、教師と親以外に多様な大人がいて、こういう生き方もあっていいんだという出会いがあれば、自分の生きられる世界を発見していける。
ところが、職場に入っても、教師と親が職場の上司に変わるだけで、上司は「こんなことをやっていちゃダメ」「きちっとしろ」と、教師や親が言ってきたことをくり返すだけでは自分の生き方を見つけられないのです。寅さん≠竍浜ちゃん≠フような人間臭い人たちがいて、自分が感じたことを率直に自分の言葉で語ってもいいという世界があるといいと思います。
[若者に居場所を]
若者たちの安心感という点では、ありのままの自分をうけとめてもらえるような居場所・人間関係をどうつくるかが大事だと思います。「無理に自分を変える必要がないと思えたら、自分が変われそうな気がする」と書いてくれた学生がいたのですが、「変わらなければいけない」というメッセージは、ときとして「お前はダメだ」という否定のメッセージとなって聞こえます。このままじゃいけない、自分が悪いんだと自分を否定している人が、外から変わらなければいけないと言われると、どんどん自分を追い詰めなければならなくなる。
その若者が、自分をがんじがらめにしている価値観や見方を崩していくことで、自分がほんとうに幸せになる道を選ぶことができる。そのことを信頼することが必要なのだと思います。いつも自分を抑え、本音はあまり語らないようにしていた若者が、自分の言葉でしゃべっていいと思えることは、だから、自分が認められることだし、人とのつながりを実感できることです。だから、自分が本気でしゃべったときには尊重されるという経験は絶対的に必要なのではないか。
そして、「親の期待に応えられなくても良い」「何がなんでもこの仕事に就かないといけないということでもない」「社会に出てからどうにでも生きていける」「遠回りしてもいいじゃないか」などと思えることが若者が自分で自分を縛っている呪縛から逃れて主体性を回復するために必要なことなのです。
同世代同士のかかわりがもちにくく、若者が安心感をもちにくくなっていることの解決も大事です。労働政策研究・研修機構の調査でも、いま若者がいちばん求めているのは、上司のサポートだけではなく、同世代の人との話という調査結果があります。同世代の仲間で愚痴の言える関係があれば職場をやめません。中小企業の場合には一つの職場に若者が一人といった状況が少なくありません。そこで、社会教育の場で、若者の交流を地域で支えていく青年の家などの施設がありますが、解体・再編成されるなかで、働く若者同士の関係をつくるということに対する社会のサポートが少なくなっています。
[自立観の捉え直し]
ジョブカフエという制度に仕事と若者をつなげていく役割が期待されています。ところが行政の支援は、そこに来れば手厚く支援はするが、来ない若者は乗っかることがきない。来ない人は、やる気がないとなってしまう。しかし、やる気がないから来ないのではなく、やる気があっても来ることができない人もいるのです。なぜ来ることができないのか。ハローワークに対してですが、ある若者は「ああいうところには行きたくない」と話していました。この若者がハロー・ワークにどんなイメージを持っているのかわかりませんが、突き詰めていくと、その根底には、他人に頼らず自分の人生は自分で拓くといった自立観があるのではないかと思いました。
青年心理学にとって「自立」は重要な概念ですが、自立とは他人に頼らず何でも一人でできるということではありません。困っているときには相談できることが自立です。私は卒論学生に言うのですが、困っているときは躊躇しないで、すぐに相談に来てほしいと言うのです。私かびっくりしたのは、ちっとも相談に来ない学生を呼び出したら、「先生に迷惑をかけたくない」と言うのです。指導をすることは「迷惑」ではないのですが、私は「人に迷惑をかけたくないといって相談に来ないのが一番、迷惑だ。本当に迷惑をかけたくないのであれば、早い段階で相談に来てほしい」と話しました。
ここで言いたかったことは、「迷惑ってかけてもいいんじゃないか」「助けてほしいと言えることは自立なんだ」ということです。若者支援でもじで、若者が助けを求められるような状況を作っていかないといけないと思います。自分一人で何とかするという孤立的な自立観ではなく、人に助けを求めることができる共同的な自立観でないと若者の自立を促すことにはなりません。
[自分の考えを相対化できる環境]
若者が自分の考えを相対化していける環境というのも大事です。私は、学生に討論させて、学生に発見させていく授業をするのですが学生同士では、そういう議論をする経験はほとんどないと言います。
たとえば、いま、私の授業で、新谷威さんが中学で行った授業記録「『働くルール』の学習」をテキストにして、学生に教材づくりの授業をしています。教材づくりといっても、学生自身が労働の権利を学習することがさしあたっての課題となります。テキストを読んで、アルバイトでも有給休暇がとれることを知り、レポーターの学生はさっそく自分の場合を計算してみました。すると、十二日も休めるようです。しかし、そのようなことをアルバイト先には言えないようでした。たとえ言ったところで、どうにもならないと考えています。
私の大学が教育大だからということではないと思いますが、若者は案外、保守的な面をもっています。ファミリーレストランで茶髪を理由に女性が解雇になる事件があり、ユニオンに相談して撤回させたという記事を読ませたら、多くは「茶髪はだめだ」という感想を書いてきました。権利が実現したということに共感するかなと思ったら、そうではなかった。
テキストのなかにあった家族の過労死に対して裁判を起こしたという例でも、父親が過労死したらどうするかを話しあったところ、「何もしない」という結論になってしまいました。それは現実問題としてはわかるのですが、「ややこしい」「お金がかかる」「生活が圧迫される」「面倒くさい」という意見ばかりが出されました。
