学習通信090422
◎塩田庄兵衛先生……

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労働運動研究、非核の政府、学問の業績…

未来に生きる塩田庄兵衛君
   
儀我壮一郎

 二〇〇九年三月二十日、塩田庄兵衛君は八十七歳で肺炎のため死去。痛恨の極みです。

 塩田君と私は、一九四二(昭和十七)年に、東京帝国大学経済学部の大河内一男助教授の演習に参加した時が初対面で、同期生です。それ以来六十七年間の親友で、思い出は無限。たとえば、横山正彦、朱紹文両氏など、ゼミの先輩たちが警察に拘留されるような戦時中の暗澹たる条件の中でも、塩田君はゼミの名幹事として、明るくしかも慎重に気くばりしていました。昨日のことのようです。

 大河内ゼミヘの参加は、大河内先生の媒酌で最愛の昭子夫人との結婚式が行なわれたり、大河内一男・沼田稲次郎・塩田庄兵衛三氏の鼎談が重ねられるなど、塩田君の生涯に光を加えました。

『共産党宣言』を翻訳

 敗戦直後、塩田君は東京大学社会科学研究所助手などをして、大学の民主化に大活躍しました。一九四六年には、志保田博彦の筆名で戦後初めて翻訳の『共産党宣言』(京都の新社会社刊)を公刊、一月二十四日には、『幸徳秋水選集』(改造文庫)をたずさえながら幸徳秋水の墓前祭に参加。

 「社会思想史・社会運動史の専門研究者のコースを歩むようになった」のです(『二十一世紀へのバトン・塩田庄兵衛の八十年』百七十三n)。

 南国土佐出身の塩田君は、坂本龍馬、中江兆民、幸徳秋水をはじめ、植木枝盛、奥宮健之、植村浩その他、郷土の先覚者たちの苦難に満ちた不屈の業績に深い関心と敬意を持ちつづけていました。幸徳秋水の絶筆(漢詩)が刻まれた記念碑の裏面に、塩田君の解説(略歴)が彫られているほどです。

 時代超え多数の対話

 六〇年安保闘争、松川裁判十二年間のたたかいなどでの塩田君の献身的な努力は、広く知られています。終生一貫の民主的な道筋でした。

 木下順二・山本安英両氏や岡倉古志郎氏との交友、田中正造・河上肇に対する敬愛その他、生者・死者との塩田君の思想的交流は、歴史学者にふさわしく、時代を超えた対話が続き、多数の著書・論文・随想として公刊されました。

 日本学術会議会員として当時の第三部三十名のうち、塩田君、田添京二氏と私の三人が、大河内ゼミの同窓であった奇縁なども懐かしく思い出されます。日本科学者会議事務局長・代表幹事であり、世界科学者連盟の場でソ連・東ドイツの代表と論争を重ねたという苦労話を、にこにこしながら語る塩田君でした。病気のことまでも「明るい」話題でした。

 最近では、労働運動総合研究所の理事、また、非核の政府を求める会の常任世話人として、私と接する場が広がっていたのですが、ついに再会できなくなってしまいました。しかし、塩田君の業績と都立大学・立命館大学などでのすぐれた門下生たちは激動の二十一世紀に発展的に生きつづけるのです。

君の星に 幸多かれよ
永遠の春     壮

(ぎが・そういちろう 大阪市立大学名誉教授)
(「赤旗」20090422)

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四 労働組合・労働争議調査、労働運動論・労働運動史研究

 社会主義思想史研究と平行してやった仕事は、労働組合の実態調査や労働運動の歴史的整理です。なにしろ労働組合運動は、敗戦によって日本国民が出会った新しい問題であります。むろん、一八九七(明治三〇)年の労働組合期成会にはじまる戦前の歴史はありますが、太平洋戦争中は潰滅しておりましたし、労働組合運動が大規模な大衆運動として展開され、戦後民主主義の主力部隊としての役割を演ずるようになったのは、第二次大戦後の目ざましいできごとであります。

