学習通信090317
◎人類の知の歴史における画期的出来事……
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ガリレオとダーウィン
今年は、ガリレオが手作りの望遠鏡を使って天体観測を開始してから四〇〇年の記念の年にあたり、「世界天文年」として各国でさまざまな取り組みが企画されている。
ガリレオは、天の川が無数の星々の集まりであることを発見した。木星の四つの衛星を発見し、金星の満ち欠けを観測し、地球が宇宙の中心ではなく、太陽の周りを回っていることを確信した。
望遠鏡は、私たち人類が宇宙のなかでどのように位置しているかを気づかせてくれた。望遠鏡の性能の向上にともない、私たちの知る宇宙は広がってきた。遠方の天体から到達する光を観測することは、宇宙の昔の姿を観測することになる。こうして人類は宇宙に百数十億年という歴史があることを知った。
今年はダーウィン生誕二〇〇年、『種の起源』出版から一五〇年の記念の年でもある。ダーウィンが提唱した「生物の進化」は、科学の進歩とともに生物学の基本概念として定着してきた。地球に生きる多彩な生物は、共通の祖先からの四〇億年におよぶ進化がもたらした結果であることが明らかになっている。
望遠鏡による天体観測の始まりと進化論の提唱とは、まさしく人類の知の歴史における画期的出来事であった。しかし、ガリレオは到達した考えを発表したために迫害され、ダーウィンの発表も大きな攻撃にさらされた。いま、世界の人々が二人の業績を記念した催しを開くことは、この間の人類社会の進歩を示している。(利)
(「月刊経済」09年4月号 新日本出版社 p5)
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コペルニクスの地動説
アリストテレスの自然観とプトレマイオスの宇宙像は、中世から近代の初頭に至るまでのあいだ、大きな影響を与え続けました。確立された権威になってしまい、別の考え方の可能性は否定されていたので、科学の進歩を妨げることになりました。もちろん、プラスの影響もなかったわけではありません。たとえば先にもすこし触れたように、コロンブス(一四五一〜一五〇六)が西回りで東洋に行くための航海を決意したのは、マルコポーロの『東方見聞録』などに加えて、プトレマイオスの著書にも大いに啓発された結果であると伝えられています。
ポーランドのニコラウス・コペルニクス(一四七三〜一五四三)が、コロンブスの新大陸発見(一四九二年)のニュースを聞いたのは、クラコフ大学の学生だった一九歳のときのことです。コロンブスは新大陸をインドだと誤認し、地球が丸いことが証明されたと考えます。このニュースはヨーロッパ各国に伝えられ、大きな話題になりました。一五二二年にはマゼランの部下によって世界周航が完成され、地球が丸いことが確実に示されました。コロンブスの新大陸発見は、その時代の人たちの心に新風を吹き込み、近代の扉を開く上で大きな影響を与えたひとつの出来事でした。
コペルニクスは、クラコフ大学卒業後、神学(教会法)を習得すべくイタリアのボローニャ大学に進みましたが、天文学の教授ドミニコ・ノヴァラの下で、好きだった天文観測にも精を出します。当時、天文学を学ぶ者にとって、プトレマイオスの『アルマゲスト』は聖書のようなものでした。コペルニクスもこの本について勉強しましたが、プトレマイオスの天動説理論と観測結果がずれていることに気づきます。
望遠鏡はまだ発明されていなかったので、肉眼での観測でしたが、コペルニクスは三〇歳でポーランドに戻って聖職についてからも実に三〇余年にわたって、寺院の庭や望星台で工夫を重ねながら観測を続けました。必ずしも網羅的とは言えない観測結果でしたが、そのデータの解析と細かい計算とによって、地球が動いていると仮定すればいくつかの観測をよりよく説明できることを示しました。
コペルニクスの宇宙像は図2─1に示されるように、太陽が中心にあり、その周りを惑星たちが円軌道を描いて回っているものです。地球も惑星のひとつとして、太陽の周りを回っています。それぞれの惑星の一年が短いものから長いものへと、内側から外にむかって円軌道があり、水星、金星、地球、火星、木星土星の順になります。
コペルニクス的転回
この宇宙像は、日本語で「地動説」と呼ばれるものです。ラテン語や英語では「太陽中心論」と名づけられています。
