学習通信090408
◎時代の風向き……

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4月8日
東宝争議が始まった。
 一九四八年

 映画製作の東宝が、この日、二七〇人の人員整理を発表し、長期にわたる争議が始まった。渡辺社長は、「赤字」と「赤旗」をなくすためには撮影所にペンペン草が生えてもかまわないと、強引な首切りを行なった。『今ひとたびの』『戦争と平和』などの良心的なすぐれた作品を作ってきた監督や俳優たちは、会社の態度は納得できないと立ち上がった。三船敏郎・池部良・岸旗江らの有名な俳優たちも街へくりだし、市民に訴えた。しかし八月一九日、会社は砧(きぬた)撮影所に立てこもる組合員らに立ちのきを命じた。警察はピストルをもち鉄カブト・防弾チョッキに身を固めた二千人もの警官を出動させた。アメリカ軍は数台の戦車を送りこみ、飛行機を上空で旋回させた。「来なかったのは軍艦だけ」というものものしさの中で、組合側は涙をのんで立ちのいた。
(永原慶二著「カレンダー日本史」岩波ジュニア新書 p57)

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賽(さい)の河原

 「酔いどれ天使」が封切られた一九四八年四月、第三次東宝争議が始まった。

 私は、「酔いどれ天使」を完成すると、やっと秋田へ行き父の法事を済ませたが、直ぐ争議のため呼び戻されて、その渦中に入った。

 このストライキは、今考えると、子供の喧嘩のような気がする。
 二人の子供が、人形を奪い合って、その人形の頭や手や足をもぎとってしまったようなものである。

 この二人の子供は会社と組合で、人形は撮影所だ。
 このストライキは、会社側の首切り攻勢で始まったが、その攻撃の目的は、撮影所の従業員組合から左翼の勢力を追い出す事であった。これは、前年十二月の会社首脳部の人事で、有名な赤嫌いな人物を社長に、ストライキ破りの専門家を労務担当に据え、解雇の対象を左翼的な組合員に絞った事でも明らかだ。

 事実、撮影所の従業員組合は、左翼の勢力が強く、一時は生産管理まで叫んで、行過ぎも多かった。しかし、会社が攻撃に出たこの頃には、組合も監督を始めとする映画製作現場の批判を受け入れて、行過ぎを自粛し、漸く映画製作も正常な軌道に乗りつつあったのである。そこへ、この強引な会社側の攻勢である。これは、第二次東宝争議による荒廃の中で、やっと再建の足場を固めた我々にとって、全く迷惑千万な事であった。

 また、このやり方は、会社にとっても決して賢明な道とは思えなかった。

 今でも忘れられない、愚かな話がある。
 私達監督が、この事を新しい社長に説得していた時の話である。
 新任の社長も、私達の言葉に耳を傾け、心を動かす色が見えた。その時、その話合いをしている部屋の大きなガラス窓の外へ、組合員のデモが押しかけて来た、赤旗を先頭に! 万事休す、闘牛の牛に赤い布を振って見せたようなものだった。
 赤旗を見た、赤嫌いの社長には、もう何を云っても無駄であった。

 百九十五日間の大ストライキが始まった。
 このようにして始まったストライキで、私が得たものは、ただ苦い経験だけである。

 このストライキで、東宝撮影所の組合は再び分裂するが、その脱退者は、第二次東宝争議の時分裂した人達の拠る、新東宝と合流する。そして、勢力の増大した新東宝は、東宝撮影所の奪還を計り、そのため東宝撮影所は、日米決戦のガダルカナルのような事になる。

 毎日のように押しかける新東宝の勢力から、東宝撮影所を守るために、そこに立て寵る従業員は防備を固めて、撮影所はまるで要塞のようになった。

 今、考えると、それは児戯に類した、滑稽なものに思えるが、当時は大真面目に考え出した対応策であった。

 外から入りこめる所には、すべて鉄条網を張り、お手の物のライトを配置して、夜間の襲撃に備えた。

 傑作は、表門と裏門の防備で、両方とも門に向って、大砲のように撮影用の大扇風機を据えつけ、いざという時のために、目つぶし用に唐辛子の粉を多量に用意した。

 しかし、これは、ただ新東宝の勢力に備えるだけではなく、その背後で糸を引く会社側の出方によっては、警察力による強制執行も考えられたので、それに対する備えでもあった。

 今でこそ、笑い話に近いが、ストライキの勝敗には、従業員の生活がかかっていたのだ。

 また、私達、そこで育った者達には、撮影所に対する特別の愛着があり、ステージや機材のすべてとは、絶ち難い絆で結ばれていたから、それを守るのに必死だったのだ。

 おそらく、新東宝の人達にしても、私達と同様の気持にかられて、東宝撮影所の奪還を計ったのだろうが、私達と彼等の間には大きな感情的な対立があった。

 去った彼等に対する反発は、彼等が去ってからの一年半、その再建に苦しんだ道程で一層強くなり、また、新たに分裂した脱退者が彼等と合流した時に、それはなお一層強く救い難い対立に育っていた。

