学習通信090316
◎時代の要請に……

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シリーズ
現代の視点
地球温暖化を予想する気候モデル
「もう一つの地球」で未来探る

 国立環境研究所地球環境研究センター温暖化リスク評価研究室長の江守正多さんは、地球温暖化に関する科学的知見をとりまとめているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第四次報告書にかかわった温暖化予測研究者です。近著『地球温暖化の予測は「正しい」か?』(化学同人)で、温暖化予測の主役ともいえる「気候モデル」の実像を一般向けに書いています。その研究について聞きました。

国立環境研究所
江守正多さんに聞く

──気候モデルで温暖化を予測する研究というのは?

物理の法則で
計算繰り返し

江守……気候モデルというのは、コンピューターの中に、実際の大気と海と同じような仕組みで、気候を決める気温や風などが変化する「もう一つの地球」を方程式で作り出したものです。それがどうしたら実際の地球に近づくか、近づいたことをどうやって確かめるかも研究しています。モデルが出来上がったら、それを使って二酸化炭素が増えたら気候がどう変化するのかを、世界の社会経済の発展についてのシナリオを与えて、シミュレーション(模擬実験)して予測を出します。そしてコンピューターの中で計算されたことが現実の地球でどういう確率で起きるのか、どんな仕組みで起きるかを調べたりする研究もします。

──シミュレーションというのは?

江守……物理の法則にもとづいて未来を予測することです。地球の大気や海の運動は複雑ですが、原理としては、ボールを真上に投げるとき、ニュートンの運動方程式を解いて、ボールが何秒後の「将来」に、何メートルの高さにあるかを予測するのと一緒です。ボールであれば、ボール投げの運動方程式、ボールにかかる力と、最初に与えられた条件が決まれば、何秒後にどうなるかは、方程式を解いて計算することでわかる。同じように気候モデルのシミュレーションも大気の空気の塊や海の水の塊が物理の法則に従って、十分先はどうなっているのか、次の十分後、次の十分後…と延々と繰り返し計算して百年先を予測しているわけです。

──気候モデルではおもに大気や海洋、陸面などの方程式からできているそうですが、ご自身の研究は?

温室効果持つ
雲の役割研究

江守……雲のモデルです。雲は非常に重要な役割をしています。日射を反射して地球を冷やすし、同時に地面から出てくる赤外線を吸収し、地面に向かって赤外線を出すという、二酸化炭素と同じような温室効果を持っています。どこで増えるか減るかによって地球全体の気温が大きく変わります。しかし、コンピューターの中で精度よく再現するのが難しい。現在、温暖化予測を計算する場合、大気を水平方向に一辺数十`bとか百`bの格子に区切ってそれぞれ計算していますが、雲は薄かったり濃かったり、いろいろ複雑な存在の仕方をしていますから。それで水蒸気の分布のばらつき方を新たに計算に組み込んだりしています。

この研究はある意味で職人芸的な面もあり、観測データと比べて不完全さを探してはモデルを少しずつ改良します。それを繰り返しながらも、シミュレーションは確実に科学的に現実に近づいています。IPCCの評価報告書は第三次から第四次の間に六年かかっています。そのたびにモデルを改訂していますが、雲のモデルも次に向けて改訂します。

──最新のIPCC報告書は百年後の気温の上昇量は一・一〜六・四度、海面水位は一八〜五九a上昇と予測。大雨・豪雨が世界中で増え、日本では温度が上がり梅雨が長くなり、大雨が多くなるなど気候が変化するとしています。気候モデルの役割をどう考えていますか?

放置できない
捉え方前提に

江守……温暖化の問題はある意味で政治が先に進んでいまして、国際交渉で国家間の駆け引きがあり、産業界と市民運動の駆け引きがあって、目標を決めようとしている。そのなかで解釈に幅がありながらも、このまま二酸化炭素を出し続けて放っておくと平均気温が二度とか三度、四度上がる、上がると大雨も増え、暑い日も増え、社会的にも影響があり、海面も上昇する。少なくともそういう捉え方が前提になって交渉がやられています。その意味で予測情報は重要な役割を果たしています。

しかし同時に、地球のように複雑なものを科学が扱う場合、不確実な情報しか提供できません。不確実とは全然はっきりしないという意味ではありません。ある程度わかるが幅があるとか、ある程度わかるが百%言いきれないということです。温暖化はそういう材料で意思決定しなければいけない。同じことは、降水確率とか不確かな情報で意思決定を迫られることを私たちは日常的におこなっています。

理性に基づき社会を変える

──温暖化予測の将来は?

