学習通信090414
◎車がなければ生活できない社会にしてしまった根本責任は……
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半歩遅れの読書術
海部宣男
再び読みふける
ノーベル賞騒ぎの陰で……
このごろ日本は元気がないといわれるが、そうでもないぞとも思う。芸術、スポーツ、科学では結構気を吐いている。宇宙科学分野では月探査機「かぐや」が月全面の詳細な立体地図を作り裏面の重力異状を明らかにするなど、月の科学を一新した太陽観測衛星「ひので」は、太陽物理学に新時代を画した。史上はじめて小惑星物質を持ち帰る探査機「はやぶさ」の帰還も来年に迫る。これらはほんの一分野の例に過ぎず、広くクローン・再生医療でのリードからすばる望遠鏡の活躍まで、日本発の科学の話題には事欠かない。そして去年は何といっても、小林、益川、下村の日本人三氏と南部氏のノーベル賞受賞が、話題をさらった。
ノーベル賞といえば、ミスターノーベル賞みたいな人、かのアルベルト・アインシュタインは、一九二二年に日本を四十日あまり訪問して全国で熱狂的な歓迎を受けた。その日本訪問をアインシュタインが綴った日記がある。二〇〇一年に『アインシュタイン 日本で相対論を語る』(杉元賢治編訳、講談社)として出版された。じつはこれが、世界初公刊である。直筆の日記の全コピーも入った大型本で、めすらしい写真が豊富にちりばめられている。
「申し分のないドイツ語で」歓迎の辞を述べた学生のこと。全国を回る旅と講演。女学生にもみくちゃにされそうになったこと。美しい日本の庭園や歌舞伎やもてなし。歓迎の過熱ぶり、アインシュタインの一挙手一投足を報じる新聞記事に一般からの投書、随行した岡本一平の軽妙なマンガなど、べらぼうに楽しい本である。今回のノーベル賞騒ぎで思い出してこの本を引っ張り出したら、またも読みふけってしまった。アインシュタインが強い関心を持って日本を訪れ、感銘とともに日本を離れたことが分かる。相対論と開くと頭が痛くなる向きにも、お勧めだ。当時の日本人と日本社会、そして科学への関心を具体的に知ることも、この本の面白さである。
翻って今を見るに、日本の科学は奮闘しているとはいえ、ノーベル賞は過去の業績に与えられるもの。四氏の受賞をもって現在の日本がノーベル賞をどんどん生み出す状況にあるかといえば、疑問符が付く。科学を金儲けか、せいぜい生活の道具としか見ない風潮が、いまの日本の政界・財界には強すぎるからだ。大学を経済に動員することばかり考える政策を進めれば、ノーベル賞を生み出す研究の芽も、将来を築く若手研究者も枯れてしまう。そういう日本は、アインシュタインが尊敬の念を抱きアインシュタインを尊敬した日本とは、違うものだろう。(天文学者)
(「日経」20090405)
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科学と人間性
これまで唯物論と観念論という対立はどういう性格の対立かという点を述べてきました。唯物論が客観的な物質的実在を根源的と考える科学的世界観だという点を強調してきました。
このようにいうと疑問が出されるかもしれません。「客観的とか科学的とかいうことを強調するのはどんなものか」とか、「科学や技術が発達しすぎて現代社会では環境破壊や人間疎外がおこっているのではないか」とか、「科学や理性が人間の本質をなすものとは思えない。むしろ感性や感情、愛情や意志といったものが人間の本質(人間の人間らしさ)をなすものではないか」という疑問です。
感情や感性や意志などの方が理性より大事なものだという哲学者が出てきたりしていますから、右のような疑問が出てくるのは現代社会の特徴であり、理由のないことではないと思われます。
たしかに現代は科学技術が発達して、その結果、大気汚染から、河川や地下水や湖沼などの水質汚濁、土壌の汚染などがすすみ、四日市ぜんそくとか、水俣病などといった公害病の多発をもたらしています。さらに原子核物理学の進歩は原子エネルギーの戦争への利用に道を開き、核兵器は人類全体にとっての脅威となっています。また原子エネルギーの平和利用といわれた原子力発電も、スリーマイル島原発やチェルノブイリ原発事故がおきてその危険性がクローズアップされています。
このように現代の科学技術は人間の生活をおびやかし、さらに人類の絶滅さえもたらしかねない条件をつくり出しています。現代科学技術は人類にとって何なのか。私たち人類にとって積極的意味をもつものか、否定的意味しかないものかが問われています。
