学習通信090313
◎三・一運動の宣言は教えてくれている……

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お世話になった先輩や机をならべて仕事した仲間が、相次いで亡くなりました。知人、友人の悲報に接したとき、必ず思い起こす話があります

▼迫る死をどう迎えるかについて、です。ある科学者がこんなふうに語っていた、といいます。そのとき、いったいなにがおこるのか。確かめてみたい=B自分自身の終わりさえ未知の体験として観察してみたいという、あくなき好奇心です

▼科学者らしい考えですが、同じような気持ちで最期のときを受け入れられたら、と思わないでもありません。しかし、死が急に訪れた場合にもあてはまる願望なのでしょうか

▼「きってんさん」と親しまれ、参院議員としても日本の変革につくした元赤旗編集局長の吉岡吉典さんは、心筋梗塞で亡くなりました。一日、韓国ソウルで。一九一九年3・1独立運動の九十周年を記念するシンポジウムで、報告・発言した直後でした

▼日本からの独立を求め、弾圧に抗し全土で二百万人が集会や行進に加わっていった独立運動。パゴダ公園で発した「独立宣言」は、つぎのようにうたいました。「われらはここに、わが朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民であることを宣言する…」

▼昨日のお別れ会で、吉岡さんの最後の発言の録音が流れました。日本を、韓国の3・1のような誇るべき記念日をもつ国にしなくてはならない=B吉岡さんに、最期の自分をみつめる時間はなかったかもしれません。けれど、感動を与えた言葉は遺志となり人々に伝わってゆくでしょう。
(「赤旗」20090308)

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3月1日
 朝鮮で日本の支配に反対して独立運動がおこった。
 一九一九(大正八)年

 ソウルのパゴダ公園は人々で埋めつくされていた。一人の青年が壇上にかけのぼり、興奮した口調で一枚の紙を読んだ。「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自由民であることを宣言する。」これに呼応して「独立万歳」の歓声がわきあがった。これをきっかけに、日本の植民地支配に抵抗する運動は朝鮮全土に広まり、参加者総数は二〇〇万にも及んだが、軍隊・警察の力で、むざんに弾圧された。水原では、日本軍が村のキリスト教徒ら数十人を教会堂に集め、窓や戸を閉めて中にとじこめ、堂内に一斉に射撃を加えた。
(永原慶二著「カレンダー日本史」岩波ジュニア新書p36)

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 ……三・一運動は、ロシア十月革命と第一次大戦後の世界史的大変動の一環をなすものであった。それを東アジアに限定してみても、日本における一九一八年八月の米騒動、朝鮮における一九一九年の三・一運動、中国における同年の五・四運動と連動しているのである。とりわけ五・四運動前夜の北京では、陳独秀、傅斯年らが『毎周評論』『新潮』などの誌上で、三・一運動を「世界革命史の新紀元」(陳独秀)、「世界の革命はいまだ終っていないが、この精神(三・一精神)は必ずや継続していくであろう」(傅斯年)とのべている。

 三・一運動は朝鮮民族解放運動の発展過程からみれば、李朝末期までの東学系の甲午農民戦争、衛正斥邪系の反日義兵闘争、開化派系の愛国啓蒙運動などの諸潮流が、武断政治下における一〇年間の雌伏期を経て一つに合流した運動であり、一九二〇年代からはじまる新しい運動への起点としての位置を占めている。三・一運動を起点として朝鮮民族解放運動は、民族主義と社会主義の二つの潮流に分かれるが、しかしそのいずれも、階級的立場の差はあるにせよ、民族の独立と解放を第一次的課題として、日本の植民地支配をゆさぶりつづけたのである。
(姜在彦著「朝鮮近代史」平凡社選書 p200)

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朝鮮三・一独立運動と大韓民国憲法
──「独立宣言」から学ぶもの
井口和起