江守……現在、二〇一三〜一四年に出されるIPCCの第五次報告書に向けて世界中で研究が進められていますが、これまでの典型的な温暖化予測の計算は二一〇〇年までの百年間に限るものでした。それは一つの目安として意味がありますが、より短い時間スケールと、より長い時間スケールで予測しようというシミュレーションがおこなわれようとしています。短い方は、当面二十年先という、自分たちが生きているうちに、しかも社会が温暖化による影響を小さく抑えるために手を打てる方法を考える上で有効な情報となる近未来の予測です。

二酸化炭素を
半減するには

──長期の予測は?

江守……二三〇〇年ごろまでの予測です。温暖化をどこで止めるかという安定化目標ですね。人類が排出している二酸化炭素は自然の吸収量の倍以上ですから、二酸化炭素の濃度の増加速度をゼロにするには、誰が考えても大気中に排出する二酸化炭素を半分以下にする必要があります。いつそれを達成するのか。海面上昇も二一〇〇年は五八aと予測していますが、もっと先の人類のことを考えたら一b、二b上がるかもしれませんし、氷がどれだけ解けるか、生態系がどうなるのか、そういうことも含めてシミュレーションをおこないます。

──「温暖化は人類の文明にとっての問題」だと強調していますね。

江守……人によって、自分が死んだあとの人類のことにどれくらい思いをはせるのか、さまざまでしょうけれど、科学的な視点でみれば、現在の文明を存続しようと思えば、いつか二酸化炭素を出さない文明に移行しなくてはならない。放っておいてもそうなると思います。つまり破局的な事態をへてそうなるのか、ゆるやかに移行するのか、それは今生きている人類の英知にかかっているんじゃないかなという気がします。

──「地球温暖化の物語は、閉塞した現代社会の中に久々に出現した、マルクス主義以来の『大きな物語』」とも書いています。

時代の要請に
応えるために

江守……マルクス主義について私の理解は、理性にもとづいて社会を変えていく大きな運動です。人類には地球温暖化という制約条件があり、その制約条件を解決しないと人類が存続しませんという予測が出ている。そこで、エネルギーや産業構造、社会構造、ライフスタイル、価値観も含めて、世の中をどう変えていこうかという大きな枠組みが改めて提起されると思ったので、あえてそういう言い方をしてみました。そういう時代の要請に応える大きな動きに参加していると思うと、元気が出ますね。
(おわり)
(えもり・せいた 国立環境研究所地球環境研究 センター温暖化リスク評価研究室長)
(「赤旗」20090302〜3)

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地球はつねにダイナミックに変化している!

 一方で、地球史という大きな時間軸のなかで見れば、気候変動自体は未曾有の異常事態では決してなく、むしろ気温も海面も上がったり下がったりするのは地球の「常態」でもある。

 決して人類の自然破壊や過剰な炭素排出を容認するつもりでいうのではない。しかし、「CO2排出さえ減らせば温暖化は防げるはずだ」「気候変動は地球の本来の姿から逸脱した異常事態であって、本来は、地球環境は安定したものだ」というナイーブな思い込みのほうが、長い眼でみれば炭素排出よりずっと大きな被害をもたらしかねない危険な誤解なのではないか?

