学習通信090312
◎日本で貧困ありえない……

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日本で貧困ありえない
世界に目を 甘えを捨てよ

作 家
曽野綾子さん
 (その・あやこ)一九三一年東京生まれ。代表作に「虚構の家」「神の汚れた手」「狂王ヘロデ」など。八七年「海外邦人宣教者活動援助後援会」設立、神父、修道女に直接、募金を届ける活動を続けている。

 貧困は悲劇だ。日本でも社会問題化しつつある今だからこそ、より悲惨な世界の現状を知るべきだと作家の曽野綾子さんは語る。曽野さんの見た真の貧しさとは。

 日本でも最近、貧困が取りざたされるようになった。しかし、私はいつも違和感を覚えずにいられない。長年、アフリカやインドで見てきた貧困の実態と、日本のそれとはあまりに差があるからだ。

 もちろん人にとって何が幸福で不幸かは主観が決める。それぞれの社会にはおのずと平均とされるレベルがあり、そこに到達しないとみじめになったり、社会から脱落したと考えたりするのも当然だ。

 それでもなお、真の貧困とは何かを日本人はもっと知るべきだと思う。弱い者への理解は、他者への優しさと想像力を養う。同時に私たち自身が弱い者となったとき、生き延びる知恵を与えてくれる。

■曽野さんは世界の最貧国で働く邦人宣教師の支援を通じ、人が入らしく生きられない過酷な暮らしを見てきた。

 「貧困とは、その日、食べるものがない状態」と私は定義している。日本には世界レベルでいう貧困な人は一人もいない。コンビニに食品があふれ、生活保護が受けられれば、職が見つかれば食べられる、という状態は真の貧困とは呼ばない。本人だけでなく親類中、あるいは村中どこを探しても食べる物がない状況が世界レベルの貧困だ。

 アフリカではエイズとわかった子供に親は食事をやらない場合がある。元気な子にも十分与えられないのに、助からない子に回す分はないと考える。難産の妊婦がいても電話がなく、救急の組織もない。たとえ救急車を呼べる国でも速度の出せない悪路を走るため、病院に着く前に絶命するけが人は多い。

 日本でも産婦人科医の不足や救急医療の不備が叫ばれているが、私たちは病気になれば病院に行き、治療を受けられるのが当然と考えることを許されているだけ恵まれている。そうした発想自体がありえない国は多い。

 地球上には、解決不能な貧困と飢餓を抱えた地域が山とある。それに比べて日本の貧困は解決可能だ。現状は適切な対策が講じられていないのであり、絶望することはない。

■貧しい人々が受け入れている「現世の理」には。学ぶべきものもあると曽野さんは説く。

 インドでも南米でも、あちこちで建てかけの家や学校を目にする。そこまで造ってお金が尽きたらしい。日本人なら借金して全部造るか、途中で終わるくらいなら初めから着工しないだろう。だが彼らは「できるだけ、できる時に」と考える。理想ばかり先にたち、かなえられないと不満を募らせる日本人より、私はその理にかなった生き方に親しみを覚える。

 日本人は道路にお金がいる、ないから造れないという。それは金持ちの貧しさ。お金がないなら、さし当たり舗装することはない。雨が降れば水はたまるが、定期的に整備して砂利をまけば使える道路を私は見てきた。子供たちには時々、土の道を裸足で歩く体験をさせたらいい。弱い人を思う心も育つと思う。(聞き手は文化部 白木緑)
(「日経 夕刊」20090311)

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 近年、「ワーキングープア」という言葉が日本社会でも知られるようになった。その言葉は、働いているか、働ける状態にあるにもかかわらず、憲法二五条で保障されている最低生活費(生活保護基準)以下の収入しか得られない人たちのことを指す。最低生活費は、たとえば東京二三区に住む二〇代、三〇代の単身世帯であれば、月額一三万七四〇〇円(生活扶助八万三七〇〇円+住宅扶助上限五万三七〇〇円)。夫三三歳、妻二九歳、子四歳の一般標準世帯なら、二二万九九八〇円(生活扶助一六万一八〇円+住宅扶助上限六万九八〇〇円)である。さまざまな税額控除も勘案すれば、大都市圏で年収三〇〇万円を切る一般標準世帯であれば、ワーキング・プアの状態にあると言っていい。前述の五人世帯は、明らかに最低生活費を割り込んでいた。

 日本社会には今、このような状態で暮らす人々が増えている、と想像される。「想像される」としか言えないのは、政府が調査しないからだ。貧困の広がりを直視せず、ただ「日本の貧困はまだたいしたことない」と薄弱な根拠に基づいて繰り返すだけなのが、二〇〇八年現在における日本政府の姿である。

