学習通信090402
◎「生きる」ためにはたたかわなければ……

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「殺されたくないものは来れ!─」その学生上りの得意の宣伝語だった。毛利元就の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある「綱引き」の例をもってきた。「俺達四、五人いれば、船頭の一人位海の中ヘタタキ落すなんか朝飯前だ。元気をだすんだ。」

 「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっちは船長から何からを皆んな入れて十人にならない。処がこっちは四百人に近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。十人に四百人! 相撲になるなら、やってみろ、だ。」

そして最後に「殺されたくないものは来れ!」だった。──どんな「ボンクラ」でも「飲んだくれ」でも、自分達が半殺しにされるような生活をさせられていることは分っていたし、(現に、眼の前で殺されてしまった仲間のいることも分っている。)それに、苦しまぎれにやったチョコチョコした「サボ」が案外効き目があったので学生上りや吃りのいうことも、よく聞き入れられた。
(小林多喜二「蟹工船」新潮文庫 p110-111)

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『蟹工船』と若い世代
  伊豆 利彦

 激動の二〇〇八年はいつまでも人々の記憶に残る年となるだろう。北京オリンピックもアメリカの大統領選挙も遠い過去のことに思われる。それほど激しい時代の動きだ。アメリカ発の経済危機が全世界を揺り動かし、初の黒人大統領が生まれた。日本でもトヨタや日産、ホンダなどの自動車、その他、ソニーやキヤノンなどの大企業が大量クビキリを強行し、仕事と同時に住まいも失った労働者が大量に生み出された。

 この年、一九二九年、世界大恐慌の年に発表された『蟹工船』がにわかに売れ始め三〇万、四〇万と爆発的に売り上げを伸ばして人々を驚かした。新潮文庫版だけでも六〇万部を売り土げたという。特設売り場が設けられ、大々的に売り出される様子が新聞、テレビなどでさまざまに報道され、『蟹工船』ブームともいうべき現象が生まれた。

 二〇〇六年に白樺文学館多喜ニライブラリーが刊行したのを皮切りに、漫画版『蟹工船』も各社から相次いで刊行され、若者たちの間にさまざまな形で浸透していった。正社員の長時間労働や日雇い派遣の劣悪な労働など、苛酷な現場の実態をさして「蟹工船」とか「カニコー」とかという言葉が使われるようになり、「蟹工船」は二〇〇八年の新語・流行語大賞のトップテンにえらばれた。

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 『蟹工船』は北洋漁業船団が出港する時期にはしばしばテレビでも話題になり、記念切手になるなど、その名は比較的知られていたが、若者たちの間ではその名も知らぬものが多く、小林多喜二はすでに現代と無縁な過去の作家だった。

 多喜二には熱烈な支持者がいて、いまも全国各地で多様な記念集会が聞かれている。こんな作家は珍しいが、参会者はほとんどみな、青春の一時期に多喜二と出会い、生涯忘れることのできない大きな影響を受けたと思われる人々で、年々高齢化は避けられない。〇三年に広い東京・九段会館大ホールを満員にして、没後七〇年、生誕一〇〇年を記念する集会が聞かれた時、その盛況に驚くと同時に、多分、これが最後の大集会になるのではないかと思った。しかし、豊島公会堂で開かれた民主文学会主催の没後七五年「多喜二の文学を語る集い」は前売り券があっても入場できないほどの盛況だった。この五年の間に新しい事態が始まっていたのだ。

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 この集会では、若い作家の浅尾大輔(三八歳)が司会し、小樽商科大と白樺文学館の「蟹工船エッセーコンテスト」に入賞した山口さなえ(二五歳)と狗又ユミカ(三四歳)が報告する青年トークが人気を集めた。山口が演壇から「私はもし今、多喜二が生きていたら惚れていると思います」と言ったのにはおどろいた。山口が強調したのは多喜二の「優しさ」だった。狗又も多喜二を「アニキ」というか、いつまでも、「いいお兄ちゃん」という感じの存在だと、コンテスト受賞作品に記している。

