学習通信090417
◎資本家の悪知恵……

■━━━━━

解説8
時代を超えてよみがえつた資本家の悪知恵=派遣法

 『資本論』第1巻には、マンガの通り、児童労働にたいする法の規制を逃れるための、「リレー制度」についての資本家の悪知恵が描かれています。

 これとそっくりの悪知恵が現代でもよみがえっています。

 現在の派遣法では、派遣先企業が3年以上継続して派遣を受け入れることを禁じています。そういう場合は、直接雇用の義務が生じるのです。

 けれども、そこには抜け穴がありました。3ヶ月を超えて派遣を入れない期間(クーリング期間)を間に入れ込めば、継続した派遣とは見なさないということになっています。

 トヨタの子会社、トヨタ車体をみてみます。同社では労働者が「A直」「B直」という2つの班に分かれて、どちらの班も、作業はまっ『たく同じで、勤務時間帯が違うだけでした。そこでは正社員と派遣労働者が一緒になって働いていました。ところが、3年の期限が近づくと、B班の派遣労働者をすべてA班に移動させて派遣労働者をゼロにする一方、逆にB班にはA班から正社員を移動させて仕事にあたらせることにしました。これを3ヶ月と1日続けた後、今度はA班の派遣労働者をすべてB班に移動させて、派遣労働者がいない状態をつくるというものです。会社側は「これをやればクーリングオフが成立し、法律がクリアできる」と説明していました。

 こうすれば、直接雇う義務が生まれるという法の規制を逃れて、永遠に派遣労働者として安く使い続けられるようになります。

 まさに『資本論』で紹介された「リレー制度」を彷彿とさせる資本家の悪知恵ではないでしょうか。

 2008年10月7日の衆議院予算委員会で、共産党の志位和夫委員長はトヨタ車体のこの脱法行為を告発しています。この質問後、同社はこのしくみをやめました。
(原作・門井文雄「理論劇画 マルクス『資本論』」かもがわ出版 p105)

■━━━━━

 一八三三年の工場法──木綿工場、羊毛工場、亜麻工場、および絹工場を包括する──以後、近代産業にとって一つの標準労働日がようやく始まる。一八三三年から一八六四年までのイギリスの工場立法の歴史以上に、資本の精神をみごとに特徴づけるものはない!

 一八三三年の法律が言明するところによれば、普通の工場労働日は朝五時半に始業し、晩の八時半に終業するものとし、また一五時間という時限の制限内では、年少者(すなわち一二歳ないし一八歳の者)を一日のうちのどんな時間に使用しても、同一の年少者が一日に一二時間以上労働しさえしなければ、特別に規定されたある場合をのぞき、適法であるとされる。この法の第六条は、「このように労働時間を制限された者には、すべて、毎日少なくとも一時間半の食事時間が与えられるものとする」と規定している。九歳未満の児童の使用は、のちにふれる例外をのぞいて禁止され、九歳から一三歳までの児童の労働は、一日八時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律によれば晩の八時半から朝の五時半までの労働は、九歳ないし一八歳のすべての者について禁止された。

 立法者たちは、成年労働力を吸収する資本の自由、または彼らの名づける「労働の自由」を侵害する気は毛頭なかったのであり、彼らは、工場法のこうした身の毛もよだつ結果を防止するために、一つの独自な制度を案出したほどであった。

 「現在整備されている工場制度の大きな弊害は」──と一八三三年六月二五日の工場調査委員会中央委員会第一次報告書は述べている──「それが、成人の労働日の最大限の長さにまで児童労働を延長する必要性をつくり出す点にある。成人の労働を制限せずに──これを制限すれば、予防しようとするはずの弊害よりももっと大きな弊害を生み出すであろう──この弊害を矯正する唯一の手段は、二組の児童を使用する案であると思われる」と。〔『工場調査委員会、王命委員中央委員会第一次報告書。一八三三年六月二八日、下院の命により印刷』、五三ページ〕

 それゆえ、リレー制度(リレーとは、英語でもフランス語でも、別々の駅で郵便馬車の馬を継ぎ替えるという意味である)の名でこの「案」が実施され、その結果、たとえば朝五時半から午後一時半までは九歳ないし一二歳の一組の児童が、午後一時半から晩の八時半までは別の一組が、継ぎ馬として使われるといったふうになった。

