学習通信090327
◎財界の意見広告……

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財界の意見広告
温暖化防止の背向ける

 日本の温室効果ガス削減の中期目標案を政府の懇談会が二十七日に発表するのを前に、日本経団連など財界五十八団体は十七日付の新聞各紙に、温暖化対策には「3%削減でも一世帯あたり約105万円」の大きな負担がかかるとする意見広告を出しました。

 温暖化問題は、対策を講じなければ人類の存続に甚大な影響を及ぼすことは、国際常識となっています。ところが同広告は、対策をとることによるメリットを見ずに、対策の「負担」だけをあおるもの。政府からも異議が唱えられています。

 @「日本は世界トップレベルの低炭素社会」だAそんな国が「裏付けのない過大な」削減目標をもてば国民は膨大な負担を背負うB日本がいくら努力しても米国や中国などの主要排出国が参加しない削減協定は無意味だ──というのが広告の柱。だから日本は大きな中期目標を決めるな、というのが心です。

 ところが、広告の大前提となる「日本は世界トップレベルの低炭素社会」という主張自体が一面的だとの批判が、環境NGOのWWFジャパンなどから出ています。

 広告は、二〇〇六年の「GDP(国内総生産)あたりのCO2(二酸化炭素)排出量」を示し、日本(〇・二四s)はEU(欧州連合)二十七カ国(〇・四二s)より「低炭素社会」だとしています。しかし、これは「二〇〇〇年基準為替レート」に基づく数値です。

 同じIEA(国際エネルギー機関)の〇八年の統計でも、二〇〇〇年の購買力平価(PPP)で換算すると、日本は〇・三四s。EU二十七カ国、英国、フランスと比べ、日本がずば抜けた低炭素社会だとの結論は出てきません。

 換算方法によって数値が変わらない「一人あたりCO2排出量」でも、日本(九・四九d)がEU、英国、フランスを上回る同様の傾向が確認できます。

 「一世帯あたり約105万円」の負担という宣伝は、対策経費が五十二兆円になるという計算が前提になっています。これについても、▽五十二兆円は今から二〇年までの累積額だ▽経費総額自体に異論がある▽国民だけに負担させるという考え方がおかしい▽省エネ効果など対策をとることによる利点が考慮されていない──などの批判が出ています。

 日本の責任を放棄するような主張に環境省からも、「深い分析ではない」(西尾哲茂環境事務次官)「大変悲しい。産業界の本気度が問われる」(斉藤鉄夫環境相)といった声が上がっています。(坂口明)
(「赤旗」20090327)

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地球温暖化にどう対処すべきか
●生産・消費・廃棄の構造の変革の開始を
 池内 了
  (総合研究大学院大学教授)

 一、はじめに

 本年七月にG8のサミットが洞爺湖で開催される予定になっている。その主要議題として地球温暖化をはじめとする環境問題が取り上げられ、温室効果ガスの削減目標を具体的数字として掲げるかどうかが焦点になっている。環境問題は緊急の課題であり、今ようやく主要議題となったことは歓迎すべきことではある。しかし、環境問題を本格的に取り組むためには、リオデジャネイロ国連環境開発会議のようなNGOやNPOも参加した場で腰を据えた目標と協定を結び、それが現実にどう履行されているかを常に監視する体制が不可欠だと思っている。サミットの場で環境問題が議論されても、本当に実効性がある措置がとられるかどうか疑問があるからだ。

 地球温暖化をはじめとする環境問題の現状と対処について本論の枠組みを示しておこう。第二章では、地球温暖化が人々の常識となりつつある一方、それに対する異論も多く出されるようになり、人々に混乱を招く事態が生じていることの原因を考えてみたい。地球は「複雑系」であり、
これまでの要素還元主義の科学では簡単に割り切れない要素が多くあって懐疑論や不可知論が噴出しているのである。異常気象や気候異変をすべて地球温暖化のせいとしてわかった気になって何もしない、そんな態度も問題だろう。まず、地球温暖化問題の真実をしっかりと把握することが肝要である。

 第三章では、現代の環境問題が産業革命以来続いている「地下資源文明」に主要な原因があること、従ってそれを克服するためには「地上資源文明」へと切り替えるべきこと、そのようなパラダイムシフトの時代に入っていることを論じる。おそらく、これからの五〇年は文明の形態が大きく変化する時代であり、いかに新しい価値観の時代ヘソフトランディング(軟着陸)するかが問われているかを強調したい。