 このことに着目しまして、当時助手をつとめておりました東大社会科学研究所で大河内一男先生をリーダーに組織された労働組合の実態調査のプロジェクトチームに参加しました。ここで社会調査の基礎訓練を受けたと同時に、労働組合そのものと接触する機会をもつようになりました。

調査報告書は『戦後労働組合の実態』(一九五〇年、日本評論社)、『日本労働組合論』(一九五四年、有斐閣)などとして刊行されておりますが、こんにち社会的常識になっていると思われる「企業別労働組合」の問題も、この調査活動のなかから大河内先生が定式化されたと考えていいでしょう。なにしろ大河内先生の社会政策論における「大河内理論」は、社会政策・労働問題を学ぶ者が戦前いらい避けて通れない関門でありますし、そのすぐれた独自の理論構成力で戦後には「出稼ぎ型労働力論」や「企業別労働組合論」をつぎつぎに展開されて大きな影響力を発揮されました。

私たちの調査は、先生の理論化のお仕事に資料的基礎を提供する意味も持ったことになるでしょうが、同時に私たちにとっては「大河内理論」にどう対処するかということが、切実な学問的課題になりました。これは私自身にとってばかりでなく学界全体にとって、大きな問題でありつづけてきたわけですが、ここでは立ち入る余裕がありません。

 とりわけ私は、労働組合の大会の傍聴や労働争議の現場に興味を持ってよく出かけました。当時の電産(電力産業の労働組合)や国鉄労組の大会などは、ヘタな芝居を見るよりはるかに見ごたえがあり、若い私は手に汗握るといった緊張感をおぼえたものです。一九四八年に社会の注目をあつめた東宝映画砧撮影所の首切り反対争議の大チャンバラ場面の見物にも出かけて、山本薩夫監督をはじめ映画人たちとも知り合いました。

さいきん私は「母さんの樹」という映画に俳優として出演しておりますが、これは別に争議調査と直接の関係はなくて、私の演技力が買われたのだと思っていますが、労働運動への関心が背景にあることはたしかです。ともかく私は「現地主義」の研究方法と名づけて、よく集会やデモなど運動の現場に出かけました。そのような経験の成果はいろいろ発表しておりますが、もっともまとまった形をとっているのは、亡くなられた労働法専門家の藤田若雄教授と共編で出版した『戦後日本の労働争議』(一九六三年、御茶の水書房)と題する厚い調査報告書です。

 労働組合についての私の理解をまとめた啓蒙書に『労働組合入門』(一九六一年、光文社カッパブックス)があります。これは実は一九六〇年──あとで述べる安保闘争の年ですが──にスウェーデンのストックホルムでひらかれた国際歴史学者会議に、第一─第二次世界大戦の戦間期の労働運動について報告するために参加する機会があって、その旅費を工面するために印税前借りの借金奴隷になった産物です。借りた分だけ返せればいいというつもりで書いたところ、ベストセラーになって、かなりの印税がころがりこみましたので、私ははじめて独立の書斎と書庫を建てて、研究者としての生産手段を整えることができました。「昔陸軍、今総評」ということばが通用していて、労働組合運動にたいする関心の高かった社会情勢にマッチしたのでしょうが、「労働」と名のつく本は売れないというジンクスのあるこんにち、当時をふりかえると今昔の感があります。
(塩田庄兵衛「社会・労働運動を学んで四十年 ─一九八六年十二月十六日・立命館大学定年退職記念講演─」京都にて 塩田庄兵衛著 非売品 p218-221)

