学習通信090310
◎マルクスの生き方と知性の高みに対する率直な驚嘆を語ること……

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朝の風
「マルクスはすごいんだぞ」

 三十数年前、初めて買った『マルクス=エンゲルス全集』は第四巻であった。欲しかったのはそこに収められた「共産党宣言」。いま若い世代にマルクスをどう勧めたらよいか。そんなことを考えるうちに、自分の最初を思い出した。

 十八の春、大学の先輩に誘われ、学習会に参加した。ブルーコピーの手書きレジュメを一度くらいは書いただろうか。当然わからないことばかりであった。記憶に残るのは、むしろ肌から得た感覚。「何かものすごい世界がここにはある」「それが理解できる人間になりたい」。

 年齢を重ね、多少は読める範囲も広がった。若い自分が感じた「すごさ」の中身は、社会をまるごと手のひらにのせんとするマルクスの精神の巨大さだった。しかし、執筆時のマルクスがわずか二十九だった事実の「すごみ」は、ますます大きくなってくる。何がそれを可能にさせたのか。「すべてを疑え」という批判的精神の想像もつかない強靭さだったか。

 資本主義を根本からとらえるのにマルクスは欠かせない。それを若い世代に伝える時、学問の解説にとどまらず、マルクスの生き方と知性の高みに対する率直な驚嘆を語ること。それがとても大切に思える。「マルクスはすごいんだぞ」と。(夢)
(「赤旗」20090310)

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 ときには労慟者たちは勝つこともあるが、それはただ一時的でしかない。彼らの闘争の本来の成果は、直接の成功ではなくて、労慟者たちがますます広く自分のまわりにひろげてゆく団結である。

労働者たちの団結は、大工業が生み出して、種々の地方の労慟者たちを互いに結びつける交通手段の増大によって促進される。

しかし、いたるところで同じような性格をもっている多くの地方的闘争を、一つの全国的な闘争に、一つの階級闘争に集中するためには、団結だけが必要なのである。

しかし、どの階級闘争も政治的闘争である。そして、中世の市民が市町村道をもってして数世紀を要した団結を、鉄道をもつ近代的プロレタリアはわずかの年数でなしとげる。

──略──

 これまでのすべての運動は、少数者の運動であったか、または少数者の利益のための運動であった。プロレタリア的運動は、膨大な多数者の利益のための膨大な多数者の自立的運動である。現今の社会の最下層であるプロレタリアートが起き上がり、立ち上がれば、かならず公的社会をかたちづくっている諸階層の上部構造全体が爆破される。

 ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容としてはそうではないとしても、形式としてはさしあたり一国的である。各国のプロレタリアートは、当然まず第一に、自国のブルジョアジーをかたづけなければならない。

 われわれは、プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸局面をえがいたことによって、現存する社会の内部における多かれ少なかれ隠された内乱のあとをたどって、この内乱が公然の革命となって爆発し、強力によるブルジョアジーの転覆によってプロレタリアートがその支配の基礎をつくるというところにまで到速した。

 これまでのすべての社会は、われわれが見てきたように、抑圧する階級と抑圧される階級との対立にもとづいていた。しかし、一つの階級を抑圧しうるためには、その内部でこの階級に少なくともその奴隷的存在を維持することができる諸条件が保障されなければならない。農奴は農奴制のなかでコミューンの成員に成りあがったが、小ブルジョアは封建制的絶対主義のくびきのもとでブルジョアに成りあがった。

これに反して、近代的労働者は、産業の発展とともに向上する代わりに、自分自身の階級の諸条件よりも下にますます深く沈んでゆく。労働者は受救貧民となり、受救貧民層は人口および富よりもいっそう急速に発展する。これとともに、ブルジョアジーには、いっそう長く社会の支配的階級であることを続けて、自分の階級の生活諸条件を規制的な法則として社会に押しつける力がないということが明らかになる。

