学習通信090330
◎過去の太陽熱の浪費者……

■━━━━━

 太陽が誕生したのは四六億年前である。このとき、地球も他の惑星とともに誕生した。以来太陽はゆっくり光度を上げながら輝き続け、地球にエネルギーを注いできた。この太陽エネルギーは、地球を改造し、生命を生み出し、人間が作り出した文化や科学・技術を駆動する源泉となった。

 太陽エネルギーは、液体の水を水蒸気に変えて上空へ昇らせ、地表の廃熱を宇宙に捨てるエアコンを駆動している。この水循環によって、地球は金星のような熱地獄にならずに済んだ。天から降り落ちる雨は、さまざまな物質を溶け込ませて海に流れ込み、栄養豊かな生命の揺りかごを準備した。海中にまで差し込む弱い太陽の光によって化学反応が駆動され、やがて原生的な生命体となった。海の栄養物が食べ尽くされた頃、積極的に太陽の光を取り込んで自ら栄養物を作り出す生命体が現れた。「光合成」を行う植物である。その働きによって、太陽エネルギーがブドウ糖として固定されるとともに、空気中の酸素が徐々に増加し、陸上へ生物が進出する条件を整えられた。

 そのうちに、自ら動き回って植物を栄養素として取り入れる草食動物が生まれ、さらに草食動物を獲物とする肉食動物も姿を現した。動物も、植物の介添えによって、太陽エネルギーで生きているのである。陸上へ最初に進出したのも植物であり、それらが緑で地球を覆い尽くすとともに、動物も陸上へと広がっていった。これらの生命体の死骸は地下深くに堆積され、長い間高圧で圧縮されるうちに石炭や石油へと変成されていった。人類の重要なエネルギー源である石炭や石油も、生命体を通しての太陽エネルギーの具現化なのだ。

 現在の私たちは、過去に蓄積された太陽エネルギーを掘り出して使っているが、いずれ枯渇するのは明らかである。ところが、地球上の一平方メートル当たりに約一kWの割合で降り注いでいる太陽エネルギーを利用しきれないでいる。過去に蓄積された太陽エネルギーではなく現在やってきている太陽エネルギーを利用する、それでこそ「持続可能な生存」が可能になるのだ。

私たちが排出している廃棄物

 自然エネルギー利用のことを議論する前に、私たちの日々の暮らしのために使っている電気で、どれくらいのエネルギー使用をしており、どれくらい廃棄物を出しているかについて、いくつかのデータをまとめておこう(一九九七年のデータ)。

 日本の電力会社の一年間の発電電力量は約七八〇〇億kWHで、産業用も含めた全エネルギー使用の四〇%にあたる。これの三分の二の五二〇〇億kWHが火力発電、三分の一の二六〇〇億kWHが原子力発電で、一人当たりにすると六二〇〇kWHである。

 火力発電を石油に換算してどれくらいの量を使っているかを計算してみよう。一kWHの電力を生み出すためには、火力発電の効率を三八%として、約二三〇〇キロカロリーが必要である。石油一リットルの燃焼熱量は約九〇〇〇キロカロリーだから、三・九kWH分を発電できる。従って、五二〇〇億kWH分の火力発電に、石油一・三億キロリットルを燃やしている計算になる。重さにすると、ほぼ一・一億トンで、一〇〇万トンタンカー二〇杯分、三〜四日に一回タンカーが日本に石油を運び込まねばならない量である。(産業用に使っている石油も併せて、日本で使っているエネルギー総量を石油に換算すると五・一億トンになる。実際に石油が占める割合は五三%、二・七億トンである。)

 日本の人口は、約一・二億人だから、電力用の石油は一人一年で一トン弱、産業用を含めると石油換算で一人四・三トンにもなる。ちなみに、石油で一kWHの発電をしたとき、発生する二酸化炭素は約二〇〇グラムだから、日本中で電力発電のために一年間に発生させている二酸化炭素も約一億トンである。つまり、私たちは、一人で一年に一トン弱、一日で約三キログラムの二酸化炭素を電力使用の廃棄物として発生させているのだ。産業用も含めると石油燃焼による二酸化炭素排出量は一人一年で約二・五トンにもなっている。さて、私たちは、これほど大量の二酸化炭素を排出していることを意識しているだろうか。

 一方、原子力発電では、一〇〇万kwの原子炉で、一年に約三〇トンの放射性廃棄物(死の灰)が出る。これは、ヒロシマに落とされた原爆一三〇〇発分にあたる。(ウラン採掘から燃料捧製造までの全過程を計算すると、放射性廃棄物の総量はこの一〇〇倍以上になるそうだ。)