 第四章では、そのような時代変革期における科学・技術の体系がどのように変わるべきかを考えてみたい。地下資源文明では当たり前であったことが地上資源文明においては通用しなくなることも多いだろう。生産・消費・廃棄の構造を変革しなければならないのである。今そのための準備を開始しなければならない。そして、持つべき原則は何かを明らかにして進むことが必要である。それらについて日頃考えていることを提示したい。

 最終の第五章では、私たちの身近な場面でなしうる事柄を提起したい。環境問題の最大の困難は、個人でやっても仕方がないという諦めであり、結局何もしないで流されていくことである。失ってしまってから悔やんでも仕方がない。今可能な範囲から生活を改めていく、そのような力の結集が社会や文明を変えていく原動力となる、その当たり前の事柄を確認したいのである。

 ニ、地球温暖化問題の真実

 いよいよ、本年四月から京都議定書に基づいた温室効果ガス削減の約束期間がスタートした。二〇〇八年から二〇一二年までの五年間で、日本は一九九〇年レベルから六%の削減を履行しなけれぱならない。九〇年比で七・七%増(二〇〇五年度確定値)となっている日本はきめ細かな対策を採らねば達成できないだろう。EU諸国が八%減に向けて着々と手を打ち、イギリスやドイツはほぼ目標を達しているのと大きな違いである。日本も積極的に温室効果ガス削減のために行動しなければならない。

 ところが、それに逆行するかのごとく、地球温暖化に関して以前からさまざまな異論が出されている。最近になって多くの論者が足並みを揃えて、地球温暖化は恐れることはない、むしろ過去の温暖化した時代の方が豊作が続いて地球は平和だったと言い始めているからだ。むろん、そのような論はいつでもあったが、組織的になってきたのが特徴だろう。また、その論理が変わってもきた。かつては、気温を測っている場所が都市に偏っているのでヒートアイランド(都市が廃熱で高温化する)現象のため地球温暖化のように見えているだけだとか、広い海上には温度計が設置されていないので本当に平均気温を出していない、人工衛星のデータは異なった結果を示している、というような非難が出されていた。ところが、この一〇年くらいの間で詳しく吟味された結果、温暖化そのものは事実として確認されるようになった。そこで、地球温暖化をむしろ歓迎する論へと転向したのである。

 とはいえ、地球温暖化の原因が二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの増加によるとする意見に根強い疑問が投げかけられている。大気中の二酸化炭素量が増えていることは明らかな事実だから、それは否定するわけにはいかない。そこで、二酸化炭素の増加と温暖化が因果関係にあるかどうかに疑問を呈しているのである。

例えば、二〇〇七年二月に出されたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第四次報告書(第一作業部会)では地球温暖化の原因として人間の活動による温室効果ガスの増加の「可能性がかなり高い」と言っているが、これは九〇%以上ということで、必ずしも一〇〇%証明されたわけではない。逆に温暖化が原因となって二酸化炭素が増えたと解釈できる余地もある。事実、過去の地球の温度と二酸化炭素量の変化を調べてみると、温暖化してから二酸化炭素が増加したことも多い。

見かけ上の二つの結果の因果関係が逆である、というわけだ。ならば、温暖化の原因は何かと問えば、太陽活動であるとか、宇宙線の効果であるとかの、すぐには証明できないことに持って行くのだが……。とはいえ、まだ研究の余地があることは事実である。

 あるいは、地球が温暖化して二酸化炭素が増えれぱ植物の光合成が活発になって農業生産にプラスになるとか、これまで寒くて農業に適さない土地でも農作物が育つようになって食糧生産が豊かになる、という論も出されている。それも必ずしも否定できない。むろん、これまで穀倉地帯であった場所が荒れ地になってしまうという大きな代償については何も触れないのだが……。

 さらには、IPCCの今後一〇〇年間の予想はシミュレーションによって得られた結果だが、シミュレーションには人為的要素が多くあって信用できるかどうかわからないと難癖をつける。確かに、シミュレーションはまさに「模擬実験」であって、わからない物理過程についてはパラメーター(助変数)で置き換えており、その選び方で答が変わることもある。といって、そんなにヘンテコな値を採っているわけではないので、解の傾向はおおむね正しいと考えてよいのだが……。

 右でいくつも「だが……。」と文章を切ったように、地球温暖化についてはまだ不明な部分が多くあって断定しかねる点が多いことは否定できない。それは地球が「複雑系」であることに起因する。