ブルジョアジーに支配する力がないのは、ブルジョアジーには自分の奴隷制度の内部においてさえも自分の奴隷に生存を保障する力がないからであり、ブルジョアジーが奴隷によって養われる代わりに奴隷を養わなければならない状態に奴隷を沈ませざるをえないからである。社会は、もはやブルジョアジーのもとで生活することはできない、すなわちブルジョアジーの生活はもはや社会と両立することができないのである。

 ブルジョア階級の存在および支配のためのもっとも本質的な条件は、私人の手中への富の累積、すなわち資本の形成および増大である。資本の条件は賃労働である。賃労働はもっぱら労働者相互のあいだの競争にもとづいている。ブルジョアジーがその意志のない無抵抗な担い手である産業の進歩は、競争による労働者の孤立化の代わりに、結社による労働者の革命的な団結をつくりだす。

それゆえ、大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足もとから、ブルジョアジーが生産して生産物を取得する基礎そのものが取り去られる。ブルジョアジーは、なによりもまず、自分自身の墓掘り人をつくりだす。ブルジョアジーの没落およびプロレタリアートの勝利は、ともに避けられない。
(マルクス/エンゲルス著「共産党宣言・共産主義の諸原理」新日本出版社 p64-70)

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「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。
――「今に見ろ!」

 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。

「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」

「そうだな」

「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」

「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」

「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」

「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」

「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!
(小林多喜二「蟹工船」新潮文庫 p135-137)

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解 説
服部文男

 『共産党宣言』は、一八四八年二月末にロンドンで刊行された。刷りあがったのとほぼ同時に、フランスで二月革命が始まったという知らせがとどいたとされている。いまから一五〇年前、日本では明治維新(一八六八年)の二〇年前、すなわちアメリカのペリー提督の率いる「黒船」四隻が浦賀に来航して徳川幕府に「開国」を迫る五年前のことであった。

 『共産党宣言』にはもともと「序文」はなく、その初版(いわゆる「二三ページ本」)の表紙には著者の名前は見られない(扉も、「万国のプロレタリア、団結せよ!」というスローガンを欠く以外は同じである)。

 本訳書で『宣言』本文の前におかれたマルクスおよびエンゲルスの各種「序文」、とくに最初の一八七二年ドイツ語版への「序文」から明らかなように、『共産党宣言』は、当時の国際的な労働者組織「共産主義者同盟」の大会で、マルクスおよびエンゲルスに起草が委ねられた「綱領」であった。残されている原稿断片や書簡その他の資料に照らして、『宣言』の文章そのものは、マルクスが「同盟」大会の議事録などの諸文書にもとづいてエンゲルスの協力を得ながら作成したものであるが、たんなる個人的な著作ではなかったのである。

 この間の事情を、ややくわしく述べてみよう。

 もっとも進んだ資本主義国イギリスでは、一八三二年の選挙法改正によって、ブルジョアジーは議会で優勢になったが、労働者階級は選挙権からしめだされたので、労働者たちは一八三八年以降、普通選挙権(ただし成人男子だけの)の獲得をめざして、六項目の「人民憲章」(ピーブルズ・チャーター)を掲げて大衆的署名による請願運動を展開し、一八四〇年には労働者独自の全国的政治組織を結成した。いわゆるチャーティストたちの運動(チャーティズム)は、一八四二年に頂点に達した。

 フランスでは、一八三〇年七月革命によって「金融貴族」とよばれた大ブルジョアジーがルイーフィリップの王政を樹立したが、一八三一年にはリヨンの絹織物労働者たちが、「働いて生きるか、戦って死ぬか!」と記した旗を掲げて起ちあがり、わずか一〇日間ながらリヨン市の権力をにぎった。さらに一八三四年には、おなじリヨンで蜂起した労働者たちが、いっそう明確な政治的スローガンを掲げて共和制を要求した。