 日本では、一年に二六〇〇億kwHを原子力で発電しているから、一〇〇万kwの原発三〇基がフル稼働している計算になる。(実際には、原子力発電所は五一基あるが、稼働率と発電規格を考慮するとこの程度になる。)これによって、年間に約九〇〇トン、日本人一人当たり一年で約八グラムの死の灰を排出している。このように多数で割るといかにも少ないように見えるが、毎年、ヒロシマ原爆約四万発分、三〇〇〇人で一つずつヒロシマ原爆の死の灰を作り出しているのだ。(以上は、概算で、誇大にならないよう少なめに計算している。)

 いずれにしても、私たちは膨大な廃棄物を出しながら生きていることがわかる。これをいかに少なくするか、その一つの方向が太陽エネルギーを軸とする自然エネルギー利用なのである。

太陽エネルギーの収支

 太陽表面から放射されているエネルギーは、中国式の大数の呼び方を使えば、約四〇〇〇咳wである。つまり、四の後に〇が二三個並んだ巨大な数だ(「兆」がて一二桁、「京」が一六桁で、「垓」は二〇桁)。このエネルギーのうち、およそ二三億分の一の、一七三兆kWが地球に到達している。といっても、その三割は雲によって反射されてしまうので、地球表面に到達できるのは一二一兆kWである。(地球の半径は約六〇〇〇kmで、その表面積の約四分の一に太陽光が垂直入射するとすれば、一平方メートル当たり一kWのエネルギーが入射していることになる。)

 この太陽が送ってくるエネルギー流量は、全人類が常時使っている全エネルギーの約七〇〇〇倍で、日本という狭い土地に限っても数十倍にもなるくらい膨大なものである。ところが、地球に入射する太陽エネルギーの六七%の八一兆kWは、いったん地表に吸収されて熱に変わり、赤外線となってそのまま宇宙に再放射されている。この入射エネルギーを太陽光パネルで捉えようというのが太陽光発電である。また、残り三三%の四〇兆kWは、水の蒸発に使われ、雨を降らせる駆動力になっている。つまり、水力発電のエネルギーの源泉は、ここから得られているのだ。同時に、風・波・空気の対流・海水の流れなども、太陽エネルギーから生み出されている。

 光合成に使われている太陽エネルギーは四〇〇億kWで、降り注ぐ太陽エネルギーの〇・〇三%でしかないが、これによって地球上の生命が維持できている。つまり、人間の手で、たったこれだけの割合でも太陽エネルギーが利用できれば、植物並みのエネルギー効率を発揮できるのだ。

 現在、考えられ、実行されている太陽エネルギー利用は、水力発電・太陽光発電・太陽熱発電・太陽熱温水・風力発電・波力発電・海洋温度差発電・塩分濃度差発電などがある。また、バイオマス(生物の集合体)とは、生物体そのものを利用するもので、太陽エネルギーによって生物が生きているという意味で太陽エネルギーの利用になっている。

 なお、地熱発電や潮汐作用による潮汐発電は、自然エネルギーだが、必ずしも太陽エネルギー起源ではない。しかし、それらも含めて自然エネルギーの利用として随時挟んでいく予定である。
(池内了著「私のエネルギー論」文春新書 p109-114)

■━━━━━

エンゲルスからマルクス(在ヴェントナー)ヘ

ロンドン、一八八二年一二月一九日

 親愛なモール
 昨夕五時に君の手紙がきて、今朝あの原稿が返送されてきた。君の判断はたいへんなお世辞で、僕は、少なくとも形式にかんするかぎり、それに同意することはできない。きょうはよく晴れて暖かい昼間だから、君もようやく一両時間は屋内禁固から解放されたことだろう。われわれはこちらではもちろん一時以後はまたしても濃くなっていく、うすくなったり濃くなったりしながら夜のようになっていく霧に出会っている。

 ポドリンスキーの話(これは、セルゲイ・ポドリンスキーの論文『社会主義と物理的エネルギーの単位』のこと)は、僕は次のようなものだと思った。彼のほんとうの発見は、人間の労働は太陽のエネルギーを人間の労働がない場合よりも長いあいだ地球の表面に固着させて作用させることができる、ということだ。

彼がそこから引き出した経済学的な推論はすべてまちがっている。

僕はこの論文を手もとにもってはいないが、近ごろイタリア語で『プレーベ』紙上で読んだばかりだ。

その問題点、すなわち、どのようにすれば一定量の食料のなかにあたえられているエネルギー量が労働によってそれ自身よりも大きいエネルギー量をあとに残すことができるか、という問題を僕は次のようにして解く。

人間ひとりに一日に必要な食料によって代表されるエネルギー量が一〇、〇〇〇WE(熱量単位)によって表わされる、と仮定しよう。

この一〇、〇〇〇WEは永久に同じ一〇、〇〇〇WEであるが、実用では、他のエネルギー形態への変化にさいして、周知のように、摩擦などによって、利用不可能にされる部分を失う。