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むすびにかえて

なにを言おうとしたか

 これまで、日本の労働組合について、いろいろな角度から検討を加えてきた。まず最初に、戦後突如として登揚し、みるみるうちに巨大なマンモス組織に膨脹したわが国の労働組合が、その外側と内側から、どのようにみられているかをしらべてきた。つぎに、現在、労働界の二大山脈としてそびえたっている、総評と全労の二つの全国組織は、いかにして形成され、それぞれどんな特徴をもっているかを眺めた。そのために、戦後史のもっともドラマチックな年であり、そしてまた、戦後労働運動の大転換点であった、一九四九年夏の歴史をふりかえってみる必要があった。

そのつぎに検討したことは、わが国労働組合の特異体質といわれる、企業別組合なる組織形態の由来と、それが含んでいる問題点であった。わが国の労働組合が分裂しやすいこと、争議の最中に第二組合が発生しやすいことも、企業別組合と大いに関係があることがわかった。第四章では、日本経済のいわゆる二重構造の底辺、中小企業の広範な存在から発生する中小企業の労働問題が、どんな組織問題と関連するかをみた。そこでの悩みは、おくれた労使関係と未組織分野の広大な存在であった。しかし、その困難な条件のなかで、ようやく組合づくりがすすみはじめたことと知ることもできた。

 以上、歴史的背景のなかで労働組合の現状を概観したのち、第五章では、現在、わが国の労働組合はどんな権利をもっており、あるいはそれをいかに制限されているかという基本問題を学んだのち、一般的に単位労働組合はどのように組織されているかのモデルをさぐってみた。つぎに、第六章の問題は、では、労働組合は、賃金・権利などの基本的分野で、現在どんな問題に当面しており、どんな目標で活動しているかを、素描してみた。第七章は、しばしば世間の問題になる労働組合の政治活動について、現状がどうであり、それをいかに考えることができるか、とくに労働組合と政党との関係は、どんな特徴をもっており、どんな方向に動こうとしているかを考えてみた。最後に、舞台を海の外にひろげて、国際労働運動のなかで、日本労働組合はどんな位置を占め、どんな国際連帯の経験を積んできたかをしらべてみた。

 以上が、この本全体のあらましである。ひとつひとつの問題に深くはいることはできなかったが、日本の労働組合運動のいろいろな側面について、できるだけバランスのとれた観察をこころみることによって、その全体像を浮かびあがらせたいとのぞんだ。

労働組合は現代のレオナルド・ダ・ビンチである

 そこでけっきょく、労働組合とは何だろう、それはどんな意味をもち、どんな将来性をもっているだろうかということが、労働組合論の、最初にして最後の問題となる。私はつぎのように考える。

 昔、ルネサンス期のイタリアに、レオナルド・ダ・ビンチという万能の天才があった。かれは絵をかき、彫刻をつくり、天文学、生理学、物理学、植物学、土木工学などにも通じ、飛行機についてさえ考えていた。かれの出現は、人類の文化の発展に、大いに貢献した。労働組合は、現代のレオナルド・ダ・ビンチである、と私は思う。現代は個人的天才の時代ではない。集団の時代であり、組織の時代である。発達したエ業生産が大量の労働者を生み出し、労働組合を組織させる。そして、かれら労働者は、労働組合という組織によって、ダ・ビンチよりもさらに多面的に創造的に活動する。

労働組合のすすむ方向

 しかし、労働組合が、一定の方向性をもっていることを忘れてはならない。労働組合は資本主義社会の産物である。その社会のなかで、労働者は資本に従属させられ、経済学の学術用語を使えば、搾取されているという客観的事実のうえに労働組合は成立している。したがって、労働組合は必然的に対抗物をもっており、それにたいする闘争団体としての性質をもっている。この基本的な関係を抜きにして、コトバをかえれば、階級間の対立関係を抜きにして、労働組合を、ほかのさまざまな社会団体、人間のつくるもろもろの組織との共通面だけを抽象して論じても、一面的になるだろう。労働者は個人としては従属せざるをえない立場にあり、自分が弱いということを知っているから、団結することによって、資本にたいして対等の立場に立とうとつとめる。