この頃、首都パリには社会主義および共産主義の種々の潮流があらわれ、なかでも少なからぬ政治的亡命者をふくむドイツ人労働者は数万に及んだ。一八三四年に結成された「亡命者同盟」(文字通りには「被追放者同盟」)、一八三六年ごろに、そのなかのプロレタリア的分子がわかれて組織した「正義者同盟」(「義人同盟」とも訳される)は、ともにこれらのドイツ人労働者からなる秘密結社であって、後者は、少数の分子による権力奪取をめざすフランス革命家ブランキの指導する秘密結社「四季協会」と密接な関係をもっていた。一八三九年五月、「四季協会」が蜂起するや、「正義者同盟」もともにたたかい、ともに鎮圧されて、逮捕された「同盟」の指導者はロンドンに追われた。

こうして、「正義者同盟」の活動の重心はパリからロンドンに移ったが、一八四〇年二月に設立された「共産主義的労働者教育協会」の活動を通じて、「同盟」はドイツ人の組織から、しだいに国際的な組織へと性格を変えつつあった。

 他方、イギリスやフランスにくらべて経済的にも政治的にも遅れていたドイツも、一八三四年の「関税同盟」によってようやく国内市場が統一され、とくに、一八一五年のウィーン会議によってプロシア王国に編入されていたライン州では工業が急速に発展したので、労働者にたいする搾取が強まり、農民の窮乏も深刻になった。一八四四年には、シュレージェン(現在のポーランド領、シロンスク地方)で織物労働者が蜂起した。彼らは私有財産制度にはっきりと敵対し、目に見える敵である工場主だけではなく、見えざる敵である銀行家にたいしても起ちあがった。こうしてドイツの労働運動は、イギリスやフランスのそれよりも先鋭な性格をおびるにいたった。

 以上のように、一八四〇年代には、イギリス、フランス、ドイツを中心として階級闘争がしだいに激化してきたが、一八四五年からは、フランスおよびドイツの農業が、穀物の不作とヨーロッパ全土を襲ったジャガイモ病とのために、深刻な危機におちいり、餓死するものがあいつぐとともに、飢えた人民の暴動がおこった。さらに一八四七年なかごろには、イギリスに経済恐慌が生じ、フランス、ドイツその他の国々に急速に波及したためにヨーロッパの革命的情勢は強まったのである。

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 当時、マルクスとエンゲルスとは、それぞれ異なった道を経てブルジョア経済学の批判を進め、唯物論と共産主義の立場をかためつつあったが、一八四四年夏に両者が会ったときには、意見の完全な一致をみた。以後、彼らは終生かわらぬ友情を結び、ともに労働者階級解放の事業のために身をささげた。

 彼らは、最初の共同著作『聖家族』(一八四五年二月刊行)についで、第二の共同著作として計画されたが公刊できなかった『ドイツ・イデオロギー』(一八四五年〜四六年執筆)において、唯物論的歴史観を展開し、資本主義社会の滅亡の不可避性と共産主義革命の必然性とを説いて、プロレタリアートによる政治権力の獲得の必要性を強調する「革命的実践」の理論をうちたてた。ここに、人類の思想史上でまったく新しい世界観、科学的社会主義の理論的基礎がすえられるにいたった。

 これ以後、マルクスとエンゲルスは、この新しい世界観を、ヨーロッパ、とくにドイツのプロレタリアートの間にひろめ、彼らに理論的武器をあたえようとして、その第一歩として、一八四六年二月、ベルギーのブリュッセルに「共産主義通信委員会」を設立し、イギリス、フランス、ドイツの労働者組織や社会主義団体のなかの意識の進んだ分子を結集しようとした。彼らの積極的な組織活動および政治的・理論的活動の結果、さきに述べたロンドンの「正義者同盟」の指導部のなかに、ロンドンにも設立された「共産主義通信委員会」の構成員がはいることになり、指導部の所在地もパリからロンドンに移された。

この新しい指導部は、一八四六年一一月、「同盟」の全組織にたいする「よびかけ」のなかで、大会を招集して、綱領として「簡単な共産主義的信条表明」を作成することが必要であると強調し、さらに「上層および下層のブルジョアジーにたいするプロレタリアートの立場」、「宗教的諸党にたいするプロレタリアートの立場」、「社会主義的および共産主義的諸党にかんするわれわれの立場とすべての社会主義者の世界的団結」という三つの間題についての討議をも要請した。