 しかも、新東宝の行動の背後には、当面の敵である会社首脳部と、その首脳部を計画的に助けたとしか思えぬ分裂事件の首謀者がいるのは確かだったから、この対立はもはや越え難い断層というほかはなかった。

 私が、このストライキで、最も苦しい思いをしたのは、この東宝撮影所の従業員と新東宝の従業員にはさまれて、入れろ、入れない、の押問答の矢面に立たされた時である。

 その時、押し入ろうとする新東宝の従業員の中に、押されている私を助けようと、自分の仲間達を一生懸命引戻しているかつての私の組のスタッフもいた。

 そして、その連中は、みんな泣いていた。
 私は、その顔を見た時、会社の首脳部に対して、無性に腹が立った。
 彼等は、第二次争議の過失に懲りず、またその上に過失を重ねている。
 彼等は、私達が育て上げた貴重な才能の協同体を、ずたずたに斬り裂いている。
 私達は、今、その痛みに泣いている。
 しかし、彼等には、そんな事は痛くも痒くもないのだ。
 彼等は、映画は人間の才能が、その才能の協同体が作るものだ、という事を知らない。
 そして、その協同体をつくり上げるために、どれほどの努力が払われたか、という事を知らない。
 だから、彼等は、平然とそれを突き崩す。
 私達は、賽の河原で石を積む子供の亡者のようなものだ。
 積んでも積んでもその石の塔は、馬鹿な鬼どもに突き崩されてしまうのだ。

 そもそも、今度の社長と労務担当の重役には、映画に対する理解も愛情もないのだ。

 また、この労務担当の重役は、ストライキに勝つためには、どんな汚い手段でも平気で使った。
 或る時、新聞に、私が組合に強制されて、作品の中にある科白(せりふ)を挿入した、と書かせた。
 それは、事実無根だし、そんな事をしたとあっては、映画作家として世間に顔向けも出来ないから、釈明を求めると、ケロッとして御本人がそう云うんだから間違いないでしょう、と謝った。
 しかし、謝っても、デカデカと書かれた記事はもう読まれた後で、訂正記事は出たとしても小さな活字でせいぜい二、三行だ。
 それを計算した上で、平気で謝るのである。
 その態度の卑劣さに、関川(秀雄、監督)が激昂して、テーブルを叩いて責めた時、テーブルのガラスが割れた。
 すると、翌日の新聞に、交渉中に会社重役が監督の一人に暴行を加えられたという記事を書かせて、それを詰問すると、また平気な顔で謝ってみせるのだ。

 私達は、この汚い手段にかけては天才的な重役と、赤い物を見ると判断力を失う社長のコンビネーションには、全く手を焼いて、今後、この二人とは絶対に仕事をしない、という声明を出した。

 その回答は、「来なかったのは軍艦だけ」という弾圧であった。
 表門には警察の装甲車、裏門にはアメリカ軍のタンク、空には偵察機、撮影所を包囲する散兵線、というこの強制執行の構えには、表門や裏門の扇風機も唐辛子も全く無力で、撮影所を会社に明け渡すほかはなかった。

 撮影所から追払われた私達が、数時間後、入門を許可されて撮影所へ入って見ると、ポツンと強制執行の立札が一つ立っているだけだった。

 たったそれだけの事で、一見なんの変りもない撮影所だったが、この時から、この撮影所から無くなったものが一つだけある。

 私達の心の中から、この撮影所に対する、献身的な気持が無くなってしまった。

 十月十九日、第三次東宝争議は終った。
 春から始まったストライキは、秋が深まる頃、やっと終り、撮影所を秋風が吹き抜けていた。
 そして、私の心の中も、空しい風が吹き抜けていた。
 その空しさは、哀しくも淋しくもない、という空しさだった。
 口には出さないで、勝手にしやがれ、とただ肩をすくめる、そんな気持だった。

 私は、声明した通り、あの二人と仕事をするのは、絶対にいやだった。
 私は、自分の家だと思っていた撮影所が赤の他人の家だとやっと解った。
 私は、二度と入らぬ積りで、その門を出た。
 賽の河原で石を積むのは、もう沢山だった。
(黒澤明著「蝦蟇の油」岩波現代文庫 p308-314)