 しかし、過去二二年間に公布された児童労働にかんするすべての法律を、工場主諸氏がまったくあつかましく無視したことにむくいるため、こんどもまた彼らに呈する苦言の丸薬は金色にそめて飲みやすくされた。議会は、一八三四年三月一日以後一一歳未満の児童が、一八三五年三月一日以後一二歳未満の児童が、一八三六年三月一日以後一三歳未満の児童が、八時間以上工場で労働してはならない! と規定した。

「資本」にとってこれほど思いやりのあるこの「自由主義」は、ファレ医師、サー・A・‘カーライル、サー・B・ブロウディー、サー・C・ベル、ガスリー氏など、要するにロンドンのもっとも著名な内科医たち≠ニ外科医たち≠ェ、下院における彼らの証言のなかで、遅滞は危険だ!≠ニ明言していただけに、なおのこと称賛に値するものであった。ファレ医師は、いくらかぶっきらぼうに述べた──

 「あらゆる形で起りうる早死を防止するためにやはり立法が必要であり、確かにこれ」(工場のやり方)「は、彼らを早死させるもっとも残酷な方法の一つとみなされなければならない」と。

 あの「改革」議会〔一八三二年の選挙法改正後の議会〕が、工場主諸氏への思いやりから、なお何年ものあいだ、一三歳未満の児童を週七二時間の工場労働という地獄に封じ込めておきながら、奴隷解放法〔一八三三年八月可決〕──これまた自由を一滴一滴と服用させるにすぎないが──においては反対に、農場主にたいしてどんな黒人奴隷をも週四五時間以上過度労働させることをただちに禁止したのである!

 しかし、資本は決して妥協しないで、こんどは長年にわたるそうぞうしい扇動を開始した。その主たる問題は、児童という名のもとに八時間労働に制限され、かつ一定の就学義務を課されている部類の年齢のことであった。資本家的な人間学によれば、児童年齢は、一〇歳またはせいぜい一一歳で終わるものであった。工場法の完全実施の期限、不吉な一八三六年が追ってくればくるほど、工場主暴徒はますます激しく荒れ狂った。

事実、それは政府をちぢみあがらせることに成功したのであって、その結果、政府は、一八三五年に、児童年齢の限界を一二歳から一一歳に引き下げることを提案した。ところが、外部からの圧力≠ェ威嚇的に増大した。下院は勇気を失った。下院は、一二歳の児童を一日に八時間以上資本のジャガノートの車輪のもとに投げ込むことを拒否し、一八三三年の法は完全に効力を生じた。それは、一八四四年六月までそのまま変更されなかった。

 この法がはじめは部分的に、次いで全面的に工場労働を規制した一〇年の間、工場監督官たちの公式報告書は、法の実施不可能にかんする苦情で満ちあふれている。

すなわち、一八三三年の法は、朝五時半から晩八時半までの一五時間のあいだなら、任意の時点で各「年少者」および各「児童」に一二時間または八時間の労働を始めさせ、中断させ、終わらせることを、同じくまた、異なる者に異なる食事時間を指示することを、資本の主人たちの自由裁量にまかせたので、主人たちはやがて一つの新しい「リレー制度」をみつけ出した。

それによれば、労働馬たちは一定の駅々で交替させられるのではなく、次々と別な駅々で絶えず繰り返し新たに継ぎ替えられるのである。われわれはのちに、この制度のみごとさに立ち返らなければならないのであるから、これ以上詳しくは論じない。しかし、この制度が工場法全体を、単にその精神から見てばかりではなくその文言から見ても無効にしたということだけは一見して明らかである。

個々それぞれの児童とそれぞれの年少者についてこんな複雑な記帳が行なわれていては、工場監督官たちは、どのようにして法定の労働時間と法定の食事時間の保証を強制すればよいのか? やがてふたたび大部分の工場において、以前の残忍な不法が、罰も受けずにさかんに行なわれた。内務大臣とのある会見(一八四四年)で、工場監督官たちは、新たに案出されたリレー制度のもとではどんな監督も不可能であることを証明した。しかし、そのあいだに、情勢はすでにおおいに変化していた。