 地球はつねにダイナミックに呼吸し、変動する生きた星だ。プレート・テクトニクスという数万年〜数億年スケールの地球のダイナミズムが地震や火山噴火といった局所的で突発的な地殻変動として表われることもあれば、エルニーニョ現象のように何年かに一度、世界中で異常気象を引き起こす地球規模の海水温と気流の変動として現象することもある。太陽活動の増減リズムや地球の自転・公転運動における微妙なゆらぎが、気候変動や氷期・間氷期のリズムに関係しているといった惑星的な文脈もある。

 もっと大きなタイムスパンで見れば、地球の気候や風景はつねにドラスティックに変化してきた。近年の地球史研究は、現在私たちがあたりまえに地球の自然≠ニみなしている風景(酸素に満ち溢れた大気、それを呼吸する生物圏、緑に覆われた大陸……)などはすべて地球の歴史のなかでは比較的最近のものだということを教えている。(たとえば初期の地球に酸素はなかった。酸素は光合成バクテリアの繁殖に伴って地球に新たに付加されたものであり、その酸素O2が大気中に飽和して一部がオゾンO3に変わり、オゾン層が地球のUVカット層として紫外線から地表を保護するに至ってはじめて生物が海から陸上に上がって進化することができたのだが、それはわずか四億年前のことだ)。

 そんな大きなタイムスケールは現代の私たちには関係ないというなら、人類(ホモサピエンス)が生きてきたタイムスパンのなかで見ても、地球の気候や環境が劇的に変化してきた事実を思い起こすべきだろう。

 たとえば二万年前の最終氷期には海面は100メートル以上も低く、アジア大陸と日本は陸続きだった。地球史的にみて例外的に気候が安定した期間≠セったといわれるこの一万年ほどの間でも、たとえば六千年ほど前の縄文期には、温暖化により海面が現在より5m以上も高く、東京湾が埼玉県の大宮あたりまで入り込んでいたとか、逆に十八世紀ごろは世界的な寒冷化傾向で飢饉が東西で発生し、それがフランス革命の一因になったといった変動もあった。

 これらはすべてここ数十年間の地球史研究の劇的な進展──地層や年縞のレコードに針を落として地球の物詰を聴き取るような地道な作業を通じて明らかになってきた新事実なので、まだプレートテクニクス理論もなかった頃に育った世代が旧い地球観をもとに思考し行動するのは理解できないことではない。しかし、いまや常識は変わったのだ。「地球環境はかつても、これからもずっとこのような風景であり続ける」という思い込みをまずリセットする必要がある。

 私たちの時間的な想像力を少しブロードバンド化してみれば、急激な温暖化も寒冷化も海面のドラスティックな昇降も地球の「常態」であり、人類や他の生物につねに大きなライフスタイルのシフトチェンジを迫ってきたものだった。エルニーニョ現象のような気候変動も地球の自然な揺らぎの一環であり、決して異常°C象というべきものではないかもしれない。地震や火山噴火だって、たまにしか起こらない異常事態ではなく、地球の生理に基づく健康な地球の胎動であり、こうしたさまざまな次元での「変動」を前提として、それに適応しうるだけの骨太なソーシャルデザインをここからはじめるべきだ。それが地球という生きた星のダイナミズムを大きな時間的・空間的視野のなかで捉えはじめた地球世代≠フ新たなコモンセンスとなるはずだ。

 地球の変動や変化は止められなくとも、変動に対して耐性のある強靭(ロバスト)な社会を設計することは出来る。本書で詳述するように、二十世紀型の脆弱なグローバリズムをリセットして、自立分散と多様性に基づく新たな「地球安全保障」の体制を構築するのがまず急務だろう。また、異常気象や気候変動をコントロールすることは出来なくても、それを精確にモニタリングし予測する「地球診療システム」によって、その被害を最小限に抑え、地球の呼吸にダイナミックに同調・適応してゆくことも可能なはずだ。近未来の大規模な気候変動や海面上昇を前提として、世界の沿岸大都市をたとえ水没しても大丈夫な<宴fィカルなデザインヘと転換することも考えうる(第四章)。

 変動する地球を前提として、地球目線≠ナ考えれば、既存の常識をリセットして、もっと大胆に私たちの未来をデザインすることもできる。水没≠オたっていいじゃないか。気候が変わり、見慣れた風景が変わってしまっても、平然とそれに適応して新たな都市文明を構築していくような、たくましい人類でありたい。