「複雑系の地球における根本問題」

 複雑系とは、系を構成する要素が多くあり、それらの要素間に非線形関係(直線的ではなく、曲線で結ばれる関係)があって、簡単に答えが得られないような系である。複雑系では、カオスのような不規則な振る舞い、量から質への転化、新しい状態への大がかりな転移(「自己組織化」という)、ゆらぎや雑音が無視できず大きく発展する、などの特徴がある。現代科学が最も不得手とする問題なのだ。

これまでの科学が成功してきたのは、より基本の物質に遡って分析すれば答えが明確にわかり、原因と結果が一対一で対応しており、部分の和が全体となっているような場合で、これを「要素還元主義」と呼ぶ。その方法が通じない問題については複雑系として後回しにしてきたのだ。

 地球の気象や気候は、大気と陸地と海洋の三要素が絡み合った現象であり、まさに複雑系である。従って、気象変化も三日先くらいしか正確に予想できず、長期間の気候変動はまだまだ手探りの状況にあると言わざるを得ない。

 例えば、大気中の二酸化炭素量の増加はほぼ人間の活動に由来することはわかっているが、実際の挙動そのもの──森林や海の吸収、逆に森林や海からの放出、気温の上昇とそれらの関係など──は正確にわかっていない。そのため何%増えればどれくらい温度上昇に効くかについて定量的な議論ができないのである。現に厳寒の冬も暖冬もあり、気温が上昇した地域も下がった地域もあるので、一様に温暖化しているわけでもない。いくらでも難癖がつけられ、それに対し一〇〇%科学的に反論することができないとも言える。現代の科学はまだまだ不十分なのである。

 とはいえ、地球が温暖化していることは確実で、このままいけば大がかりな気候変動が引き起こされるのは確実だろう。現に、雨の多い地域は豪雨が頻繁になる一方、雨の少ない地域はますます少雨になって砂漠化か進行している。また、大気中の二酸化炭素の量は少なくとも人類が発祥して以来初めての多さで、たとえ今異変を引き起こしていないとしても、近い未来に何かもたらされるかわかってはいない。このまま放置しておいてよい問題ではないのである。私は後に述べるような「予防措置原則」を主張しているが、地球にどのような変動を招くか不明確な現在においては、可能な限り予防的な手を打って現状から大きく変化させないことに精進すべきであるだろう。

 ここで少しばかり注意をしておくことがある。一つは、暖冬や酷暑、台風やハリケーン、集中豪雨や砂漠化など、確かに気象異変・気候変動と思われる現象が頻発しているが、それをすべて「地球温暖化のせい」と決めつけてわかった気になり、それ以上突き詰めないことが習い性になっていないか、という点である。それは一種の思考停止であり、諦めに直結する。地球温暖化が原因ならば仕方がないこと、と捉えられているからだ。安易に結論を出さず、どのような仕組みでそれが起こるのかを考え続ける態度が必要である。それが私たちの生活を見直すきっかけになるからだ。

 もう一つは、「地球の危機」と呼ばれ「地球に優しく」という標語が躍っているが、地球は過去何度も大きな気候変動を被り、海浜の前進・後退を繰り返してきた。地球にとってはむしろ変動が当たり前で、地球は今の状態を痛くも痒くも感じていないだろう。しかし、地球の危機と呼ぶことで何か縁遠く、またどうしようもないという気分を抱かせてしまう。現在の環境問題は、地球規模の変動で人類をはじめとする生態系の危機が迫っていることが根本問題なのである。端的に言えば人類絶滅の危機を迎えているのだ。そのことをしっかりと押さえておく必要があると思っている。

三、地下資源文明からの脱却

 現代の環境問題の根源は、産業革命以来続いてきた地下資源の利用にあることは論を俟(ま)たない。かつて、地下資源は無限にあるとして大量生産・大量消費に励み、その結果生じた廃棄物の捨て所の地球環境は無限に大きいとして大量廃棄を当然としてきた。上流側の資源と下流側の廃棄、そのいずれも無限だと信じていたのだ。そして人間の活動が地球大に展開するようになった現在、地下資源の有限性が目の前に見え始め、地球環境の容量の有限性が明らかになってきたのである。石油の高騰は(ファンドによる値段の釣り上げがあるにせよ)化石燃料の枯渇が背景にあり、大気中の二酸化炭素の増加は如実に環境容量の有限性を示している。

