学習通信090403
◎サクラ──たえず人間の努力が続けられ……

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凡語

「夢の桜」境内染める

 大津市の南郊にある名刹(めいさつ)石山寺で今春も「夢の桜」と名付けられた五百二十本の彼岸桜が淡いピンク色に境内を染めた。いつもより春の訪れが少し早いせいか、ことしは彼岸を待たずに満開を迎えた

▼彼岸桜は一九八五年八月、群馬県の御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機に乗り合わせて犠牲となった五百二十人を供養するために植えられた。約二十年の歳月を経て、早咲きの桜は紅白の梅と競うように境内を彩る

▼事故で妹を亡くした同寺副座主の鷲尾博子さん(53)が徳島の実家から届いた苗木を大切に育ててきた。犠牲者と同じ数の桜の由来は長い間、公表されていなかったが、最近は彼岸が近づくと開花の問い合わせが寄せられる

▼事故から今夏で二十四年になる。「夢の桜」を先日訪ね、墜落現場へ取材に赴いた当時のことが鮮明によみがえった。毛布にくるまれて、ヘリで次々と搬送された犠牲者の多さに圧倒された

▼肉親の安否を気遣い、怒り、悲しむ家族の方々に接して、胸が詰まり言葉を失った経験は忘れ難い。奪われた命の数だけ、悲しみが残った。最愛の人を亡くした遺族らの思いは歳月が過ぎても決して薄れることはないだろう

▼きょう十七日は彼岸の入り。太陽が真西に沈むこの時季、仏教が西方にあると説く極楽浄土、彼岸に思いをはせ、亡くなった人たちをしのぶ。他の桜に先駆けて咲く彼岸桜が彼岸会の始まりを告げている。
(「京都」20090317)

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サクラ

 サクラは種類によって花期がずれる。ミネザクラは夏に、フュザクラは秋から冬、春に、カンザクラは一月に、ヒザクラは二月ごろに咲く。数年前ネパールから贈られた種子を蒔いて育てたヒフフヤザクラは花をつけて三年目、十一月の熱海で咲いていた。暖地のものなので東京では育たぬという。気象庁の生物季節観測に用いられるソメイヨシノは、平均気温一〇度の暖かさとともに花前線が北上する。ソメイヨシノは幕末のころに作り出された、オオシマザクラとエドヒガンの雑種で、ヨシノといってもサクラの名所の吉野とは全く関係はない。

 一目千本といわれる吉野のサクラの大部分はシロヤマザクラである。サクラは自然の状態では落葉樹林の中にポツンポツンとある程度のもので、古野の景観は一見自然のもののようだが、実は長い間、人問がかかわりつづけてできたものである。生島伸茂氏の論文によると、古い時代の吉野のサクラは山を埋めて咲くようなものではなく、修験道の発展に伴ってサクラの苗木が献木されて植えられていき、花の名所になった。しかしサクラの寿命は百年に足らぬから、植えつがれていかなければ消えてしまうもので、たえず人間の努力が続けられて現在に至ったのである。古野より自然にみえる嵐山の事情も、これと同じである。維持しようとする意思を失ってしまえば、こうしたサクラの名所は、ついには消滅してしまうであろうという。生島氏の憂いはすでに現実となり、吉野のサクラの維持の困難であることを訴える声が、最近、報道されている。

 ところで、庭先のサクラは戦後の帰化動物であるアメリカシロヒトリの集中攻撃を受けることが多い。しかし林の中に混じったヤマザクラなどが被害を受けることはほとんどない。自然界には食物連鎖を通しての歯どめがそなわっているのである。(遠藤善之)

 サクラ(桜)の仲間で山野に生えているものとしては、本州中部以南に多いヤマザクラ、伊豆七島などに多いオオシマザクラ、本州、四国、九州に広く分布するエドヒガン、富士山や箱根などに多いマメザクラ(フジザクラ)、本州中・北部に多いウワミズザクラ、シウリザクラ、北海道や本州中・北部の亜高山帯に生えるチシマザクラ、もっと寒いところに生えるミネザクラ、北海道からサハリンにかけてあるエゾノウワミズザクラなど十余種がある。自然に、あるいは人為的に変種や品種ができて、その数は約三百もあるという。サクランボはセイヨウミザクラの果実である。
(荒垣秀雄編「日本の四季」朝日新聞社 p44)