その科学を推進している理性についても、その意義が疑われるような事態が発生しています。日本の学校教育のなかで、いわゆる知育(理性の教育)のみが偏重され、受験地獄・受験競争が激化し、子どもたちの心と体の両面にわたるゆがみがすすんでいること、その結果として子どもたちの生活の乱れ、学校の荒廃した雰囲気、集団のなかのいじめ、暴力や非行の増加が心配されるようになってから、もうかなりの年月がたちました。これらもすべて科学や理性が強調されすぎたからだと一部の人びとがいっています。
右のような現象、あるいは一部の事実はたしかにあります。しかしそのような現象が起こるのは、科学技術や理性のせいだといえるでしょうか。これはよく考えて見なければならないことではないでしょうか。
環境破壊の根本原因
まず環境破壊や原子力発電の危険性の問題についていえば、一面でこれらは科学技術の発達が原因の一部をなしており、科学者や技術者の社会的責任という問題もからんでいると考えられます。しかしそれがすべてかという点は問う必要があります。環境破壊のもっとも根本的原因は何かが問われる必要があります。
それは大資本・大企業に根本的責任があるということではないか。いいかえるともうけ第一主義の資本主義のしくみの全体から出てくる問題ではないか、ここが問われる必要があります。水俣病は大企業水俣チッソの産業廃棄物(有機水銀)の海中投棄が原因でした。イタイイタイ病も、鉱山を経営する企業が廃棄物の処理をせず、有毒物質が川に流れ出して起こったものでした。四日市ゼンソクも石油コンビナートが原油のなかの硫黄分などの処理に配慮せずに大気を汚染して起こったものでした。
資本主義の大企業が廃棄物の処理をきちっとして、環境汚染や破壊をおこさぬようすべきであるのに、そしてその処理のための技術もあるのに、処理施設をつくれば費用がかかりもうけが減るので、廃棄物を海の中や何の中へ投棄し続けてきました。石油コンビナートの場合も、煙突から出る硫黄酸化物などを除去せずそのまま空中に排出し続けて、その結果、数多くの人びとの健康を破壊してきたのでした。
六〇年代から七〇年代にかけての公害反対運動の大きな盛り上がりにおされて、これらの大企業はやっと廃棄物の処理を合理的にすすめるようになりました。資本主義的大企業の責任はまことに大きいものがあります。
原子力発電の場合はどうでしょうか。これは廃棄物の問題のほかに、そもそも未発達の技術が安全性に問題があるという多くの科学者の指摘にもかかわらず、安上がりの電力を得るため、十分な研究をつみ重ねることなく、せっかちに発電への応用を各国が競争でやりました。この場合も金もうけ第一主義に根本の問題があります。チェルノブイリの原発事故に見られるような社会主義諸国の原発にしても、おくれた生産力を高めて資本主義諸国に追いつかねばならぬというあせりが、あのような事態をひきおこしました。ソ連などが資本主義諸国の大企業の金もうけ競争に巻きこまれたところに主要な原因があると思います。
一般市民の責任
環境破壊についての根本的責任は、利潤追求第一で活動している現代資本主義にあると私は思うのですが、しかし反論があるかもしれません。それは一般の国民・市民の側にも責任があるのではないか、安楽と便利さをひたすら追求して、消費社会、たとえば車社会をつくってしまった一般国民に責任はないか、という意見です。
このような意見は検討に値する意見だと思います。ひたすら快適さを求めてエネルギー多消費型の生活にどっぷりつかってしまっている点について、私たち一般市民も反省しなければならぬ点があるのは確かだと思います。しかしこのような車社会、エネルギー多消費型社会、あるいは高度利便性社会をつくり出した究極原因は、近代資本主義の利潤追求第一主義にあるのではないでしょうか。
まず車社会について考えてみますと、車が増えすぎて道路は渋滞するし、排気ガスによる大気汚染で困っている人は多いのですが、そのほかに石油資源をこんなに浪費していると近い将来、枯渇する恐れもあります。人類はこの車社会を転換する必要があります。もし現在の開発途上国が将来発展してその結果、欧米や日本のような車社会になっていったら地球は環境問題でも資源問題でも大変なことになってしまうでしょう。
そうするといま車を所有し利用している市民たちは、これでよいのかということになります。しかし自動車をどんどんつくって売りまくり、そのため都市構造さえ自動車むきに変えて、車がなければ生活できないようにしてしまった自動車産業の大資本の責任が一番重いのではないでしょうか。