翌一八四七年一月には、彼らは密使をブリュッセルのマルクス、ついでパリにいたエンゲルスのもとに派遣して、「同盟」をプロレタリアートの闘争組織に改組するために、加盟と協力を懇請するにいたった。マルクスとエングルスは、加盟の条件として、権威主義や個人崇拝を助長するものすべてを規約からとりのぞくことを要望し、ここに科学的社会主義の理論と労働運動とは結合されたのである。

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 マルクスおよびエンゲルスにたいする加盟要請の直後一八四七年二月に、「正義者同盟」の指導部は第二の「よびかけ」を発し、来るべき大会では「短い共産主義的信条表明をつくり、ヨーロッパのあらゆる言語で印刷して、すべての国々にひろめなければならない」と述べさらに、「共産主義とはなにか、そして共産主義者はなにを望むか」、「社会主義とはなにか、そして社会主義者はなにを望むか」、「共産主義社会は、いかなる方法によれば、もっとも速やかに、かつもっとも容易に達成しうるか」という三つの問題を全組織の討議に委ねるとともに、第一の「よびかけ」のなかで提起した三つの間題をもあわせて、これらの討議の結果をできるだけ早く指導部に報告するよう求めた。

 一八四七年六月にロンドンで開かれた「正義者同盟」の大会には、マルクスは旅費を調達できなかったために欠席し、エンゲルスだけが出席した。大会の代議員は一二ないし一五名と推定されている。規約案は大会の承認をえたが、さらに「同盟」の全組織の討議をまって決定することとなった。その第一条は、「同盟の目的は、財貨共有制の理論の普及とそのできるだけ速やかな導入とによって、人類を奴隷状態から解放することにある」という不明確なものであった。しかし、「同盟」の名称は「共産主義者同盟」と改められ、また、これまでの「人間はみな兄弟だ!」というスローガンは、「万国のプロレタリア、団結せよ!」という階級的立場を明確にした闘争のためのスローガンに改められることになった。その後、九月に、大会の決定にもとづいてロンドンで発行された機関誌『共産主義雑誌』第一号(見本刷)の冒頭にも、この新しいスローガンが記された。

 綱領についても、この六月大会の最終日に討議の暫定的結論として「共産主義的信条表明草案」が作成された(本訳書の「付録」におさめられている)。この「草案」は全文がエンゲルスの筆跡で書かれ、書記ヴィルヘルム・ヴォルフおよび議長カールーシャッパーの署名があるが、内容的には旧来の見解とマルクスおよびエンゲルスの見解とが並存しているものであることは否定しがたい。

 この「草案」は、当時の秘密結社にみられた問答体形式をとっているが、「同盟」のブリュッセル班でも賛成がえられず、他方ヘスがパリ班に提出した修正案もまたとうてい満足できるものではなかった。エンゲルスは、パリ班での「草案」討議において、ヘスのこの「真正社会主義的」草案を徹底的に批判して、新草案の作成を一任され、一〇月下旬から一一月にかけて、やはり問答体形式による『共産主義の諸原理』を書いた(本訳書では『宣言』のつぎにおかれている)。さきの「草案」が二二の問答から成っていたのにたいして、この『諸原理』は二五の問答になっていること、また終わりの部分の同趣旨の問答の番号が相違すること、さらに第二二、第二三の問いにたいする答えが「もとのまま」とされていて、原案の文言がそのままエンゲルスによって採用されたとみられることから、エンゲルスの手書きの「草案」のほかに、なお新たな案文が作成されたという可能性がある。

