学習通信090326
◎天文学者ガリレオ・ガリレイ……

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科学
トピックス

ガリレオ望遠鏡から400年の天体観測
「しんぶん赤旗」科学部 中村 秀生

 2009年は「世界天文年」です。望遠鏡による天体観測400年の節目の年として、国連、ユネスコ、国際天文学連合が定めました。「世界中の人々が夜空を見上げ、宇宙のなかの地球や人間の存在に思いをはせ、自分なりの発見をしてほしい」と呼びかけ、多彩な企画を計画しています。日本でも、各地の天文台での流星群や日食の観望会、プラネタリウム特別番組などがあります。

壮大な宇宙の扉を開く革命

 大昔から人類は夜空を見上げてきました。月の満ち欠けや星の動きから暦をつくり、人々は種まきの時期を知りました。星座は、方角を知る道しるべでした。ギリシヤ神話や七夕伝説など、世界各地で星にまつわる物語が語り継がれています。平安時代、清少納言は『枕草子』に「星はすばる。ひこぼし…」と、星の魅力を書き残しました。

 天文学は人々の生活と文化に密接に結びついて発展し、星の運動が詳細に観測され、16世紀にはコペルニクスが地動説を唱えました。しかし依然として、人類の知る宇宙は肉眼で見える範囲に限られていました。

 1609年、壮大な宇宙の扉を開く革命がもたらされました。イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイが、自作した口径4abの望遠鏡で、人類史上初めて夜空を見上げたのです。

 その後数カ月間の新発見の連続をまとめた「星界の報告」からは、ガリレオの驚きと興奮が伝わってきます。望遠鏡で見た月は平らではなく凸凹で、天の川は星の大群でした。すばる(プレアデス星団)の6個の星の周囲に、肉眼では見えない数十個の星が見つかりました。ガリレオは、木星のそばに発見した4個の星の動きを観察し、それが木星を回る衛星であることをつきとめました。金星は満ち欠けし、太陽には黒点があり自転していました。これらは、当時の宇宙観を覆す発見でした。

探査機や観測衛星の時代

 ガリレオ以来、望遠鏡の大型化と改良が進み、人類の知る宇宙は急速に広がりました。太陽系の果てだった土星の外側で次々と惑星や新天体が見つかり、現在の太陽系は、冥王星のはるか外側にまで広かっています。太陽が天の川を構成する星の一つであり、天の川もまた無数の銀河の一つにすぎないとわかりました。

 20世紀初め、永久不変の存在と考えられてきた宇宙観をゆるがす、新発見がありました。アメリカの天文学者ハッブルが、遠くの銀河ほど速い速度で遠ざかっているとつきとめたのです。それは、宇宙全体が膨張しており、過去にさかのぼれば小さかったことを意味しました。初期宇宙が高温・高密度の火の玉だったという、ビッグバン仮説が提唱されました。

 技術革新も進みました。写真やCCD(電荷結合素子)によって光の蓄積が可能になり、かすかな天体が見えるようになりました。赤外線、電波、×線など観測の幅が広がり、誕生しつつある星、宇宙を漂うガスやちり、ブラックホールなど、可視光では見えない天体も観測できるようになりました。地上の望遠鏡だけではなく、大気圏外から観測する天文衛星が打ち上げられました。

 天文衛星の観測結果によって、宇宙誕生のビッグバンが約137億年前に起こったと推定できました。口径8bのすばる望遠鏡が130億光年先の宇宙誕生直後の銀河から届く光をとらえ、2008年には欧米チームが太陽系外惑星の直接観測に成功しました。ニュートリノや重力波など、光(電磁波)ではない宇宙の情報をとらえる探求も進んでいます。

 宇宙空間を探査機が飛ぶ時代も到来。ガリレオが望遠鏡を向けた月に宇宙飛行士が降り立ったのは1969年のことです。木星には複数の探査機が訪れ、衛星エウロパの氷の表面の下に海があることがわかり、生命の可能性も指摘されています。

尽きない自然の謎を探求

 ガリレオが驚いた世界は、宇宙のほんの一部。現代の私たちはガリレオの想像を超える宇宙を知っています。それでも、なぜ宇宙が膨張するのか、宇宙に満ちる「暗黒物質」の正体は何か…など謎だらけです。