 山口も狗又も派遣社員として、理不尽な解雇を繰り返され、職を転々する不安定な日々を過ごした。会社も同僚も労働組合も労働基準監督署も信じられなかった。非正規社員を理由に、あらゆる不当な扱いが正当化された。いつ解雇されるかわからない不安、社会に対する不信と絶望で神経障害に悩み、自殺を企てたりもしたが、団塊世代の大人たちはしっかりしろとはげますばかりだった。

 ふたりとも漫画がきっかけではじめて『蟹工船』を読んだが、労働者の肉体と生命を破壊し、「糞紙」のように使い捨てにする現実は、形はちがっていても現代と同じだと感じた。このままの生活をつづけていては、年をとるにつれて雇ってくれるところもなくなり、路頭に迷って死ぬのではないかと不安だった狗又は、「俺あ、キット殺されるべよ!」「馬鹿! 今、殺されているんでねえか!小刻みによ」という作中の会話に自分の現状をはっきりと自覚させられたという。

 いまは暴力的な浅川のような存在はなく、敵が誰なのか見えないが、目に見えない誰かによって一人一人撃ち殺されているのが現代だと、山口も強調する。派遣や請負という不安定な雇用条件のため、『蟹工船』のように団結することもできず、バラバラに孤立させられ、格好の標的になっている。しかし、こんな絶望的な自分たちを、多喜二は決して頑張れと励ましたりはしないで、朝までも話を聞いて、やはり最後に『蟹工船』の結末と同じように「彼等は立ち上った──もう一度!」と書き付けるのではないか。その優しさに「惚れた」というのである。

 この青年トークでは司会の浅尾をはじめ山口も狗又も、多喜二を「多喜二さん」と呼んでいた。かつて多喜二は仰ぎ見る不屈の革命戦士であったが、いまは「惚れた」とか「兄貴」とか言われ、「多喜二さん」と親しみを込めて呼ばれる。そして、その優しさにひかれて、作中の労働者の悲惨な現実に共感し、自分だけが苦しいのではないと思い、連帯を求めて、一人でも参加できる新しい形の労働組合に参加したというのだ(以上、「多喜二の文学を語る集い」の発言は『民主文学』二〇〇八年六月号から)。

 驚きは、繁栄と近代化をほこる世界第二の経済大国、いまの日本の若者たちが、肉体を破壊され、死に追い込まれる『蟹工船』の労働者に、自分たちの現実を見ていることだ。一九七五年生まれの雨宮処凛は、「毎日新聞」〇八年一月九日の高橋源一郎との対談で「『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました」と述べて、『蟹工船』ブームのきっかけをつくったとされるが、新しい単行本『蟹工船』に解説を書き、派遣会社の手で全国から集められた最も近代的なトヨタやキヤノンの派遣工たちが、全国から周旋人の手で集められた『蟹工船』の労働者たちと、いかに同様な苛酷な働かされ方をしているかを一つ一つ事実を挙げて解明している。

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 いまの若者たちは『蟹工船』の悲惨な現実に共感するが、労働者が団結して勝利を獲得するとは信じていない。ただ、死に追い詰められる虚無と絶望のどん底からの脱出、人間的な優しさと結びつきを求めて、新しい形の組合に参加しはじめたのだ。一方で、社会に対する絶望はひたすら破壊を求める思想となり、関東自動車の派遣工社員が無差別に通りがかりの人々を殺傷した秋葉原事件などを生み、戦争を美化する右翼思想への傾斜をも生んだ。

 雨宮は大学受験に失敗して、リストカットと家出を繰り返し、二一歳で右翼団体に入会、愛国パンクバンドでボーカルとして活動した。その後、右翼を離れ、同世代を代表する作家として、現代が生んだ貧困層、生活も職も心も極度に不安定なプレカリアートの問題に取組んでいる。『ロスジェネ』創刊号(二〇〇八年六月刊)に掲載された「バブル崩壊後の焼け野原≠ノて」に右翼との関係について書き、右翼にしか居場所を見つけられなかった当時を回想し、右傾化する人々の言葉にもある現代の生きづらさに耳を傾けてほしいと述べている。