今回も、アルバイトの有給休暇は難しいという感じで終わるかなと思っていたら、そうではありませんでした。ある学生は有給休暇分の給料がアルバイトをやめるときに出ると発言しました。別の学生は、教育実習で一ヵ月休まざるをえなかったとき、有給休暇を使った、と言いました。そして、四年生は、就職活動のとき、昨年の私の授業で知った労働契約の知識を活用して、労働条件を入社面接のときに文書で確認したと言いました。しかも、労働条件のことをきっちり言ったことが内定先の企業から評価されたとも言いました。
自分の身の回りの人でも有給休暇が使えていることを知り、また有給休暇の取り方についてもいろいろなやりかたがあることがわかり、レポーターの学生はアルバイト先でためしに言ってみると言いました。このようなことを学生同士で話しあっているかというと、ないとのことです。時給のことは聞くが、有給休暇などといった労働条件のことは聞かない。でも、これからは話してみたいとのことでした。学生は「現実は変えられない」「もう決まっていること」と考えていますが、必ずしもそうでないことを、身近な友だちの経験も交えて具体的に、かつ多様なやりかたがあることがわかると、動き出すことができるようです。まずは身近な人と身近な話題で情報交換をしていくのも手なのでしょう。
[若者の意見を表明する機会を]
若者支援の政策をつくるとき、若者が意見を述べる場が保証されているでしょうか。フリーター支援のための会議にフリーターが専門委員として入っているという話は聞いたことかありません。本気でフリーターやニードを支援しようとするなら、やはりフリーターやニートに委員になってもらって、どんなことをどんなふうにしてほしいのかを話してもらったらよいと思います。若者は支援の客体ではなく、支援の主体だからです。
このことは、若者が社会に参加し、社会から認められる感覚を得ることにもつながるので、特に重要だと考えます。何度も就職しようとしてもはじかれてしまう。すると、自分は社会から認められていない、排除されている、といった感覚をもってしまいます。そのために、ますます動けない、一歩が踏み出せない状況に追い込まれていきます。
心理学で学習性無力感という言葉があります。逃げようにも逃げられない体験をくり返すと、逃げられる状況になっても逃げようとしなくなることを言います。一口で無気力と言われますが、実は経験のなかでつくられてきたものです。社会にかかわれないほど無気力な状態だとしたら、社会にかかわる権利が剥奪され続けてきた結果なのです。
雇用に関係する政策を決める際に労使が協議し意見を表明する機会があるのと同じように、フリーターといった若者の支援の政策を決める際に、フリーターをはじめ若者の意見を聞く機会を設けるのは当然のことだと思います。
若者観をどう変えていくのか
[若者のことを大人が語り合う場を]
結局、大人の視点をを変えるということが、いま大事なのではないのでしょうか。いま、若者たちは「自己責任」論に苦しめられていると言われます。しかし、だからと言って、いくら若者に「君たちは、『自己責任』論に苦しめられている」と言っても、当の若者にとっては、必ずしもすぐに受けとめられるとはかぎらないでしょう。そのときに、問われるのが、そう語る大人の側に、「自己責任」論にとらわれたような視点がほんとうにないのかということだと思います。
若者が動かないなどと否定的にのみ見てしまうことには、大人の側の見方の問題もあると思います。「今の職場はこんなに大変なんだぞ。だから、そんな悠長なことをやっていたらダメだ」といった見方をしているとすれば、まずは今の職場の大変さのほうこそ見直さなければならないのではないでしょうか。大人の自分が無理して頑張っている状態から見ると、若者の方は頑張っていないようにしか見えないのです。大人が若者と向き合うとは、大人が自分の働き方とどう向き合うかという問題です。
これは職場の上司や同僚という立場だけではなく、親という立場にも当てはまると思います。若者の願いといっても様々ですが、ご自身の実体験に基づいて、子どもへの愛情が「大企業に就職せよ」とか「自分の好きなことをやったらいい」といった言葉で示されることがあります。子どもを案ずればこその言葉ですが、先行世代の体験はその時々の時代に埋め込まれていることも考えておかなければなりません。
実際問題としては、大人の視点を変えるという課題は、なかなか困難です。でも、気楽に若者に声をかけて、若者の話を聞きながら、じっくりと変わっていったらいい。「へえ、そんなふうに感じているのか。おもしろいなあ」と思えるといいと思います。大人の包容力が試されているのだと思います。包容力とは、若者の言うことを受け止める技量ですが、若者と一緒に考えていけばいいと思います。
いや、若者の話も聞きながら、自分の話もしながら、答えをみつけていくしかありません。一人ひとりの若者の良さについて気がつくことを積み上げていくしかない。そして、そのことについて語りあう大人同士がいることが大事なのです。
たとえ最初は、「最近の若者はダメだ」ということを言いあうことからはじめてもいい。いろんな見方をする人たちと語りあって、「たしかにそうだね」という話から、「君だってそうだよ」「いや、今の若者のほうがまじめで、しっかりしているよ」など、語りあうことができるようになるかもしれません。私たちがそんな場をつくっていくことが、一つの鍵でもあると思うのです。
(白井利明「なぜ「若者は動かない」と思えてしまうのか」前衛09年1月号 日本共産党中央委員会 p72-p77)
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◎「「自分を大切に」とは、他人も大切にすることであり、世の中(社会)も大切にするという意味でなければおかしい」と。