 世界天文年では、口径4abの望遠鏡でガリレオの驚きと興奮を追体験する「君もガリレオ」プロジェクトが企画されています。かつてたどった道を知り、尽きない自然の謎に挑む──人類の旅は続きます。

 国内企画を準備する渡部潤一・国立天文台准教授は、著書「ガリレオがひらいた宇宙のとびら」で次のように述べています。「ガリレオの活躍をきっかけにして宇宙を知るにつれて、われわれ人類が、つねに自分中心の考え方から脱却してきたように思えるのです。(中略)人類そのものが知的生命体としてちょっとだけ大人になりつつある、という証拠なのかもしれませんね」。(なかむら ひでお)
(「月刊 学習」09年2月号 日本共産党中央委員会発行 p110-111)

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 アリストテレス体系とキリスト教神学

 近代自然科学は、一六世紀中葉の「コペルニクス革命」に始まり、一七世紀に入ってのガリレイの実験、デカルトの哲学的基礎、ニュートンの古典物理学の完成に至るまで、およそ一〇〇年をかけて作り上げられたものである。この時期の自然哲学の目標は、自然という書物に書かれた神の御心を読み解き、完全なる神の存在証明をすることであった。神の代理人を僣称(せんしょう)して現世を支配するローマ法王の目を欺き、安心して自然学に打ち込むためには、そのような御旗を立てねばならなかったのだ。

 といっても、彼らが目指したのは、前四世紀に確立したアリストテレス自然学の打破であって、けっしてキリスト教神学への挑戦ではなかった。この二つ(アリストテレス自然学とキリスト教神学)は、本来別物であり、一三世紀に入るまで、むしろ敵対関係にあったとさえ言いうる。

たとえば、四世紀の終わりごろ、聖アウグスティヌス(三五四〜四三〇)は、「球状の天が宇宙の中心にある地球を取り囲んでいようと、地球のどこかにひっかかっていようと、私にとって何の関わりがあろうか」と語っており、キリスト教神学はアリストテレスの宇宙体系とは何の関係もないと考えていたのだ。

さらに、一二一〇年にパリで開催された大司教会議において、アリストテレスの言明が聖書と矛盾するという理由で、アリストテレス自然学を教えることを禁ずる決定をしている。聖書は有限の過去に宇宙が神の手によって創世されたと教えているが、アリストテレス宇宙は永遠に変化しないからだ。

 ところが、一三世紀中葉、トマス・アクイナス(一二二五〜七四)は、『神学大全』において、アリストテレスの宇宙体系(地球を宇宙の中心に据えた天動説)と神学的教義を調和させることに努力を傾けた。聖書に書かれている神についての説明の根拠をアリストテレスの権威に求めたのだ。アリストテレスの宇宙体系の根幹では、月より下の世界にある地球は、火・空気・水・土の四元素で造られ、宇宙の中心にあって動かない特別な存在と考えられていた。そして、月より上の世界では、高貴な元素であるエーテルが固まった七つの星(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)と宇宙の果てにある恒星が、それぞれの天球面上を円運動している、とされていたのである。

 この天動説によって、至高の神が宇宙の中心に位置する地球に在ることが保証され、その神に直接仕える教会こそが現世の支配者であることも自然に導かれる。このように、アクイナスは、神学的推論とアリストテレスの自然学を大胆に結びつけ、聖書が人間と宇宙、そして宇宙と神との関係を明確に記述していることを証明しようとしたのだ。いわば、当時の科学的信念によって聖書の権威を高め、キリスト教世界を引き締めようという試みであった。こうして、アリストテレス体系は聖書と渾然一体になってしまった。キリスト教とは縁もゆかりもないアリストテレスにとっては、さぞや大迷惑であっただろうに。

 その目的のため、アクイナスは、あえて聖書の字義通りの解釈に疑いを投げかけることすらした。たとえば、新訳聖書「エペソ書」には、キリストは「諸々の天を超えて高く昇られ、すべてのものを満たした」(以下、聖書からの引用は、いのちのことば社版による)と書かれているが、アリストテレス宇宙では恒星天球の上にはもはや空間はなく、キリストは昇天できないはず、となってしまう。