 しかし、搾取という客観的事実は簡単にはなくならない。それはなくならないものか。なくなった例は、外国にすでにかなり多くある。その社会は、いうまでもなく、すでに資本主義ではなくて社会主義である。そこにも労働組合はあるが、その機能は資本主義のもとにおけるのと、かなりちがってくる。資本主義国の労働者は、社会主義をのぞみ、その実現のために努力する自由をもっている。労働組合がそのために役立つことも自由である。しかし、労働組合の本来の性質からいって、その仕事は、労働組合が独力でできることではない。社会の変革は、政治の問題である。そのためには、その道すじをあきらかにし、案内人の役をつとめる政党が必要である。労働組合は、その政党と同一人格ではないが、他人でもない。

日本の労働組合の未来像

 地球がたえず動いているように、人類の歴史もとどまることはない。そのなかで日本の労働組合はこれからどんな役割を演ずるのだろうか。私はその未来像の原型を、一九六〇年六月四日に見たと信ずる。この日、安保条約改定反対の意志表示のために、国鉄労働者が二時間のストライキを打った。私は、この闘争の重要拠点の一つであった品川駅で、夜中から朝までなりゆきをみまもっていた。多数の他産業の労働者、学生、新劇人などが駅前広場をうずめつくして、徹夜で国鉄労働者のストライキ準備を激励し、まもった。夜があけて、いつもの始発の時間がきたが、汽車も電車も動かなかった。線路のうえは異様にしずまりかえっていた。出勤の市民は、電車が動きはじめるまでしずかに待っていた。ストが解除されると、整然と改札口から吸いこまれていった。このストライキは、政府にいわせれぱ、違法の政治ストであった。そして、事後に国鉄組合員は大量の処分をうけた。しかし、このストライキは、安保条約反対・日米軍事同盟反対という国民の広範な層の意向を代表していたから、国民の支持をうけた。労働者と一般市民とのあいだには、なんのトラブルもおこらなかった。

 汽車・電車を動かす力をその手ににぎっている青い菜っ葉服の国鉄労働者が、群集の歓呼に迎えられて、隊伍を組んで、駅前広場に行進してきた。そのひとたちの顔は、きびしいたたかいに勝利したものの誇りにかがやいていた。私は求められて、そのひとたちの前に立って、つぎのようなみじかい挨拶をした。

 「みなさん、戦後十五年間、私はこの日が来るのを待っておりました。ついに、待ちに待ったかがやかしい朝がやってきたよろこびに、私の心は満たされています。やはり国鉄労働者諸君は、決然とたちあがって、私たち国民の期待に一〇〇パーセントこたえてくれました。感謝します。また、市民のみなさんは、よくこのストライキを理解し、すすんで支持を示されました。敬意を表します。今日の勝利は、日本のあかるい未来を切りひらく出発点となるでしょう。これから、日本に、人民が主導権をにぎるあたらしい歴史がひらけていくでしょう。労働者階級を先頭とする国民統一戦線万歳!」

労働者階級を先頭とする統一戦線

 私が発見した日本の未来像というのは、労働者階級を先頭とする国民統一戦線のことである。日本を支配する外国の力と、また国民のなかの三パーセントの、数は少ないが、力は強大なひとびとに対抗して、労働者階級を中核として国民の九七パーセントが団結した姿である。そしてその力によって、アメリカの支配をたちきり、三パーセントの独占資本家グループを排除して、運営されるあたらしい日本の姿である。

 もちろん、それはまだできあがってはいない。しかし、その方向へのスタートはすでに切られている。それが実現するためには、いろいろな条件がみたされなければならない。まず、労働者階級内部の団結と統一がかためられねばならない。そして、労働者階級は、国民のほかの諸階層、すなわち、農民、中小商工業者、知識人、主婦、学生などと提携し、団結し、これをみちびかなければならない。とりわけ、人口の半数近くを占め、また、労働者階級の母胎である農民と同盟しなければならない。そして、このような統一戦線をつくりあげていくうえで、労働組合がはたす役割は決定的である。政党は道案内人であり、指導者であっても、労働組合のような大衆組織の基盤をもたないでは、その政策を具体化していくことはできない。