 超左翼マガジン『ロスジェネ』は、一九七〇年代に生まれ、バブルが崩壊した一九九〇年代に就職期を迎えた口ストジェネレーション、就職超氷河期世代の自己主張として創刊された。創刊号の巻頭には「ロスジェネ宣言」を掲げ、「『丸山真男』をひっぱたきたい三一歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』二〇〇七年一月号)で評判になり、『若者を見殺しにする国──私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社)を出版した赤木智弘を招いて、共産党員で編集長の浅尾大輔と対談させている。右翼か左翼かというイデオロギー対立を超えて、「反貧困」という一点であらゆる勢力を結集しようとしているのだと思われる。

 この世代は一方的にアメリカを美化し、社会主義を悪とする思想が支配する時代に育った。小林多喜二を知らないだけでなく、戦争の時代に平和と解放を求めた運動があったことも一切知らず、共産党は悪としか思わなかった。彼らはいかなる理論や党派の支えもなく、ただ、死に追い詰める現実に対して「生きさせろ!」と叫んで反撃を開始したのである(雨宮『生きさせろ! 難民化する若者たち』太田出版、二〇〇七年)。「生きさせろ!」は『蟹工船』の「殺されたくないものは来れ」と同様に、ぎりぎりに追い詰められた労働運動のゼロ地点、原点である。繁栄を誇る経済大国日本がそのような場所に若者たちを追い込んでいるとは信じがたいが、昨年末以来の大量解雇の現実はこの残酷な事実をまざまざと見せつけている。

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 「バブル崩壊後の焼け野原≠ノて」を書いたとき、雨宮は戦後の焼け野原を意識していたのだろうか。私たちも戦時中は軍国主義の教育を受け、戦後になるまで多喜二を知らなかった。東京の町は廃墟と化して、どこまでも赤茶けた焼け跡が続いていた。肉親も、住居も失った戦災孤児や、大陸からの引揚者、国のために死ぬつもりだった元特攻隊員など、住居とともに心の拠り所を失った人々が、飢餓に苦しみながらさまよっていた。これが戦争だった。この戦争に反対し、働く人々のために命をかけて戦った人々がいたと知ったのは驚きだった。獄中の政治犯は一九四五年の一〇月一〇日に解放され、小林多喜二の作品が粗末な紙に印刷されて次々に発売された。

 戦後の私たちは生きるためにはたたかわなければならなかった。激しいインフレの時代だった。物価は日に日に高騰し、たちまち何倍、何十倍になった。米よこせ、住居よこせ、仕事よこせの運動があり、賃上げの闘争があった。「生きさせろ!」「殺されたくないものは来れ」というのは戦後の運動、私たちの青春の原点でもあった。これらのたたかいの先頭には解放された共産主義者がいて、人民民主主義革命の旗を掲げていた。多喜二は不屈の革命戦士であり、仰ぎ見るべき偉大な英雄だった。しかし、米ソの対立が激化し、レッドパージがあり、朝鮮戦争があり、高度経済成長があって、日本の左翼は後退した。ソ連の社会主義は崩壊し、アメリカの属国になった日本は高度経済成長をつづけて世界第二の経済大国になった。青年たちはひたすらアメリカの後を追い、独立の精神を失った。そして、バブルが崩壊し、就職超氷河期がきたのだ。

 おどろくべき低賃金で世界最大の輸出産業を支えてきたトヨタやキヤノンの派遣工、期間工などが、今度は大量に、何の保障もなしに職を奪われ、宿舎も追われて、年の暮れの寒空に放り出された。まさに「生きる」ためにはたたかわなければならない。次第に全国的な連携を強め、活動を強めてきたロスジェネ世代は、反貧困ネットワークなどが中心になって「年越し派遣村」の運動を始めた。導く理論や政党、経験ある指導者を持たずに、手探りで「生きる」ための活動を実践してきた。この若者たちの周囲に、各政党も含め、幅広い層が集まり、新しい運動をつくり出している。対立ではなくて、連帯と協力が新しい時代を開く。『蟹工船』はこの新しい運動の原点を示す作品として、ひろく国民の間に共感を呼んでいるのだ。
(いず としひこ・日本近代文学研究者)
(「経済」09年4月号 新日本出版社 p156-159)

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◎「そして最後に「殺されたくないものは来れ!」だった」と。