 では、資源の枯渇と環境の破綻のいずれが先にくるのだろうか。私は、このまま手を拱(こまね)いていると、同時に来ると思っている。そのときは、人類の絶滅のときであるかもしれない。というのは、資源が逼迫し始めれぱ苛烈な資源獲得戦争が起こり、環境に修復できないくらいの大惨事を引き起こすであろうと考えるためである。これまでに消滅した文明はみな同じ道をたどってきたのだ。例えば、イースター島の文明崩壊は数少ない木々が一本も残さず切り倒された時点であった。

 そう考えれば、まだ地下資源が残っている現代の時点で、それを有効に使いつつ地上資源文明に切り替えていくことを考えねばならない。地上資源とは端的に言えば太陽エネルギーを源泉とする資源であり、太陽光・太陽熱・風力などのエネルギー源(地熱や潮汐力など地球が備えているエネルギー源もある)、バイオマス(植物資源)や有機廃棄物(糞尿)の利用である。

 地上資源は地下資源に比べてエネルギー濃度が低く不安定な要素が多いため、これまでの地下資源文明下では見捨てられてきた。同じ効率を達成するためには設備を大きくしなければならず、不安定さをなくすためにはさまざまな技術を組み合わせねばならない。地上資源は、大型化・一様化・集中化して大量生産する地下資源文明の方法には不適合なのである。例えば、アメリカでバイオエタノールをクルマの燃料に使うことが大流行しているが、それは石油の完全な代替にはならない。効率重視の社会では地下資源の優位性は否定できないのだ。

 とはいえ、地上資源に依拠しなければ人類が存続できない時代が迫っているとあれば、効率一辺倒の発想から脱却して生産・消費・廃棄の構造を考え直し、地上資源に適合した生活スタイルに徐々に変えていかねばならない。まさに、価値観の転換が求められているのである。

「科学、技術の新境地」

 地上資源文明が軌道に乗った時代を想像してみよう。例えば、現代はより便利な製品を求めて買い換え使い捨てが常態となっているが、地下資源が少なくなれば当然物を大事にして長持ちさせることが美徳となるだろう。効率が少しくらい悪くなっても地上資源で代替してゆかざるを得なくなることも確実である。便利さと時間の短縮競争から逃れて、多少不便であっても確実さと環境への安全が優先される社会になるだろう。地上資源はすべて自然に還るものだから、廃棄については心配する度合いが減るに違いない。二四時間営業というような不自然極まる商売は忌避されるだろう。そのような社会の方がゆったりと生きることができるのではないだろうか。

 むろん、それとともに新しい技術の開発が必至になる。バイオマスの利用の方法がいろいろと考え出され、思いがけなかった余得もあるだろう。例えば、現在はトウモロコシの実からバイオエタノールを採取して食糧不足を引き起こしているが、トウモロコシやサトウキビの幹や葉っばからバイオエタノールを生産する技術が開発される可能性がある。太陽光と燃料電池を組み合わせて電力と温水生産を行うことももっと安価になるだろう。人工化学物質ばかりに頼らず、生物資源から薬品や化粧品を合成する技術も開拓されるだろう。木炭の火力に合わせたクルマや電車もつくられるだろう。

 つまり、これまでは地下資源に頼り切った技術しか開発してこなかったのであって、ある意味で安易な道を歩んできたに過ぎないのである。地上資源へと発想が変わればまだまだ開発要素が多くあることに気づき、思いがけなく素晴らしい発明もなされるのではないだろうか。私は、その意味で科学や技術の新境地が開けると信じている。

 問題は、そのような地上資源文明にいかにソフトランディングするかだろう。今急に舵を切ることは不可能だが、そのような方向に切り替える準備を開始すべきなのである。今後五〇年の間にどれだけ接近できるかが鍵であり、まさに時代の変わり目を迎えつつあると言えるのだ。

四、科学と技術の見直し

 先にも述べたが、現代の技術体系は大型化・一様化・集中化を専らとしてきた。その方が大量生産に有利であり、効率も高かったのは事実である。しかし、それは地下資源に依拠して可能であったのだから、地下資源が乏しくなっていく将来において同じ方式が有利であるとは限らない。また、この方式は大量廃棄を前提として成り立つもので、廃棄物の処分(有効利用)まで考慮すると、果たして本当に効率的であるかどうかの疑問もある。資源の採取から最後の廃棄までトータルに見て、本当に環境と調和する方式を考えねばならない。