 そんな簡単に言うなと怒られるかもしれないが、たとえば日本の首都・東京だって、ほんの四百年前の徳川家康による江戸開幕までは海辺のさびしい漁村にすぎず、日比谷も海だった。それを埋め立てて大名屋敷「丸の内」を創ったが、それも明治維新でゼロリセット──しかし再びそれからわずか数十年で世界に冠たるモダン都市に変貌したのだ。何事も初めから所与のものとして在ったわけではない。誰かがゼロから創り出したものであり、絶えざる自己変革の集積なのだ。そんな伝統をもつ私たちなのだから、気候変動で常識をゼロリセットして都市を再構築していくことなどわけはない。

 それに、どうせならこうした「変動を常とする地球に適応・共生しうる柔らかくて強靭な社会のデザイン」というワクワクするような文明史的課題を、常日頃から地震や火山噴火や台風などが多発するダイナミックな「変動帯」に位置する日本(──そして一方では、残念ながら食糧やエネルギーの自給率が極めて低く、世界の気候変動や需給構造の揺らぎの影響を顕著に受けるという意味でも「変動帯」となってしまっている日本)が、そろそろ正面から引き受けずに、一体どこが先導しうるというのか?

「災い」と「恵み」──持続可能性≠超えて

 実は台風や地震や火山噴火すらも、海と大地を生き返らせる地球の循環経済の不可欠の一部であり、地球の「好都合な真実」の一つである。

 私たちのからだと同様に、この惑星もつねに流れ、揺らぎ、呼吸しながら動的な平衡を維持する自己組織系にほかならない。変動する地球のダイナミズムは、しばしば私たちに「災い」と経済損失をもたらす。だが地球の健康維持という観点からみれば、台風は海を深い部分まで攬拌(かくはん)して冷たい深層海水の「恵み」を表面にもたらすことで、海をよみがえらせるポジティブな役割も果たしている。

 もし台風という巨大な海の攬絆装置がなければ、あるいは地球内部のミネラルを地表にもたらし、豊穣な大地を形成する地震や火山の活動がなければ、私たちの生命経済の根幹はもっとやせ細った貧しいものになっていただろう。

 また火山噴火による膨大なCO2排出(=温室効果の増大)と、海洋へのCO2の吸収・貯蔵(=温室効果の削減)──特に光合成植物プランクトンによる炭素の固定と深海への沈降・輸送が、長い目でみれば地球の炭素循環の収支を調整し、まるでサーモスタットのように地球の気温を生物の繁殖に適した範囲に保ってきたといわれる。

 炭素経済ブーム≠フ昨今では、炭素の輪はまるで人間界とせいぜい森だけで完結しているかのような錯覚を与え、火山も海も私たちの視野の「外部」に忘却されがちだが、地球史的なスケールでみれば、これらが温室効果のアクセルとブレーキのような役割を果たしてきたのだ。もちろん数十年〜数百年スパンの現代の温暖化議論と数千〜数万年スケールの地球の炭素循環を同列に論ずることは出来ないにしても、少なくともこうした地球のダイナミックな循環システムが、「人間の都合」を超えた恵みと均衡をもたらしていることは確かだ。

 〇八年夏の洞爺湖サミットは、日本からこうした「変動パラダイム」の地球観とそれに基づく地球文明デザインを発信するという点でも格好の場だったはずだ。

 風光明媚な自然のイメージとは裏腹に、実は洞爺湖は十年ほど前まで死の湖≠ニ呼ばれていた。近くの硫黄鉱山からの排水による汚染で魚一匹見かけることもなくなり、近代開発の歪みを集約したような光景が広がっていた。それを甦らせたのは、ほかでもない有珠山の噴火だった。

 大量の火山灰は周辺のまちを覆ったが、同時に汚水で酸性化した湖を中和して元の清水に戻す役割を果たした。また火山がもたらしたリンなどの豊かなミネラルに支えられて、植物プランクトンが大繁殖し、食物連鎖が甦って、いまや体長一mを超えるサクラマスが獲れるまでに豊かな生命経済が回復した。

 「災い」と「恵み」の両面を秘めたダイナミックな地球のイメージ。地球の変動のダイナミズムが災いとしてのみ一面的に捉えられがちなのは、私たちの文明の「未熟さ」を表わしているのであって、もっと柔らかく変動に適応・共生しうる文明がデザインできれば、それは本来大きな恵みでありうるはずだ。変動を「災い」とするか「恵み」とするかは私たちの側の問題なのだ。

 これは「持続可能性」という消極的な概念にかわる、もっとポジティブな地球文明の指標を提示することにもつながる。何とか現状のままでいつまでも……≠ニいったニュアンスのこの言葉は、どうも地球と人類に似つかわしくない。

 地球はつねに環境がダイナミックに変動・変化するという意味でも、またその変動を通じて災いとともに豊かな恵みももたらす(=恐しいまでに生産的・増殖的な存在である)という意味でも、このような消極的な価値観で表現されるような死んだ星ではない。これは、能産的な地球と人類の創造性の両方に対して失礼な、消極的すぎる概念ではないか?