とくに一八三八年以来、工場労働者たちは、憲章を彼らの政治的な選挙スローガンにするとともに、一〇時間法案を彼らの経済的な選挙スローガンにしていた。工場主自身のうちでも工場経営を一八三三年の法に従ってすでに規制していた一部の者は、よりひどいあつかましさか、より幸運な地方的事情かによって法律違反をなしえた「にせ兄弟たち」の不徳義な「競争」にかんして陳情書をつぎつぎに提出し、議会を圧倒した。そのうえ、たとえ個々の工場主がいかに以前の強奪欲をほしいままにしたいと思おうとも、工場主階級の代弁者および政治的指導者たちは、労働者たちにたいする態度と言葉を変えることを命令した。

彼らはすでに穀物法廃止のための戦役を開始しており、勝利のためには労働者たちの援助を必要としていた! それゆえ彼らは、自由貿易の千年王国のもとでは、パンのかたまりを二倍にするだけでなく、一〇時間法案をも採択すると約束した。したがって、一八三三年の法を真実のものにしようとするだけの処置にたいしては、ますますもって反対するわけにはいかなかった。トーリー党は、彼らのもっとも神聖な利益、すなわち地代をおびやかされたので、ついに博愛家ぶった憤激をあらわにしながら、彼らの敵たちの「非道な術策」を、どなりつけた。
(マルクス「『資本論』A」新日本新書 p482-487)

■━━━━━

労働者派遣制度導入と「中間労働市場」論

 一九七三年の第一次オイルショックで、日本経済は従来のような経済成長はできなくなり、低成長へ移行します。一九七〇年代後半から、従来の雇用・労働慣行や社会保障の制度的見直しが始まりました。とくに、一九八〇年代初めの中曽根内閣(八二年一一月〜八七年一一月)の下で、臨時行政調査会が設置されました。「行政改革」の名目による強権的手法で、多くの社会的諸制度の破壊が推進されました。中曽根内閣は、それまでの日本的雇用慣行や労働法体系の根本的改変を目指しました。集団的労働関係では、国鉄をはじめとする官公労組に対して「国家的不当労働行為」と呼ばれる権力的介入があり、力で労働組合を破壊しました。その一方で、「雇用の多様化」を進めて、非正規雇用の創出・拡大への道を開きました。

 一九八〇年代に労働法の規制緩和・弾力化が展開され始めます。その特徴は、原則としては従来の日本型システムを維持しつつ、例外として規制緩和を導入するというものでした。パートタイム労働がその一つです。正規労働者が世帯の中にいることを前提に、家計補助的雇用として、その差別的で低劣な労働条件が正当化されました。不安定・差別雇用という弊害が過小評価され、その後の非正規雇用拡大のきっかけになってしまいました。

 とくに一九八五年制定の労働者派遣法は、重大な意味を有していました。その立法目的は大きく三つあったと思います。一つは、構内下請が法違反であるとする労組などによる違法摘発闘争への対抗です。違法な偽装請負を、労働者派遣として適法化してしまおうということです。二つ目は、女性差別撤廃条約批准の国際圧力の、日本的な歪曲・回避です。女性労働者への労働基準法による保護を縮小させながら、女性を非正規雇用(派遣、有期)化する狙いです。三つ目は、情報処理の男性労働者を派遣業者に組織させる「中間労働市場」論です。正社員として雇うのは負担と危険が多いので、低劣労働条件の間接雇用で利用しようという経営者側の狙いです。

 一九八五年から一九九〇年代前半の政府・経営者の雇用政策の中心課題は、女性や一部の業務を正社員から派遣労働や有期雇用に転換して「縁辺労働市場」に追いやることでした。原則はまだ「内部労働市場」の正規雇用でしたが、その範囲を縮小・限定する方向を強めて「二重の労働市場」構造を拡大再編しようとするものでした。こうした動きは、労使協調的な労働組合からも事実上支持されて、一九九五年以降の本格的な規制緩和の準備過程になったのでした。
(脇田滋著「労働法を考える」新日本出版社 p142-144)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
「非道な術策」と。