「小型化・多様化・分散化の技術体系」

 その一つの方向は、大型化・一様化・集中化とは対極的な小型化・多様化・分散化の技術体系であろう。例えば、一基で一〇〇万kwの大型原発を何基も集中立地させる方式に対して、太陽光発電パネルを各家屋の屋根や壁に取り付ける方式の比較である。太陽光発電は小型化・多様化・分散化の典型的技術と言える。他の発電方式と組み合わせてエネルギー源を多様化し、小型でどこにでも取り付けられ、各家屋に分散的に使われるからだ。現代ではまだ太陽光発電パネルは高価であり、その設置費用を回収することは容易ではない。しかし、新しい素材が開発され、寿命も延び、値段も下がりつつある。いずれ、もっと普及するに違いない(私は、すべてを大量生産すべきではないと言っているのではない)。生活に密着している他のものでは、雨水を溜めての中水利用、井戸の活用、生ゴミ処理機、ガスボンベなどがある。

 小型化・多様化・分散化技術の良さの第一は、その柔軟性にある。個々人が自由に制御し操作できることから、持ち主の意志が反映できるのだ。太陽光発電を始めた人々が共通して口にすることは、節約精神が身につくという点である。電力会社から送られてくる電気の単なる利用者でなく、すぐ傍らで生産している電気だから愛着がわき、無駄遣いをしなくなるのだ。

さらに、小型化・多様化・分散化の技術は、廃棄にも責任を負う態度が養えることもある。例えば、生ゴミ処理機を備えるようになると、自らの手で始末をつける必要から極力生ゴミを減らす工夫をするようになる。つまり、生産から廃棄まで面倒を見る癖が自然に身につくのだ。また、地上資源の利用は小型化・多様化・分散化に相性がよいことも指摘できるだろう。地上資源はそもそも環境に負荷をかける量が少ない上に、融通が利くのである。

 もう一つの良さは、災害などの危機においては大型化・一様化・集中化の技術は極めて脆(もろ)く、いったん障害が発生するとインフラの修復に時間と巨大な費用を要するのに対し、小型化・多様化・分散化技術はどのような状況にも対応できるという点である。震災が起こってガス・電気・水道が止まっても、ガスボンベ・太陽光発電・井戸があれば当座を凌ぐことができる。今後、大地震の襲来が予想される日本においては、防災・減災への備えは必携のものである。災害に強い国づくりはダムや水門の整備で自然と力比べすることではなく、柔軟にやり過ごして被害を最小に留めることではないだろうか。それこそが地上資源文明時代の知恵なのである。

【複雑系に対する理解】

 一方、科学研究のパラダイムシフトは、複雑系に対する理解を深めることから生じるだろう。全く不規則運動のカオスと言っても、これまでとは異なった観点から見れば秩序があることがわかってきた。自然の現象はいかに複雑で乱雑に見えようと普遍性や法則性が貫徹しており、それを見いだせば複雑系に対する知見が拡大することは確実である。現在は、複雑系に関して博物学的にデータを集積する段階なのだが、いずれ気象異変や気候変動に関わる問題にも見通しが得られるようになるだろう。それには分析的手法を専らとする要素還元主義とは違った総合的手法や統合的な視点を開発しなければならない。シミュレーション手法ももっと確かなものとなっていくに違いない。

 コンピューターの発達は日進月歩であり、複雑系を捉える視点も研ぎ澄まされていくだろう。人類の英知が集団として注がれると、これまでの力任せで解を得る方法から、もっとエレガントで効率的な手法へと洗練されると考えられる。今まで本式に取り組まなかったから研究が遅れたに過ぎないのだから。もっとも、これまで難問として後回しにしてきた問題に取りかかるのだから時間がかかることは必定である。また、未解決の問題も多く残すであろうことも予想される。科学の歩みは一筋縄ではいかないのが通常であるからだ。しかし、確実に進展することも確かである。私は新しい科学の方向がそこから芽生えてくると信じている。

 複雑系のような現代科学で直ちにシロ・クロがつけられない問題について、私たちが取り得る考え方は「予防措置原則」ではないだろうか。環境や人間の健康に悪影響があると予想される問題については、性急に手を出さず、用心をしながら実験を積み重ねることである。常に環境と健康にとってプラスかマイナスかを慎重に判断しながら進む態度を共有しようというわけだ。環境問題で言えば、二酸化炭素の増加が人間の生活に悪影響を与えることは明確なのだから、その削減のために努力すべきことは言うまでもない。