日本の多くの都市では、自動車産業の営業政策に押しまくられて、都市バスや市電の赤字が増大し、道路を渋滞させる邪魔ものとして次つぎに廃止されていきました。地方の過疎地のバスや鉄道も次つぎに廃止されました。そもそも日本の国土のバランスを乱暴に崩して、一方での過密巨大都市、他方の過疎地という荒廃をつくり出したものが、日本独占資本の高度経済成長政策でした。こうして車がなければ生活できない社会にしてしまった根本責任は日本独占資本とその代理人である自民党の政治家だちといわざるをえません。自動車に乗っている一般国民にも責任があるとしてもまったく副次的なものだと思います。
生活排水の問題など
もう一つ生活排水のことなども考えておきましょう。私たち自身が家庭の台所や風呂場や洗濯場などから出している生活排水が下水を通して川や湖や海を汚している問題です。この生活排水は私たち自身が流しているのですから確かに私たち自身に責任があり私たち自身が生活態度を改める必要がある問題でもあります。しかしこの問題においても個人としての一般市民の責任を越える原因があり、その大部分は資本主義のつくり出した生活様式だという面を見落とすことはできないと思います。
生活排水については、まず洗剤の問題があります。昔のように石鹸を使えば問題はほとんどないとされています。石鹸水はすぐに分解されるからです。ところが問題は石油からつくる合成洗剤です。洗濯機につかう洗剤から食器を洗う洗剤、洗髪用のシャンプーまで、固形石鹸以外の粉状あるいは液状の洗剤はほとんど合成洗剤です。この合成洗剤は水中でなかなか分解せず、これが河や湖沼の水質汚濁の大きな原因だと指摘されています。この点はすでに七〇年代から問題になり、しかも水質汚濁だけでなく、人体(皮膚)にも悪影響を与える点が指摘されていました。ところが洗剤の大企業がこれらの指摘を認めず、合成洗剤を製造し続けました。
一般使用者のなかで合成洗剤を使用する人が多いのは確かに問題ですが、企業にとって合成洗剤の方が多量に製造し易く、つまり利潤が多いため、これが製造され続けている原因だと考えられます。そしてテレビなどで連日この洗剤が汚れをよく落とす(効果がある)という宣伝がおこなわれ、それによって合成洗剤がまたよく売れるということになっています。しかし一般消費者にとって自分が使っている洗剤が石鹸系統のものか合成洗剤なのかそもそもわかりにくいということもあります。
合成洗剤を使わない運動が各地でおこり、一定の成果をあげていることは貴重なことであり、このような運動はますます盛りあげていく必要がありましょうが、根本的には合成洗剤をつくり続けている大企業の責任が問われなければならないと思います。
水質汚濁の問題についてはそのほか大企業の工場や事業所からの廃水の問題もあります。なにしろ一般家庭にくらべて工場やビルから出る廃水はきわめて量が多いし、そのうえ有毒物質がふくまれている率が高いわけですから、これらの工場や事業所では自己の責任において完全処理するようにするべきです。七〇年代以来の世論におされて、かなり改善されてきている点もありますが、市民によるいっそうきびしい監視が必要だと思われます。
また地方自治体など行政の側の問題として、下水道と処理場の整備も必要なことはいうまでもありません。大都市ではかなり普及してはきましたが、欧米先進国にくらべると下水道はまだまだ不十分だといわれているとおりです。
その下水道との関連で最近問題になっているのは、行政が排水路や小川などを整備するとき、なにもかもコンクリートの水路にしてしまう。湖や沼や海岸もコンクリートで固める。そのため岸辺や水中に植物が生えなくなり、川や湖沼の水質浄化力がいちじるしく低下している傾向です。もっと自然な生物の生きられる岸辺や水路を保存し、これによって水質浄化がすすむように努力するべきでしょう。
このように考えてくると、生活廃水による水質汚濁は一般市民の責任だといってすましてしまうのでなく、具体的に問題を解明し、根本的には大企業・大資本の利潤第一主義を規制し、また市民の知恵と世論によって行政を動かし、自然環境を守る立場からの街づくり・村づくりを進める必要があるし、それは現在の技術でできることだといえると思います。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p96-104)
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「科学を金儲けか、せいぜい生活の道具としか見ない風潮が、いまの日本の政界・財界には強すぎるからだ。大学を経済に動員することばかり考える政策を進めれば、ノーベル賞を生み出す研究の芽も、将来を築く若手研究者も枯れてしまう」と。