 そして「変動帯」に位置する日本は、とりわけ死と再生のドラマを経た洞爺湖という舞台は、そういうダイナミックでおおらかで能産的な文明観を提示しうる格好のトポスとなりえたはずだ。

 また火山という地球内部のダイナミズムとともに、その後の生態系再生の基盤となった植物プランクトンの光合成は、地球内部では決して完結しない「宇宙的文脈」での地球経済のなりたちを思い出させてくれる。

 太陽系の第三惑星として太陽の恵みを無尽蔵に受ける地球という星の本来のエネルギー経済──石油などの化石燃料のストック消費から、フローの太陽エネルギーをエレガントに捕獲・貯留して地球の生命経済の輪をまわしてゆくという植物モデル≠フエネルギー文明へのパラダイム転換を、こうした「変動する地球と共生するロバストな人類社会デザイン」という課題とセットにして世界にむけて提示することこそ、日本という特権的なトポスで開催する地球サミットの面目躍如ではなかったろうか?

 少なくとも地球サミットという名にふさわしく、地球目線で経済と文明をデザインする政治的イニシアティブの場へと進化することを考えない限り、先進主要国サミットはまもなくその存在意義を失うことになるだろう。

人類と地球の共進化

 もとより地球の変動は、人類の側の革新を呼び起こすトリガーとなる、という意味でも「恵み」をもたらしてきた。

 たとえばおよそ一万二千年前、最終氷期後の「温暖化」につづく突然の逆転現象──急激な「寒冷化」(前述のような北極圏の氷の融解による北大西洋海流=熱のベルトコンベアの停止が原因と考えられている)のなかで、森が失われた中東で食糧不足に直面した人類は、寒冷で乾燥した気候のなかでも生き延びる小麦を栽培しはじめた。苦肉の策として始まった「農耕」が、自然環境からの人類の相対的な自立と人口増加、そして古代「都市文明」の始まりとなった。

 農耕は決して人類が自然に≠ヘじめたことではない。農業という人工自然は、人類を襲った突然の気候変動へのやむにやまれぬ適応策だったのだ。しかし逆にいえば、こうした気候変動のなかでこそ、人類の知的創造性の引き金が引かれたのだ。

 Yes,We Can CHANGE!>氛气Aメリカだけではない。地球のダイナミックな変化に適応して、人類全体も変わることができる。

 人間にはもって生まれた丈夫な毛皮も強い牙もないが、そのかわりにそのどれをも身に着ける「着衣」と「脱衣」の自由がある。一度着た服(生活習慣や制度)をリセットして、裸になる自由もある。人間の創ったものなら、創りなおすこともできる。何も悲観的になる必要はない。未来は「予測」するものでなく、自ら「創造」するものなのだ。

 人口規模においても、グローバル社会の一体性(つまり一蓮托生≠フ共倒れがあるということだ)においても、当時とは比較にならないほど大きなリスクと脆弱性を抱えた現代の人類社会だが、何とかこの人類社会というガソリンの切れた飛行機をソフトランディングさせつつ、次のまっとうな段階へと「脱皮」させる可能性が見えていないわけではない。人類は地球の新たな未来にむけて、まだまだ創造的な役割を果たしうるはずだ。

 それに成功したとき、後代の歴史家は二十一世紀初頭における地球温暖化と気候変動の「不都合な真実」が、ピークオイルや食糧危機とあいまって、結果的には人類の自己認識と自己変革を加速する新たなジャンプ台になったと評価することになるだろう。