 もちろん、わが国の労働組合は、まだこの任務をすぐに実現できる実力をもっていない。自分の賃金の問題でストライキにたちあがることはできるけれども、運賃値上げや物価値上げに反対するストライキを、国民全体のために打つところまでは行っていない。労働組合は、これまでさまざまな角度から検討してきたように、その組織勢力そのものが、労働者の三分の一を結集しえているにすぎない狭さをもっており、また、組織の内部にもたくさんの弱点をもっている。しかし、労働組合が、その運動をつうじて、それらの弱点、欠陥を改善し、克服し、力をつよめつつあることは否定できない事実である。それは疑う余地なく将来性をもっている。なぜか? 労働組合運動は歴史の根源である人間の運動であり、その積極面も弱点もふくめて、もっとも人間的な運動だからである。

労働組合は人間改造と社会改造の場である

 「昔陸軍、今総評」というコトバを、もう一度くりかえしてつかってみよう。戦前の日本人は、少なくとも、男子は軍隊が人生の大きな関門であった。そこで人間がきたえられた、というひとがある。そうかもしれない。しかし、そこできたえられたのは、戦前の日本人だと、私は思う。軍隊は「真空地帯」で、そこにはいると、人間性がぬきとられて、命令のままにうごく兵隊にかえられた、といわれるような意味での日本人がつくられたのではないか。

 戦後は、労働組合が人間をきたえている、と私は思う。労働組合は、戦前の日本人を、あたらしい日本人につくりかえる装置であり、戦後にふさわしい日本人をきたえあげている機関だと、私は考える。私は労働組合を観察し、これと接触していて、組織的で民主的なあたらしいタイプの日本人が大量的にそこにうまれ育ってきていることをみとめる。読者のみなさんは、あなたとあなたのまわりを見て、このことをみとめることができないだろうか。労働組合活動をつうじて、人間がかわった、と意識することはないだろうか。

 労働組合運動は、人間改造運動である。そして、同時に、社会改造運動である。そして、その機能をよくはたすことができるためには、労働組合自身の体質改善が必要である。改善すべき欠陥、弱点については、すでにひととおり述べたつもりである。日本の労働組合運動の歴史は浅い。したがって、前途は長い。それだけ、現在の苦しみも大きいが、将来の楽しみも大きい。

労働者は孫悟空である

 はっきりしていることは、労働者が最後の勝利者だということである。なぜならば、労働者は、孫悟空だから。孫悟空が、自分の毛を抜いてフッと吹くと、数千数万の孫悟空がとび出して、如意棒をふりかざして敵をうちまかす。社会が生産をやめないかぎり、そして、人類の文化と生活が向上するものであるかぎり、労働者がその中心的にない手でなくなることはない。資本家なしにやっている社会は、すでに、世界総人口の三分の一にひろがっているが、労働者なしに存立できる社会はありえない。

 石から生まれた孫悟空は、みずからをきびしくきたえ、そして、いつも陽気に、さらに不断にたたかいをつづけて、知恵と力を増していった。日本の貧乏のなかに生まれた労働者の、そのひとたち自身の組織である労働組合も、孫悟空のように修業を積んで、しかも、いつも楽天的に活動し、やがて自由自在に天地をかけめぐり、もろもろの怪物を退治し、そして、歴史の未来をその手ににぎるであろう。世界は、労働者階級によってつくりかえられるであろう。
(塩田庄兵衛著「労働組合入門」カッパブックス p236-244)

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◎宮川實先生と一緒に京都案内をするスケジュールを企画し、それを評価いただいたこと、編集者が京都学習協の事務局長代理に就任することを決めた80年代初頭の理事会に参加され凄く緊張したこと、温和な先生の笑顔を思い出します。