古代ギリシアの哲人たちのなかにも、地球が動いているのでは、と考えた人たちがいました。紀元前五世紀のピタゴラス学派のフィロラオス、ヒケタス、エクファントス、また紀元前四世紀のプラトン学派に属したポントスのヘラクレイデスなども、地動説を考えましたが、これらの地動説は、字宙の中心に別のものがあって、その周りを地球も太陽とともに回っているという説でした。太陽を中心にしてその周りを地球が回るという、現在の形に近い地動説を出した先駆者は、アリストテレスの曾孫弟子に当たるアリスタルコス(前三一〇頃〜二三〇頃)でした。先にすこし触れたように、アルキメデスもその著書のなかで、アリスタルコスの地勤説を論じています。後の中世の学者の中にも地動説擁護派はいましたが、人々の日常的な経験や常識に合わないので、捨て去られ忘れられていきました。
コペルニクスが古代ギリシアの哲人たちの手記に接したのは、イタリア留学中だったと考えられています。「古代ギリシア哲学者の著作の中にある、『地球は動く』、という言葉に触発された」と、コペルニクスは論文の中で述べています。
コペルニクスが自分の説を『天体の回転について』という論文にまとめたのは六〇歳を過ぎてからですが、しばらくは出版しませんでした。キリスト教の口ーマ─カトリック教会は何世紀ものあいだ、プトレマイオスの宇宙観を公式見解として信者に伝えてきましたから、聖職者である自分が地動説を主張するのは問題がある、とコペルニクスは考えたのです。友人や弟子の強い勧めでこの論文が出版されたのは、一五四三年、七〇歳になったコペルニクスの死の直前でした。
こうして、ニュートンの生まれる一世紀前には地動説が提案されていたわけですが、コペルニクスが危惧したとおり地動説は教会から厳しく咎められ、地動説を唱えるのは命がけという苦しい受難の時代が続きます。コペルニクスの書も一六二〇年から二世紀以上ものあいだ、口ーマ─カトリック教会によって禁書目録に挙げられました。
天動説から地動説への認識の変革は、教会ばかりでなく一般の人たちにとっても、文字通り驚天動地の出来事でした。後年、ドイツの哲学者イマヌエルーカント(一七二四〜一八〇四)は、『純粋理性批判』の認識論において、主観と客観の逆転に関する自分の説の独創性を強調するために、天動説から地動説への転回になぞらえて、「コペルニクス的転回」という表現を使っています。この表現は、一般にものの考え方が一八〇度変わることなどにも使われるようになりました。
ガリレオ・ガリレイ
──近代科学の父
ニュートンの生誕一〇〇年前まで辿ってきましたが、一七世紀半ばにニュートンが生まれるその日まで、あと二人の偉大な科学者が物理学の歴史上、偉大な仕事をすることになります。イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ(一五六四〜一六四二)とドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一〜一六三〇)が、その二人の科学者です。生没年からもわかるようにまったく同時代に生きたこの二人の科学者は、文通をとおして交流しました。激しく競い合いつつも、地動説を理解する数少ない同志として互いを心の支えにし、それぞれに研究を続けて、ニュートンの万有引力の法則発見のために、異なる二つの側面から基礎作りをしたのでした。
ガリレイは、医学を学ぶようにという父の希望で、貧しい中から一七歳でピサ大学に行かせてもらいます。一六世紀末のその頃になっても、大学の授業ではアリストテレスの考えが絶対的な真実として教えられていました。ガリレイも最初はアリストテレスの本を熱心に勉強し傾倒しますが、アリストテレス批判が非主流ながらもいくつか出されていることを知り、権威主義的にただ押し付けられるのを嫌って、アリストテレスの哲学に疑問の目を向けます。
ガリレイは医学より数学や科学に喜びを見出し、若くして才能を発揮します。物体の重心に関する論文を書いたり「小天秤」を作ったりしました。後者は、貨幣に含まれる金や銀の比率を「天秤」と「比重」とを利用して高い精度で測定するもので、ガリレイは、「一六世紀のアルキメデス」といわれました。ガリレイ自身、アルキメデスを心から尊敬していて、「聖アルキメデス」と呼んでいたということです。
物体の落下に関しては、重いものは軽いものより速く落ちるというアリストテレスの主張を覆して、正しい「物体落下の法則」をつきとめます。物体は重さと関係なく、同じ加速度(速度の変化)で落下し、等しい高さから落としたときには同じ時間で地面に到達することを示しました。それと関連して「振り子の等時性」も発見しました。等時性とは、振り子の糸の長さが一定なら、振れの角が小さい場合には、振幅が減衰しても周期は変わらないという性質で、傍にこの原理を使って振り子時計が作られました。
ガリレイはその生涯をとおして、力学に関する仕事を多く残しました。物体に力が働いていないときには、物体はその運動状態を持続するという「慣性の法則」にも気づいていました。たとえば、まっすぐに進んでいるものは、他から力を加えない限り、まっすぐ進み続ける、という性質が「慣性の法則」です。力学に関する自分自身の仕事に基づいて、物体の運動に関するアリストテレスの考え方は正しくないことを、ガリレイは議論や著書で示しましたが、アリストテレス一辺倒だった大学人や知識人たちの抵抗は強く、非常に苦労しました。