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悟心の桜

 こども心にも桜の花々のあでやかさは心にしみた。それでなくとも進級や組替えで少女期の春の心は波立っている。そんな時に桜の花々は咲きみちるのであった。

 昭和七年四月十六日。第三錦林小学校三年生。私は桜の作文を書いた。
……さくらも、白いのやもも色の美しい花がたくさん咲きました。山門のさくらも立ぱにさきました。

 きのう山門へいってみたら、今まんかいで、山と山の間のさくらが一だんと目だってきれいに見えます。あまりのきれいさにうっとりとなってしまいました。

 それから、又じしいんのさくらも見に行きました。じしいんのさくらも大へんきれいで、山門のさくらよりずっときれいでした。おそらくここらのさくらでもきっとさくらの王さまでありましょう……

 ほんとうに、私はさくらの中に住んでいたようだ。山門ということばが度々出現していることでもわかるように、ところは南禅寺である。当時私の家は山門の老師の隠居所のある正的院の中にあった(ちなみにその家は今もあり、おまけにおいしい秋田料理を食べさせてくれる店となっているので、時計を逆まわしにして今も私はそのかつての我が家に身を置くことができる)。

 春夏秋冬、風情にあふれた世界であった。さきの作文は、私の小学三年の時のものである。そしてその中のじしいん=慈氏院の桜こそ私にとっての名桜なのだ。

 今、もうその桜はない。完全に幻の桜となりおおせた。大木で、空に満ちわたるように咲きみちていたのに、いつの間にかなくなってしまった。まさかりの春、白いかがやく雲のように光り輝いていた桜だった。

 慈氏院は、かつての南禅寺の管長、柴山全慶さんが長く住んでおられた塔頭である。そして大正十五年、私の両親が幼ない私を連れて正的院内の一軒に移り住んだのは、その家に住んでいた京都大学の木村素衛教授が下鴨へひっこされたあとということだった。

 昭和初頭の南禅寺の暮らしは寿岳一家にとってまことに充実したはりのある歳月であったらしい。父と母の一生の生き方の原点がそこに作られた。慈氏院の柴山師とはわけても仲よくなった。ほかに鹿ヶ谷に住んでおられた西田久古さんもホームドクターとしてグループメンバーだった。私は小さい子どものくせして、柴山さんを、ケl。さんとよんでいた。

 そのケlツさんは、春ごとに、自坊に桜の花があふれるころを見はからって、私の父母、それに西田さん夫婦を招いて花見の宴を開くのだった。こどもたちは留守番をした。よき大人たちの年ごとの花見はどんなに楽しくすがすがしいものだったろうか。

 その桜は「悟心の桜」と名づけられていた。種類は何だったろうか。白の、小さな花だった。その桜の根本近くにケlツさんは茶室を建てていた。花見の宴はその茶室で開かれていた。宴といっても、まことに質素でつつましいもので、せいぜいとなりの聴松院の湯どうふをとりよせてつっつく程度だったようだ。

 ユーモア好きの悟心の桜の花見仲間はやがて、ちりぢりになった。私の家は京都市郊外に、西田医師は室町に。南禅寺の風雅な集いもおしまいになった。

 そしてあの戦争。私も一人前になっていったが、学生生活にかまけて長い間南禅寺をたずねることもなかった。その間におそらく「悟心の桜」は花咲くことを忘れ、枯木となっていったらしい。戦争後私がおとずれた時にはもうあの大きな桜は伐られてしまっていた。広からぬ境内で、すっくと生い茂っていた桜がなくなってみると何だか空しい広さのようで、私たちはときどき淋しい気分になってしまうのだった。

 それにしても枯れたのは残念なことだった。今のような時代だったら、枯れるきざしが見えはじめたら何としてでも手をうって生きかえらせることを考えただろうに、そんなこともかなわず枯れた桜を思いやるのは悲しい。それに、あの桜の種類はいったい何というものだったのか。すべてすべて失せてしまった今は思い出の中に桜をまさぐらせる。紅しだれのように艶めいた華やかな桜ではなかったが、気品ある、いかにも寺院にふさわしいものだった。もうないと思うとますます思い出の中に花は美しく咲く。

 それにしても、とまだ思い出はつづく。花のあと一斉に咲き出てきた青い葉にむらがった毛虫のすさまじかったこと。それに気のついた時は、こどもとしてはもうびっくりしてぞっとしていた。うじゃ、うじゃとうごめくものの量の多さも、それだけの大きさのゆえだったのだろう。

 もちろん染井吉野ではなかった。もっと深い色をしていたように思う。あらためて、いとしき思い出の「悟心の桜」に別れを告げる。(「月刊京都」一九八六年四月)
(寿岳章子著「はんなり ほっこり」新日本出版社 p125-129)

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◎「今のような時代だったら、枯れるきざしが見えはじめたら何としてでも手をうって生きかえらせることを考えただろうに、そんなこともかなわず枯れた桜を思いやるのは悲しい」と。