しかも、人体ではそれが著しい。

だから、経済的な労働においてなされる物理的な労働はけっして一〇、〇〇〇WEに等しくはありえないのであって、それは常により小さいのだ。

 それだからと言って、物理的な労働もまだまだ経済的な労働ではない。

一〇、〇〇〇WEによってなされる経済的な労働は、けっして、全部または一部分の、この形態やあの形態での、同じ一〇、〇〇〇WEの再生産ではない。

反対に、これは大部分は増大し発散する体温などとして失われてしまって、そのなかから利用可能として残るものは、排泄物の肥料能力だ。

ひとりの人間がこの一〇、〇〇〇WEの消費によっておこなう経済的な労働は、むしろ、太陽から彼に放射される新たなWEを長短の時間にわたって固定することにあるのであって、このWEは最初の一〇、〇〇〇WEとはただこのような労働関係をもつだけなのだ。

そこで、いま一日の食料の一〇、〇〇〇WEの消費によって固定される新たなWEが、五〇〇〇になるか、一〇、〇〇〇になるか、二〇、〇〇〇になるか、それとも一〇〇万になるか、ということは、ただ生産手段の発展の程度だけによって定まるのだ。

 これを計算によって明らかにすることができるのは、やはりただ最も原始的な生産部門においてのことでしかない。

すなわち、狩猟、漁撈、牧畜、農耕がそれだ。

狩猟や漁撈ではけっして新たな太陽エネルギーが固定されるのではなくて、ただ、すでに固定されているものが利用可能にされるだけだ。

そのさい明らかなのは、──この当事者の正常な栄養を前提して、──彼が獲得する蛋白や脂肪の量は、彼が消費するこれらの物質の量とは関係がない、ということだ。

 牧畜の場合には、普通ならば急速に衰えたり枯れたり分解したりする植物成分が、計画的に動物性の蛋白や脂肪や皮や骨などに変えられ、したがってより長く固定されるかぎりにおいて、エネルギーが固定される。計算はここではすでに複雑になってくる。

 農耕の場合には、補助物質や肥料などのエネルギー価も同様に計算にはいってくるので、計算はさらにそれ以上に複雑になる。

 工業の場合には、いっさいの計算がまったくできなくなる。

すなわち、生産物に付加されている労働がたいていはもはやWEでは表わせないのだ。

これが、たとえば一ポンドの糸については、なんとかしてできるとしても、すなわち、その強靭度や抵抗度をやっとどうやらひとつの機械的な定式に再現できるとしても、それはここではすでにまったく無益な杓子定規として現われるのであって、すでに一片の粗布の場合にも、まして漂白されたり染色されたり印刷されたりした布の場合には、もはやばかげたことになるのだ。

生産費から見ての、一個のハンマーや螺旋や縫針のエネルギー価は計測不可能な量なのだ。

 経済的な諸関係を物理的な量で表わそうとすることは、僕の見解では、まったく不可能なことなのだ。

 ポドリンスキーがまったく忘れてしまっているのは、労働をしている人間は、たんに現在の太陽熱の固定者であるだけではなくて、それよりもずっとはなはだしい過去の太陽熱の浪費者である、ということなのだ。

エネルギーの貯蔵物である石炭や鉱石や森林などの乱費においてわれわれがなにをやっているかということは、僕よりも君のほうがよく知っている。

このような観点から見れば、狩猟や漁撈も新たな太陽熱の固定としては現われないのであって、すでにまえもって蓄積されている太陽エネルギーの消尽として、また、すでに始まっているその乱費として、現われるのだ。

 さらに、人間が労働によって意図的におこなっていることを、植物は無意識的におこなっているわけだ。

植物は──これはもう古い話なのだが──、形を変えた太陽熱の大きな吸収者であり貯蔵者であるのだ。

労働が太陽熱を固定する(ということは産業においてもそのほかのことにおいてもけっして例外なしにおこなわれるのではないが)かぎりにおいては、労働によって人間は、エネルギーを消費する動物の自然的な諸機能と、エネルギーを集積する植物の自然的な諸機能とをひとつに結合する、ということをなしとげるわけだ。

 ポドリンスキーは彼の非常に価値のある発見からわき道に逸脱してしまったのだが、それは、彼が社会主義の正しいことの新たな自然科学的証明を見いだそうとして、そのために物理的なものと経済的なものとをごちゃ混ぜにしてしまったからなのだ。

 小切手四〇ポンドを同封しておくから、君が欲するときに、そして退路を用意したときに、それを現金化すればいい。
 トゥッシが行くことについては今晩彼女と話してみよう。われわれのことでは、ジョリマイアーはもちろんすぐにそれに同意した。さらにくわしいことは、彼がきてから打ち合わせることができるだろう。ではまたあす。
君の F・E
(ME全集第三五巻 大月書店 p108-111)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「過去に蓄積された太陽エネルギーではなく現在やってきている太陽エネルギーを利用する、それでこそ「持続可能な生存」が可能になる」と。