民族に受け継がれる精神

近代史上最大
の拳族的運動

 朝鮮三・一独立運動というのは、一九一九年三月一日を期して起こった朝鮮近代史上最大の挙族的な民族独立運動です。来年、九〇周年を迎えます。

 この運動の最大の示威行動は朝鮮独立宣言文や檄文をつくり、読み上げ、全民族と世界に訴えることでした。宣言文や檄文の内容には三つほどの特徴があります。

 @第一次世界大戦後、武力と侵略主義の時代は終わり、平和と人類の共存・共栄、そしてすべての民族の独立などが実現する時代へと世界は大転換期を迎えている、だから朝鮮の独立を最後の一人に至るまで我々は宣言し続ける。

 A日本は日清・日露戦争で朝鮮の独立や保全を掲げたが、それらはすべて裏切られた。一九一〇年の「併合」以来、朝鮮民族は過酷な植民地支配を受けてきた。しかし、そのことで日本を恨み、排斥し、敵対しようと我々はいわない。両民族の友好を求めているのだ。

 B日本国民が世界の大転換を自覚し、自らが軍国主義の犠牲となる愚かさを克服し、朝鮮独立を認め、中国とも手を結び、「束洋平和」の担い手になることを望んでいる。

 運動は日本に武力で鎮圧され、パリ平和会議で国際的に訴えようとした試みも成功しませんでした。世界も「大転換」はせず、第二次世界大戦まで起こりました。しかし、この運動のなかで大韓民国臨時政府が共和制政府として生れ、最初は上海で、アジア・太平洋戦争期には蒋介石政権のあった重慶で活動を続けました。国内に基盤を持たず、国際的にもほとんど承認されてはいませんでしたが、対日宣戦布告もしています。

宣言の理念を
継承し続ける

 ところで、大韓民国の現憲法の前文は、大韓民国はこの三・一運動で生れた「大韓民国臨時政府の法統(法的伝統──井口注記)」と李承晩大統領の支配を打ち倒した一九六〇年の四月革命の「民主理念」を継承し、「祖国の民主改革と平和統一の使命」に立脚して、正義・人道・民主・人権を重んじ、「内には国民生活の均等なる発展」、「外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献」すると謳っています。

 一九四八年七月に制定された最初の憲法前文でも大韓民国は三・一運動で創建された国家の伝統を「継承」するといい、これに基づいて八月に李承晩を大統領とする大韓民国政府が成立しました。朝鮮半島南半部では冷戦下に、米軍政庁が先の大韓民国臨時政府の初代大統領だった李承晩を担ぎ出して憲法を制定し政権をつくったという事情がこの憲法の根底にはあります。

 しかし、現在の第九次憲法(一九八七年制定)に至るまで、すべての憲法で大韓民国が三・一運動で創建された国家の伝統を継承するという精神の表明は削除されていません。李承晩政権が倒されても変えられてはいないことに大きな意義があると私は思います。三・一運動の精神が朝鮮民族全体に受け継がれているからではないでしょうか。

お互いの基本
精神で対話を

 日本国憲法は前文で恒久平和を念願し、第九条では戦争放棄を定めています。しかし、現実はそのようには進んでいません。同じように、大韓民国憲法でも謳われていることと現実の間には大きな食い違いがあります。

 しかし、韓国では、憲法第五条一項で「侵略戦争を否認する」としています。この「侵略戦争否認」条項を根拠にイラク派兵の兵士に加わることを拒否して獄中で闘っている若者がいることも報じられています。

 たがいの憲法の基本精神に立ち戻り、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」(日本国憲法前文)、対話を重ねれば、いわゆる歴史問題をはじめ日韓あるいは日朝両国間の多くの懸案事項にも解決の道はみつかるはずだと、三・一運動の宣言は教えてくれていると私は思っています。
(「京都民報」20080316)

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◎「日本を、韓国の3・1のような誇るべき記念日をもつ国にしなくてはならない=vと。