 その政府見解は、「日本の貧困は、世界の貧困に比べたら、まだまだ騒ぐに値しない」という世間一般の素朴な考え方に後押しされている。国連が定める絶対的貧困線である一日一ドルを超える収入があれば、生活が苦しくても貧困とは言わないと考える人は、少なくないかもしれない。しかし、貧困の実態は所得のみから理解されるべきものではないし、また貧困の指標は一つではない。本書では、その視点も提示するつもりである。日本の貧困者が一日一ドルを超える収入があったとして、それは「日本に貧困がない」ことを意味するものではない。世界の貧困への関心の強さを、国内の貧困を見えないままに止める隠れ蓑に使わせてはならない。
(湯浅誠著「反貧困」岩波新書 pB-C)

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いかに多数の人が貧乏しているか(上編)

一の一

 驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である。一昨昨年(一九一三年)公にされたアダムス氏の『社会革命の理』を見ると、近々のうちに社会には大革命が起こって、一九三〇年、すなわちことしから数えて十四年目の一九三〇年を待たずして、現時の社会組織は根本的に顛覆(てんぷく)してしまうということが述べてあるが、今日の日本にいてかかる言を聞く時は、われわれはいかにも不祥不吉(ふしょうふきつ)な言いぶんのように思う。しかし翻って欧米の社会を見ると、冷静なる学究のロからかかる過激な議論が出るのも、必ずしも無理ではないと思わるる事情がある。英米独仏その他の諸邦、国は著しく富めるも、民ははなはだしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国における多数人の貧乏である。

 私は今乾燥無味の統計を列挙して多数貧民の存在を証明するの前、いうところの貧民とはなんぞやとの間題につき、一応だいたいの説明をする必要がある。

 昔釈雲解という人あり、「予他邦(たこく)に遊学すること年有りて、今文政十二己丑(きちゅう)の秋郷に帰る時に、慨然として心にいたむ事有りて、一夜これを灯下に草して里人にあとう」と言いて『生財弁』一巻(『通俗経済文庫』第二巻に収む)を著わす。その中にいう「貧しきと賤しきとは人の悪(にく)むところなりとあらば、いよいよ貧乏がきらいならば、自ら金持ちにならばと求むべし、今わが論ずるところすなわちその法なり、よっていっさい世間の貧と福とを引き束ねて四通りを分かつ、一ツには貧乏人の金持ち、二ツには金持ちの貧乏人、三ツには金持ちの金持ち、四ツには貧乏人の貧乏人」。すなわちこの説に従わば、貧乏人には金持ちの貧乏人と貧乏人の貧乏人との二種あることとなる。

 今余もいささか心にいたむ事あってこの物語を公にする次第なれども、論ずるところ同じからざるがゆえに、貧乏人を分かつこともまたおのずから異なる。すなわち余はかりに貧乏人を三通りに分かつ。第一の意味の貧乏人は、金持ちに対していうところの貧乏人である。しかしてかくのごとくこれを比較的の意味に用い、金持ちに対して貧乏人という言葉を使うならば、貧富の差が絶対的になくならぬ限り、いかなる時いかなる国にも、一方には必ず富める者があり、他方にはまた必ず貧しき者があるということになる。たとえば久原に比ぶれば渋沢は貧乏人であり、渋沢に比ぶれば河上は貧乏人であるというの類である。しかし私が、欧米諸国にたくさんの貧乏人がいるというのは、かかる意味の貧乏人をさすのではない。

 貧乏人ということばはまた英国のpauperすなわち被救惶と(ひきゅうじゅつしゃ)という意味に解することもある。かつて阪谷博士は日本社会学院の大会において「貧乏ははたして根絶しうべきや」との講演を試み、これを肯定してその論を結ばれたが、博士のいうところの貧乏人とはただこの被救恤者をさすのであった。(大正五年発行『日本社会学院年報』第三年度号)。

私はこれをかりに第二の意味の貧乏人と名づけておく。ひっきょう〔結局〕他の救助を受け人の慈善に依頼してその生活を維持しおる者の謂(いい)であるが、かかる意味の貧乏人は西洋諸国においてはその数もとより決して少なしとはせぬ。たとえば一八九一年イングランド(ウェールズを含む)の貧民にして公の救助を受けし者は、全人口千人につき平均五十四人、すなわち約十八人につき一人ずつの割合であり、六十五歳以上の老人にあっては、千人につき平均二百九十二人、すなわち約三人に一人ずつの割合であった。統計は古いけれども、これでその一斑〔物事の一部〕はわかる。さればこの種の貧民に関する間題も、西洋諸国では古くからずいぶん重要な間題にはなっているが、しかしこれもまた私がここに問題とするところではない。

 私がここに、西洋諸国にはたくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のことで、かりにこれを第三の意味の貧乏人といっておく。そうしてそれを説明するためには、私はまず経済学者のいうところの貧乏線の何ものたるやを説かねばならぬ。(九月十二日)
(河上肇著「貧乏物語」新日本出版社 p13-16)

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◎「たくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のこと」と。