木星の衛星
ガリレイは二四歳でピサ大学の教授になりました。三年間の在任中、アリストテレス批判で大学当局と衝突しましたが、天文学の授業ではプトレマイオスに沿った天動説を、ガリレイ自身も教えていました。その後コペルニクスの著書『天体の回転について』と出会い、直ちに地動説を理解します。しかし空を仰いでみても、太陽が地球の周りを回っているとしか見えないわけですから、地動説を説得力のあるものにするためには、さらに多くの観測結果を提示する必要があると考えます。
一六〇〇年には、イタリアのドミニクス会の修道士で自然哲学者だったジョルダーノ・ブルーノ(一五四八〜一六〇〇)が、コペルニクスの地動説に沿った主張を広めようとしたために、ローマ法王庁の宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられました。
二七歳でパドヴァ大学に職を得たガリレイは、以後一八年間、ここで落ち着いて仕事をします。コペルニクスの地動説をより強固に裏づけるためには、もっと多くの観測が必要だと考えていたガリレイにとって幸いなことに、一六〇九年にオランダで望遠鏡が発明されます。ガリレイは自分でも望遠鏡を作って観測を続け、いくつもの発見をします。
アリストテレスは月の表面が鏡のようになめらかだと主張しており、ガリレイの時代にもこれが広く信じられていました。ガリレイは望遠鏡を使った観測から、月の表面は実はでこぼこであることを見つけます。
さらに、恒星は惑星よりはるかに遠くにある、天の川は恒星の集まりである、木星には四つの衛星があり木星の周りを回っている、太陽に黒点があり太陽も自転している、などの事実を発見しました。土星については、望遠鏡の精度がまだ十分でなかったため環を見分けることはできず、三つの星が連なっていると考えました。金星の蝕(しょく)も観測し、これらのことはすべて、コペルニクスの地動説を裏づける証拠だと主張しました。
法王庁は一六一六年に地動説禁止の教令を発布し、ガリレイも呼び出されて地動説を広めないように注意されます。一六二四年、ガリレイはローマ法王庁に、自分の観測結果から地動説は動かしがたい証拠を得たと説き、さらに、地動説は聖書と抵触しないと言って、教令の取り消しを願い出ました。法王庁はもちろん耳を傾けません。ガリレイは自分の理論を盛り込んだ『天文対話』の執筆を翌年に始め、一六三二年に出版しますが、わずか半年で発売禁止になりました。この著書では、法王庁の意向を懸念して、「地動説は正しい」と一方的に書くのではなく、立場の異なる三人の鼎談形式で話が進む形にしましたが、本を読めばガリレイが主張したいところは一目瞭然でした。
それでも地球は動く
その年ガリレイは再びローマに召還され、翌年には宗教裁判にかけられます。拷問の道具なども見せられ、七〇歳を目前にし、病身で弱っていたガリレイは、ついに地動説放棄を約束させられます。裁判所を出るときに「それでも地球は動く」とつぶやいたという逸話は、その真偽はさておき、今では伝説になっています。
以来八年間、七七歳で世を去る日まで、ガリレイは法王庁の命令でフィレンツェ郊外に幽閉されます。太陽を望遠鏡で観測していたことも災いして両眼を失明しますが、口述筆記などによって『新科学対話』を完成させます。アリストテレス哲学とプトレマイオス体系を否定し、地動説と新しい料学を説いたこの本は、後世への貴重な贈り物となりました。
ガリレイは、アリストテレス個人に対して批判的だったわけではなく、権威を笠に着て、アリストテレス哲学を頭ごなしに押し付けてくる教会や知識人たちの姿勢に、我慢がならなかったのでした。
ガリレイの仕事は地動説との絡みで語られることが多いのですが、自然を探求する方法と精神こそが彼の最大の功績といえます。実験的事実やそこから数学的に導かれる理論を軸にする実証的な科学の方法を、最初に確立し実践したのがガリレイなのです。科学を哲学から分離し、自然現象の解明に数学を使う。そのとき数学は、具体的な現象を定量的に論じるための手段と位置づける。近代科学の礎となっていく方法論です。
こうして科学の分野で近代の扉を開いたガリレイは、「近代科学の父」「現在の意味での最初の物理学者」と呼ばれています。
(米沢富美子著「人物で語る物理入門」岩波新書 p20-29)
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◎「ガリレイの仕事は地動説との絡みで語られることが多いのですが、自然を探求する方法と精神こそが彼の最大の功績」と。