 六月大会のあと約半年後に、第二回大会が一八四七年一一月二九日から一二月八日までの一〇日間、ロンドンで開かれた。今度はマルクスもエンゲルスとともに出席することができた。大会への出発直前に、エンゲルスはマルクスにあてた一一月二三日/二四日付の手紙のなかで、「問答形式をやめて共産主義宣言と題するのが一番よいと思う。そのなかでは多少とも歴史が述べられなければならないから、従来の形式ではまったく不適当だ」と述べた。そして、エンゲルス自身が書いたものについては、「私は、共産主義とはなにか、からはじめ、これにつづいて、ブロレタリアート──成立史、以前の労働者との違い、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立の発展、恐慌、諸結果となる。そのあいだにさまざまな付随的な事柄があり、最後に、公開すべきかぎりでの共産主義者の党の政策がくる」と記している。

 第二回大会の中心問題は、綱領の審議であった。マルクスとエンゲルスは、共産主義の原則についての詳細な説明をおこない、少なくとも八日間にわたる徹底的な討論ののちに、大会の全代議員はマルクスおよびエンゲルスのしめした原則を承認した。あわせて、六月の大会で一応の承認をえた規約に重要な修正を加えたうえで、全員一致で承認された(本訳書では、この規約は「付録」におさめられている)。

 第二回大会の終了後、マルクスはブリュッセルに帰りエンゲルスはパリにもどったため、二人がつねに共同して綱領の起草にあたることは困難となった。そこで、マルクスは、二度の大会の諸文書のほか、エンゲルスの『共産主義の諸原理』や、これについてのエンゲルスの上記の手紙の趣旨などを参考にして、『共産党宣言』の執筆に着手した。

 マルクスは、すでに六月の大会前後に、プルードンを批判した『哲学の貧困』を執筆しており、とくにその最後の部分、第二章「経済学の形而上学」第五節「ストライキと労働者の団結」において、イギリスの労働運動の歴史的経験にもとづいて、労働組合の意義、階級闘争の政治的性格、旧来の市民社会にかわる「協同社会」の展望をしめし、また一二月後半までブリュッセルのドイツ人労働者協会で数回にわたっておこなった「賃労働と資本」にかんする講義(のちに一八四九年四月に『賃労働と資本』という題で『新ライン新聞』に連載)や、その続編と考えられる手稿「労賃」のなかでも、資本主義社会の経済的諸関係および階級闘争を解明することによって、『共産党宣言』の理論的基礎をいっそう強固にすることにつとめた。

 ヨーロッパの革命的情勢がますます切迫しているにもかかわらず、マルクスの『宣言』起草の作業はなかなかはかどらず、「共産主義者同盟」の中央指導部は、一八四八年一月二四日付の決定によって、ブリュッセル地区指導部にたいし、強硬にマルクスを督促するよう依頼したが、原稿はほぼ時を同じくしてロンドンに発送されたこうして、『共産党宣言』は「労働者教育協会」の印刷所で印刷され、おそらく二月の最後の週には二三ページの小冊子として刊行された。初刷は、さしあたり「同盟」員のために百数十部が印刷され、二月革命勃発後、ロンドンで発行されていた週刊の『ドイツ語ロンドン新聞』の三月三日号から七月二八日号まで、一三号にわたって連載された。革命の敗北後、一八五〇年末から翌五一年初めの間に「三〇ページ本」がケルンで刊行されたものと推定されている。

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 上述したところからもわかるように、『共産党宣言』は「共産主義者同盟」の綱領として作成されたものであり、マルクスおよびエンゲルスの理論的、政治的さらに組織的な活動の産物である。歴史上はじめて国際的な革命的労働者組織をつくりだそうとしていた当時の労働者階級にとって、この『共産党宣言』は、この上ない行動の指針となった。さらに、これがヨーロッパの民主主義的活動家たちの間にもひろく普及したことも、つけくわえなければならない。なお、マルクスおよびエンゲルスが『共産党宣言』の著者であることが明らかにされたのは、一八五〇年一一月に前後して刊行された『ザ・レッド・リパブリカン』誌掲載の英訳への序文と、『共産党宣言』第三節が収録された『新ライン新聞 政治経済評論』誌の第五・第六合併号とにおいてであった。