そこでアクイナスは、「完全無欠なキリストは動かずしてすべてのことを可能にするのだから昇天する必要がない」と断じ、「聖書の一節は無知な人々にもわかるように故意に誤った記述をしているのだ」と言い切って、アリストテレス宇宙との矛盾を回避しようとした(後に述べるように、ガリレイも同じ論法を使おうとしたのだが、当時のローマ教会は、もともと聖書の記述と天動説が別物であったことをすっかり忘れてしまったためだろう、ガリレイには厳罰でのぞんだのである)。

 その意味では、アクイナスは、自然哲学(科学)が独自の真理を追究することに対し、ある種の認可を与えたと言えなくもない。聖書を字義通り受け取らなくてもよいという範を示したのだから。

 レトリックとメタファーを駆使して、アリストテレスの地球中心的宇宙観と聖書とアクイナスの神学をうまく調和させることに成功したのがダンテ(一二六五〜一三二一)であった。ダンテは、一四世紀初頭『神曲』において、地球の中心にある地獄、パーガトリー山上に広がる地上の楽園、地球を取り囲む九つの天球をまわす天使、そして第一〇番目の天に神の国を配置し、いかにも荘厳で美しい宇宙構造を目に見えるようにしたからだ。その後、アリストテレスの天動説は崩されたが、ダンテの宇宙体系は現在に至るも、なお人々の頭に染み込んでいる。宗教や科学とは異なり、文学的表象概念はいつまでも残り続けるのだろうか。

地動説=地上からの神の追放

 天動説は天の詳しい観察から崩されることになった。それも、フラウェンブルグ寺院の大管区長という、神に最も近いはずのコペルニクス(一四七三〜一五四三)によって。

 コペルニクスは、神が宇宙を創ったのなら、こんなに複雑な宇宙であるはずがないと疑ったのだ。実際、天動説によって七つの星の運動を説明するためには、全体で八〇を超える円運動を組み合わせねばならなかった。コペルニクスよりずっと以前、一三世紀のレオン・カスティリア王であったアルフォンソ・エル・サビオ(アルフォンソ一〇世)は、天文学に興味を持ち、当時の天文表を改訂して「アルフォンソ表」を作った人なのだが、天動説に基づいて惑星の軌道を求めようとすると膨大な計算が必要であることから、「もし神が私に相談してくれたなら、もっと宇宙を簡単に創るように助言したのに」と語ったと伝えられている。天動説宇宙は、惑星運動の観測が進むにつれ、ますます複雑な体系になっていったのだ。

 科学者気質の特徴の一つは疑い深いことにあるが、それは必ずしも猜疑心のことではない。自らの単純性と現実の複雑性がぶつかったとき、その矛盾が喉に引っかかって現実が飲み込めないだけなのである。既存の理論体系を疑うことなくどっぷり浸かってしまうと、複雑怪奇になってしまった理論の醜さに気がつかないが、ふと我に返って客観的に見たとき、その醜悪さに疑いを持ってしまうのだ。「神はもっと単純で美しい宇宙を創ったはず」だ、と。スコラ哲学における思想節約の原理「オッカムの剃刀」のように、最小の仮定で最大の結果が得られる理論こそ美しい、とする科学者の審美観もあるだろう。それを「神」と呼ぶかどうかは別として。

 天動説から地動説に移ることは、とりもなおさず、地球が宇宙の中心にあって不動であるという特権的な地位を振り捨てることに他ならない。地球も、太陽の周りをまわる一つの惑星に過ぎなくなるからだ。ならば、唯一神が地球に在るという根拠もなくなってしまう。

 では、神はどこにいるのか? 地動説を採るためには、新たな神の居場所を考え出さねばならない。コペルニクスの時代、人々の宇宙は太陽系に閉じていた。したがって、神を宇宙の中心に据えようとすれば、太陽に神の座を用意しなければならないが、燃え盛る灼熱の太陽ではさすがの神も居心地が悪かろう。とりあえず、コペルニクスは、神の居場所と宇宙体系を切り離すことにした。地動説は天上の幾何学であって、地上における神の存在証明とは無関係であるという態度を貫き通したのだ。

 折しも、宗教改革の火の手が上がっていた時代で、聖書のみが真の権威であるとするルター派は、旧約聖書「ヨシュア記」に「太陽よ、ギブオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷に留まれと命じた。そして、太陽と月は、人々が敵を討ち果たすまでそこに留まった」と書かれていると主張し、コペルニクス宇宙に激しい攻撃を加えた。太陽も月と同じように地球の周りをまわっていると書かれているではないか、というわけだ。

