学習通信090406
◎近代の個人の自由な生活形成は……

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 プロレタリアには頼るものがない。

彼は自分だけでは一日も生きていられない。

ブルジョアジーは、言葉のもっとも広い意味での生活手段をすべて独占している。

プロレタリアはその必要とするものを、国家権力によってその独占を保護されているこれらブルジョアジーからしか、手にいれることができない。

したがってプロレタリアは、法律上も事実上も、ブルジョアジーの奴隷である。

プロレタリアを生かすのも殺すのもブルジョアジーの勝手である。

ブルジョアジーはプロレタリアにその生活手段を提供するが、それは一つの「等価物」、つまり彼の労働と、ひきかえである。

しかもブルジョアジーは、まるでプロレタリアが自由意志で行動し、自由に、強制なしに同意して、一人前の人間として自分と契約を結んだかのように、見せかけている。

美しい自由だ。

そこではプロレタリアには、ブルジョアジーが提供している条件に同意するか、そうでなければ──餓死するか、凍死するか、裸で森の動物と寝るか、という選択しか残されていないのである! 美しい「等価物」だ。その金額はまったくブルジョアジーの思いどおりなのだ!──そしてもしプロレタリアが、彼の「もともとの目上の人」であるブルジョアの「公正な」申し出にしたがうよりは、むしろ餓死した方がよいとする愚かものであるなら──それならほかのプロレタリアを簡単に見つけることができる。

世間にはプロレタリアは十分にいるし、みんなが気が狂っているわけでもなく、生よりも死をえらぶわけでもないのだ。
(エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p123-124)

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「貧困は自己責任」論克服と
貧困のない社会づくり

 「年越し派遣村」は「貧困は自己責任」論を打ち破る大きな衝撃を日本社会に与えた。しかしそれで「貧困は自己責任」論が克服されるわけではない。「貧困は自己責任」という社会保障制度「改革」を批判するとともに、内面化された「貧困は自己責任」論を克服することか求められている。

 個人が自由に生活を形成できることが近代社会のメリットであるが、同時にその生活は今や決定的に市場依存化し、個人がコントロールできない部分が増大している。社会保障とは、こうした生活の社会的側面を民主的・意識的に社会的コントロールのもとにおくシステムである。つまり、近代の個人の自由な生活形成は、常に社会的影響を受けて破綻する危険を内包しており、そのため個人生活の自由を確保しながら、同時に生活の社会的側面を自覚的・民主的にコントロールすることが不可欠となっているのが現代社会である。

 しかし、このように生活が社会的に規定されている側面は意識化されにくく、とりわけ日本ではそうした個人生活に対する社会的支援の役割を企業と家族に委ねてしまっているところが大きい。つまり、貧困を克服することができる社会を自覚的に作るということ自体が、日本では社会的課題として十分意識化されていないといえる。それは同時に、貧困の当事者自身が、貧困の実態を直視して怒りを持つようにならない、ということにもなっている。つまり、貧困の現実が内面化され、自分は貧困ではないと思い込んだり、貧困の原因を自分の努力・能力の不足に求めたり、あるいは不運のせいであると思い込む。または、家族に原因を見出そうとする。貧困はそうした結果であり、個人が負担すべきもの、甘受すべきものと思い込まれている。「貧困は自己責任」論の内面化である。

 そうした「貧困は自己責任」論克服のためには、まず貧困であることを直視することが必要であろう。「豊かな」日本の社会において「餓死などない」と思われていたし、一九八七年札幌で餓死事件が起こった際にも豊かさの中の「例外的事件」と見なされてきた。

 しかし「年越し派遣村」を契機に、派遣労働等の現実が住居喪失、餓死と隣り合わせであり、そうした事態が広がっていることを示した。最近でも「大阪市住吉区苅田のマンションの一室で、死亡していた元派遣社員とみられる四九歳の無職男性は、死後約一ヵ月が経過し、栄養失調状態だったことが一六日分かった。住吉署によると、室内にあった所持金は九〇円で、冷蔵庫は空だった。胃にはほとんど何も残っていなかった」というような報道が後を絶たない。

 しかし同時に、貧困がそうした非正規労働者層に限られていないことも見ておかなければならない。中流といわれる正規労働者の生活も、雇用が継続することを前提に、住宅ローンと子どもの教育費、老後生活資金に追われる危うさの中にあることを改めて確認する必要がある。

 次に、社会的原因の解明と貧困の克服の展望が、「貧困は自己責任」論克服に必要であろう。「年越し派遣村」では、当面の貧困に対処するため、生活保護法の活用が図られた。そして、その際、法律家が法律を武器に活躍したことは良く知られている。こうした具体的問題解決の展望を示すことが、貧困の当事者をして貧困克服の主体たらしめる上できわめて重要である。そして当面の貧困との闘いだけでなく貧困の生じない社会づくりという大きな展望を語る上では、当然現行法制の活用にとどまらない新たな社会保障制度の提起、立法が必要である。その点で、労働組合か果たすべき課題は大きいといえる。また、社会保障制度体系の展望としても、生活保護法が中心となる社会保障制度ではなく、むしろ貧困が生じない雇用制度と社会保障給付体系を構想することが求められている。

 いずれにせよ、2009年3月の大量の非正規労働者の解雇・派遣切りに対して社会の持てる力を挙げて対応することが、これからの日本の社会保障を作っていくうえで新たなステップになるように思われる。
(木下秀雄著「「貧困は自己責任」論と社会保障」「経済 09年4月号」新日本出版社 p32-33)

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◎「しかもブルジョアジーは、まるでプロレタリアが自由意志で行動し、自由に、強制なしに同意して、一人前の人間として自分と契約を結んだかのように、見せかけている。美しい自由だ。」と。