 人工化学物質の規制の歴史を思い起こしてみよう。最初は、急性毒しか禁止されなかったが、やがて発ガン性物質が禁止されるようになり、今では慢性疾患を引き起こす恐れがある物質も差し控えられるようになった。実際に被害が出てから後追いで厳しくなってきた歴史なのだが(その意味では人体実験を行ってきたのに等しい)、より安全な範囲を厳密に考えるようになったのも事実である。とするなら、次に打つべき手は被害が出る前に予防的措置をとることだろう。環境問題についてもそれと同じで、予想される危険性を回避する策をとるべきなのだ。温室効果ガスの削減を目指した京都議定書は予防措置原則の適用例と言える。今後、第二、第三の「京都議定書」を世界的な規模で取り組むべきであるだろう。一国だけでは済まないからである。

 予防措置原則は、ヨーロッパで提起されただけに多くの研究事例がある。とはいえ、まだまだ議論すべき課題は多い。自由貿易を阻害しないか、イノベーション(技術革新)の意欲をなくすのではないか、誰が原則をつくるのか、損害はどのように補填するのか、等々検討すべき項目が多くあるからだ。予防拘禁や予防戦争などという物騒なこととどう区別するのかについても明確にしなければならない。しかし、複雑系という直ちに答えが得られない対象に関して予防措置原則を練り上げる必要があると思っている。環境問題はその最たるものなのである。

五、私たちにできること

 環境問題について、先進的な取り組みを進めているのはヨーロッパだろう。京都議定書の約束を着実に実行しているだけでなく、特に産業界の取り組みが熱心で環境に負荷をかけない技術開発に先行投資をしているからだ。温暖化対策を渋る日本の企業とは好対照である。その根底には二つの要素がある。

 一つは、ヨーロッパの企業は環境対策に熱心でなければ消費者や投資家の支持を失うとはっきりと認識していることがある。長期的な視点で企業の存続を考えており、近場の利益に終始している日本とは違って腰が座っているのだ。京都議定書の批准を拒否したアメリカでも、いくつかの州や企業では環境対策を優先するようになった。そのままサボり続ければ世界で孤立してしまうことを恐れたからだ。

ブッシュがどう考えようと、アメリカ社会ではカーボンマネージメント(二酸化炭素排出量の管理)に熱心でなければやっていけないことを自覚していると言えよう。日本は環境技術においては世界をリードする地位にあるのだから、「もう十分にやっている」などと言わず、その技術力をもっと研ぎ澄まして更に世界を引っ張る方向に進むべきだろう。それが結局企業自身のためにもなるのである。

【決意せる消費者】

 もう一つは、市民の日常的な実践がある。ドイツは、太陽光発電で日本を抜いて世界一になり、風力発電でも世界のトップを走り、ゴミの減量に努め、リサイクル事業も官民一体で進めてきた。その結果、九〇年比で温室効果ガス削減を既に一八%まで達成している。そのような自覚した市民の目が企業の姿勢を糺(ただ)すというフィードバックもある。ともすれば、一人でやってもたいしたことはないと思いがちだが、そうではないことをドイツの人々が示している。一人一人の行動の積み重ねが大きな力となって政府や企業の態度を変えさせることを可能にするのである。

 それを「決意せる消費者」と呼ぼう。環境問題の真の解決には、環境に負荷をかけない生き方を決意した消費者が不可欠なのである。そのような市民が増えれば、政府や自治体や企業に対して要求する圧力も強くなるだろう。自らの実践が背景にあるのだから確信を持って要求できるからだ。企業も生き残りをかけて対応するだろう。市民の力が社会を変えていくことになる、そんな実感が持てれば弾みがつくに違いない。

 私自身は、IM5Rを実践目標においている。IMとは「もったいない」精神であり、物を大事にする心掛けである。5Rは、通常言われている3つのR、Reduce(減らす)、Recycle(リサイクル)、Reuse(再利用)に加え、Refuse(拒否する)、Repair(修理する)の2Rを加えている。欲望を拒否する心と使い捨てをしない気持ちを強調したいためである。

 地球温暖化は焦眉の問題である。とはいえ、明日にも破綻がくるわけではない。それが対策を遅らせている主要な原因ではあるが、取り組み次第で回復可能であることも事実である。決意せる消費者を増やして国や企業に対し環境対策に前向きの姿勢をとらせることは、日本の世界に対する義務と言えよう。このままでは、むしろ足を引っ張る役割しか果たしそうにないからだ。それは日本の将来を危うくするとさえ言いうるだろう。
(「前衛」08年6月号 日本共産党中央委員会 p105-114)

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◎「現在の環境問題は、地球規模の変動で人類をはじめとする生態系の危機が迫っていることが根本問題……端的に言えば人類絶滅の危機を迎えている……そのことをしっかりと押さえておく必要がある」と。