フランスのカルヴァン(一五〇九〜六四)も、「世界もまた、しっかりと据えられていて動かすことができない」と述べ、聖書に書かれているように神はこの地球におわすことを強調した。神の居場所を地球に据えたままでは地球は動かないのである。その意味で、宗教改革の主唱者たちは、自然科学については頑固な守旧派であったのだ。

 興味深いことに、一六世紀までのローマ教会は新規の説に寛容であった。であればこそ、カトリック教会に属するコペルニクスが『天体の回転について』(一五四三)と題する著作によって、地動説を発表することができたのだ(もっとも、彼は自説の発表をためらい、この本が刷り上がったのは彼の死の年であったのだが)。そのような宗教的対立が背後にあったためだろう、コペルニクスの著作の序文において、ルター派のアンドレアス・オジアンダー(一四九八〜一五五二)は「これらの仮説(地動説のこと)が真である必要もなければ、確からしいものである必要さえない。ただ、それらによって観測と矛盾のない計算が可能になればそれで充分なのである」と書いている。コペルニクス説は一つの仮説に過ぎないことを強調して、攻撃から身をかわそうとしたのだ。

 神の新たな居場所を見出したのはガリレイ(一五六四〜一六四二)であった。一六〇九年、ガリレイは発明されたばかりの望遠鏡を手にして天の川に目を向けた。そして、ミルクを流したように見える天の川は、実は無数の「太陽」の集まりであることを発見したのだ。このとき、人々の宇宙は、太陽系から無数の星が散らばる星界へと一挙に拡大することになった。ならば太陽系の中心にいたがるようなケチな神ではなく、より広い星の世界全体を統括する神こそが完全なる存在としてふさわしい。神は、この地球から離れて、無限の彼方にまで広がる宇宙を経巡(へめぐ)っているとすればよいではないか(むろん、神を独占したかったら、あなたの心に秘かに匿ってもいい)。

 こうして、地動説と無数の「太陽」の発見によって神は地上から追放されたのだった。折しも、地上の権力が教会から世俗領主に移ったのと時を一にしている。以来、領主たちは、ヌケヌケと王権は「神授」されたと宣言するようになった。肝心の神が、広大な宇宙のどこをさすらっているのかわからないのに。

 ガリレイが地動説を公然と支持するようになったころ、それまで寛容であったローマ教会からも「地球が動くという説は聖書の記述と矛盾する」という非難がわき起こった。それが一六一六年の第一次ガリレイ裁判につながるのだが、ガリレイは、その前年の一六一五年にクリスティーナ大公妃宛の手紙で、彼の聖書観を述べている。そこでは、「『聖書』には大変難解な箇所があり、文字通りの意味とはまったく異なったことが述べられていたりします。もし、『聖書』の記述を字義通りに受け取ってしまうと、誤りを犯すことがあるかもしれません。というのも、聖霊が述べた『聖書』の言葉は、無学で教養のない庶民にも理解できるようにと、聖なる筆記者が書き留めたもの」なのだから、と書いている。まさに、トマス・アクイナスと同じ論法を用いたのである。

 彼の立場は、神は「最初に自然を通して、次には特にその教えによって理解される。つまり、神の作品である自然と、神の言葉である教えによって」理解される存在であった。「自然についていえば、これは容赦なく不変なものであり」、「この点は、文字通りの意味とはいくらか異なる解釈がありうる『聖書』とは違っている」として、自然研究こそ神の証明にとって重要であると説いたのだ。ガリレイは教会に屈服して地動説を捨てたが、結果的には、このような考えかたが神を地上から追放する端緒となったのである。

 ガリレイは、最初の自然科学者であるとともに、権力に弾圧された最初の科学者ともなった。後にブレヒトが批判したように、ガリレイは、権力との対決を回避し、研究を続ける道を選んだのだ。これによって権力に弱い科学者という伝統(?)がつくられたのかもしれないが、幽閉されたガリレイは『新科学対話』を書き続け(一六三八年刊行)、アリストテレス自然学を打倒するのに努力し続けたことを記憶しておくべきだろう。
(池内了著「物理学と神」集英社新書 p20-28)

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◎「宇宙を知るにつれて、われわれ人類が、つねに自分中心の考え方から脱却してきた」と。