 『共産党宣言』が教条(ドグマ)ではなくて、「行動の指針」である以上、社会の発展、運動の前進や、各国の特殊性におうじて、その理論が具体化され発展させられてきたことはいうまでもない。この点については、マルクスやエンゲルス自身がドイツ語各版やその他の各国語版のために書いた「序文」が重要である。とりわけ、一八七二年ドイツ語版への「序文」では、一八七一年のバリ・コミューンの経験にもとづいて、『宣言』の国家にかんする記述が「時代おくれ」になっていることが指摘されている。

 なお、『共産党宣言』の経済学的記述については、『賃労働と資本』をもふくむ一八四〇年代のマルクスおよびエンゲルスの諸著作と同じように、ブルジョア経済学批判の重点が賃労働と資本との敵対関係の解明におかれ、価値論、したがって剰余価値論がいまだ確立していなかったことに注意する必要がある。『共産党宣言』においても、『共産主義の諸原理』においても、「労働」が商品としてとらえられていて、「労働力」と「労働」との区別がまだなされていないのは、その特徴的な例である。一八四八〜四九年革命の敗北のためにロンドンに亡命したマルクスは、この地で経済学研究を「まったくはじめからやりなおす」ことによって、資本主義的搾取の解明にとっての土台となる科学的な価値論を樹立するために、一八五九年刊の『経済学批判』を経て、一八六七年刊の主著『資本論』第一巻にいたるまでの二〇年ちかい研究を積み重ねた。しかし、『資本論』のなかでも『共産党宣言』が一度ならず引用されていて、マルクス自身が研究の出発点の正しさを確認していることも見のがしてはならない。

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 最後に、『共産党宣言』の翻訳の底本について一言しておこう。「二三ページ本」は初刷のため誤植が多いということ、また、マルクスやエンゲルス自身が、その後のドイツ語版刊行のために「三〇ページ本」を土台としたものと考えられてきたこともあって、これまでのすべてのドイッ語や各国語版は「三〇ページ本」を底本としてきた。しかし、近年の研究によって、「三〇ページ本」は一八五〇年代に入って刊行されたものであることが明らかになり、たんなる誤植が正された反面、数箇所において語の脱落がみとめられるので、本訳はあえて従来の慣行に反して、『宣言』誕生の最初の姿を示そうとするものである。

 また、一八八八年英語版は、サミュエル・ムーアの翻訳をエンゲルスが校閲し、注を加えていることから、各国語版のなかでも重要なものであるので、エンゲルスによる注は、それぞれ見開きページの左端に置き、『宣言』本文の論述を中断することなく、ただちに注を参照できるようにした。また、英語訳はドイツ語原文の多かれ少なかれわかりにくい箇所を、いっそう平易な表現に改めている場合が多いので、下段の訳注では煩をいとわず、できるだけ多くの異同をしめすこととした。

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 わが国最初の『共産党宣言』日本語訳が堺枯川(利彦)・幸徳秋水の共訳で『平民新聞』第五三号に発表された(ただし第三節を欠く)のは一九〇四(明治三七)年一一月であるが、以来ほぼ一世紀の間に、復刻や改訂版をもふくめてその数は数十種に達し、その発行部数もまた、膨大な量にのぼっている。しかも、第二次大戦で日本帝国主義が敗北するまでの四〇年間、『共産党宣言』がとくにきびしく発行を禁止されていたことを考えるとこの翻訳の種類の多さは、まことにおどろくべきものがある。エンゲルスがポーランド語版序文で、「各国における労働者運動の状態だけではなく、大工業の発展程度もまた、その国の言語で普及している『宣言』の部数によって、かなり正確にはかることができる」と述べていることは、まさに日本についてもあてはまるのである。

 この「何巻もの書物全体に匹敵する」(レーニン)不朽の古典は、社会の現状と人類の将来を考えようとするすべての人々、とりわけ労働者階級にとって、これからもつねに「座右の書」となるであろう。(一九九八・九・一)
(「共産党宣言・共産主義の原理」新日本出版社 p161-169)

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◎「各国における労働者運動の状態だけではなく、大工業の発展程度もまた、その国の言語で普及している『宣言』の部数によって、かなり正確にはかることができる」と。