 この人類の創造性と、それによる地球と人類のポジティブな「共進化」の可能性こそ、本書の根底にあるテーマであり、また日本から発信すべき地球文明の第三のコンセプトだ。

 現代の子どもたちは、じつにかわいそうではないか? 生まれた途端に地球は危ない∞君たちの未来はないかもしれない≠ニ教えられ、挙句の果てにその犯人は私たち人間である≠ニ言われれば、人間としてこの星に生を受けたことに対してポジティブな感覚を抱けるはずもない。

 しかも先述したようなポジティブな地球認識──水惑星のありがたさ$カきて呼吸する地球にあふれる数々の「好都合な真実」、そしていま急速に開けつつある問題解決への視野(数々の「代案」)を教えられることもなく、ただただネガティブな地球と人類のイメージだけを叩き込まれるとしたら、それはほとんど社会的な殺害であり、人権侵害といってもいい。
 地球環境のサステナビリティと同じくらい、じつは人間のサステナビリティ≠煌機に瀕している。それは貧困や飢餓といったあからさまな次元だけでなく、こうした根源的な「人間観」の問題──未来の地球とそのなかでの人間のオルタナティブな位置づけを示しえない、現代社会のビジョンの欠如に起因するものではないのだろうか?

 だが、いま私たちは地球のなかでの人間の位置に関して、新たな展望を抱きうる地点に立っている。

 人間は決して地球のガンのような存在ではない。これまでも人間が自然のなかの一要素として、自然に貢献しつつ、より高次の自然を協働でつくってきた例はたくさんある。その典型が、ほかならぬこの私たちの日本列島だ。

 日本は急峻な地形のために、降る雨の量は多くても、その水はあっという間に洪水となって流出し、使える水は必ずしも多くはなかった。だが、その荒ぶる自然に手を加え、川の流れを調律し、スローな水を田んぼに導くことで、昆虫や魚や鳥など他の生き物にとっても繁殖しやすい環境を創り、結果的に生物多様性を増進させてきた。日本人は自然に手を加えることで、生物多様性の増大にもつながる、より高次の自然をデザインしてきたのだ。

 「工」という字は、天と地をむすぶ人の営み≠表わす。日本の自然はそうした深い意味での人「工」自然なのであり、日本の伝統思想において人工と自然は必ずしも対立するものではない。人間はより高次の自然をともに成就するポジティブなコーディネーターとして、自然のプロセスにポジティブに関与すべき存在であった。

 そして次章でみるように、二十一世紀の都市はさらに自然の恵みを捕獲・貯留する地球の皮膜(インターフェイス)として、森や水田と連続する「自然の一器官」へと進化しうるだろ。

 都市が自然と対立し、人間や人工物が地球環境にとって破壊的な存在となってしまっていたのは、文明が「進歩」しすぎたからでは決してなく、むしろ我々の技術文明と社会デザインが「未熟」すぎたからだ。少なくとも、この無知の知を得た現代の人類が志向する地球のデザインは、生態学的な尺度においてもう少しまっとうで調和的な、美しいものへと進化しうるはずだ。

 人間を異物として排除した地球エコロジー論ではなく、「人間」を意味ある地球生命系の一環として位置づけなおした文明デザインが、いま始まりつつある。

 手つかずの自然を最上とし、人間の立ち入りを制限する(=自然から人間を排除する)近代西欧のエコロジー思想は、(第六章でみるように)「人間中心」主義と「人間不信」を併せもった近代思想の裏返しにほかならない。

 その思想を突き詰めれば、人間はこの地球から消えていなくなるのが最上の解決策ということにならざるをえない。

 だがいま、自然を改造・支配することに人間の尊厳を見出してきた西欧近代的な「人間中心主義」でも、逆に人間を地球のガン≠ニみて卑屈に人間を排除する「自然保護主義」のエコロジー思想でもない、第三の人間観と文明観を構築するチャンスを迎えている。

 そうしたアンビバレントな人間観を超えて、新たな地平で地球と人間の共進化を展望する時代に、日本の自然観と人間観は有効な文化OSとして再生するだろう。
(竹内真一著「地球の目線」PHP新書 p20-36)

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「地球温暖化の物語は、閉塞した現代社会の中に久々に出現した、マルクス主義以来の『大きな物語』」……。