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政令二〇一号

 一九四八(昭和二三)年七月二二日、マッカーサー占領軍司令官は芦田首相にあてて書簡を送り、国家公務員法(一九四七年一〇月公布、四八年七月一日施行)を改正して、公務員からストライキ権と団体交渉権を剥奪することを要求した。このマッカーサー書簡にもつづいて、社会党が参加していたこの政府は、七月三一日、政令二〇一号として「昭和二三年七月二二日付内閣総理大臣宛連合軍最高司令官書簡にもとづく臨時措置に関する政令」を公布施行した。アメリカ軍占領下の政令は、戦前の勅令に相当する性格のもので、法律と同じ効力をもつものを政府の権限で出すという非常措置である。

こうして公務員は、憲法で保障されたはずのストライキ権と団体交渉権を奪われ、これまで成立していた団体協約その他いっさいの協定を破棄して、無権利状態におかれることになった。この措置にたいしては占領軍内部でも批判の声があがり、キレン労働課長は抗議声明を出して辞職した。

 戦後の労働組合運動のなかで、国鉄、全逓を先頭に先進的役割を演じてきた公務員労働者は、全面的なストライキ禁止法の拘束を受けることになった。

 政令二〇一号にたいして、国鉄、全逓などは「非常事態宣言」を発して、このファッショ的弾圧に抗議した。そして、労働者の一部は職場放棄の戦術をとった。

 四国の松山機関区の乗務員の全員無期限ストにはじまった闘争が、北海道の国鉄に飛火した。魔の狩勝トンネル≠ニいわれた劣悪な労働条件の路線を職場にもつ国鉄労組旭川支部新得機関区分会の労働者は、苦悩のはて自殺した分会長の名を冠して「民族独立柚原青年行動隊」を組織し、全員が職場を離脱して各地にオルグ(組織活動)に出た。「民族独立」の文字が労働運動のなかで公然とかかげられたおそらく最初の例である。

 これがきっかけになって、国鉄労働者の職場離脱闘争は北海道全域から東北地方各県、さらに長野県へとひろがった。国鉄当局の調査によると、一〇月末までの職場離脱者は一四一八名で、そのため四〇四六本の列車が止まった。大部分のものに政令二〇一号違反として逮捕状が出された。全逓でも職場離脱者は九月末までに四五一名をかぞえ、そのうち三三六名に逮捕状が出された。職場離脱者は解雇された。

 職場放棄闘争は、ファッショ的弾圧にたいして労働者の権利擁護を主張する鋭い抗議の意思表示であった。しかし、この戦術指導の背景には、日本の実情に合わない極左冒険主義の地域人民闘争の思想があった。この一揆的闘争によって、先進的な活動家が職場の大衆から遊離して闘いの拠点を失なった。労働運動は損害をうけた。

 つづいて、四八年一二月に国家公務員法が改正され、国有鉄道、電信電話などの経営は公社制度に変更され、郵便事業などの現業国家公務員とともに、翌四九年六月に施行された公共企業体等労働関係法(公労法)のもとにおかれ、さらに地方公務員にたいしては、五〇年一二月公布の地方公務員法と五二年七月公布の地方公営企業労働関係法が適用され、いずれも争議行為を禁止されることになった。さらに四九年六月には労働組合法、労調法が改正されて、労働者と労働組合の権利にたいする制限、圧迫がつよめられた。

 こうして日本の官公労働者は、一九四八年夏にストライキ権を剥奪されたまま、こんにちにいたっている。その間、憲法違反を唱えてストライキ権回復がくりかえし主張され、そのためのストライキ闘争もおこなわれたが、問題は未解決である。

 なお一九四八年四月から八月にかけて闘われた東宝映画砧撮影所の争議は、弾圧のはげしさと、それにたいする文化産業労働者の抵抗の強さの点で社会の注目をひいた。

戦後、今井正、亀井文夫、黒沢明、関川秀雄、山本薩夫らの監督によって、かずかずのすぐれた映画を製作して民主主義的文化の創造に積極的役割を演じていたのがこの撮影所であった。これにたいして経営者側は、赤字と赤旗との二つのアカ≠退治することを公言して、人員整理、さらに撮影所閉鎖の方針を強行した。

俳優をふくむ労働者側は、「日本文化を守れ!」という民主的世論と他産業労働者の支援をうけて頑強に抵抗した。ついに八月一九日、アメリカ占領軍に支援された一八〇〇名の武装警官隊が出動して、撮影所にたてこもる労働者を強制退去させるという弾圧でこの争議は終結した。

「来なかったのは軍艦だけ」といわれたものものしい武装をととのえてのこの弾圧は、時代の風向きを予告するできごとであった。
(塩田庄兵衛著「日本社会運動史」岩波全書 p192-194)

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◎「「来なかったのは軍艦だけ」というものものしさの中で、組合側は涙をのんで立ちのいた」と。