学習通信090424
◎鉄腕アトムは終わらない……

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《潮流》

一九七三年一月十九日、アメリカ・ワシントン。大聖堂の一角で、一人の男が嘆いている

▼「アメリカよ! おまえはいつわりの自由の女神のいつわりの旗のもとに世界を地獄へ追いやってしまった」。ベトナムの戦場を思い浮かべる。男は指揮者レナード・バーンスタイン。大聖堂で、彼の無料演奏会が開かれるのだ…

▼手塚治虫さんの漫画、「雨のコンダクター(指揮者)」の出だしです。次に登場する人物がニクソン大統領です。その夜、ワシントンでは、大統領への就任を記念する大演奏会も開かれようとしていました。同じ夜の二つの演奏会

▼外は土砂降りの雨です。しかし、大聖堂の前に長い列ができています。大統領の記念演奏会にくるのは、限られた人だけです。大統領自身はベトナムが気になり、なかなか会場に向かおうとしません

▼バーンスタインが指揮棒を振り下ろす。ハイドンの「戦時のミサ曲」です。大聖堂に入りきれない多くの人が、雨の中に立ちつくし、拡声器から流れる曲にききいります。打ち鳴らされる太鼓。「世の罪をのぞきたもう主の子羊 われらに平安をあたえたまえ」

▼ハイドンは、ナポレオン軍がオーストリアを攻撃した年に「戦時のミサ曲」を作曲しました。手塚さんは「雨のコンダクター」で、バーンスタインに語らせます。「占領されたウィーン市民のはげしい怒りと国民の平和を乱された反発をこめたちから強い作品」と。ことし、ハイドンの没後二百年、手塚さんの没後二十年にあたります。
(「赤旗」20090418)

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人間発見
手塚プロダクション社長
松谷 孝征さん

鉄腕アトムは終わらない

手塚治虫さん亡くなり20年、会社も残った。
ディズニーとは事業の方向性に違い
平和と命の大切さ 作品から伝えたい

「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫さん。その仕事場と行く先々で、いつもそばに寄り添っていた。手塚さんが亡くなってから今年でちょうど二十年。催しやアニメの製作に奔走しつつ、「天才を背負わされた」と話す仕事に終わりは来ない。

 早いもので、手塚が亡くなって二月で二十年が過ぎました。正直、大変な歳月でした。手塚プロダクションは手塚が仕事をする場所としてできた会社ですから、本人がいなくなると立ち往生です。実際、亡くなった時は三本の雑誌連載、三本のアニメ製作と仕掛かり中の仕事が山積みでした。新しいスタジオを建てたので借金も抱えていた。途方にくれました。

 だが会社は残りました。社員たちの頑張りもありますが、二十年も百人の社員を食べさせられるくらい、手塚は財産を残してくれたわけです。すごいことです。

 今年はそんな手塚に関連した催しがたくさんあります。没後二十年ですが、手塚プロでは二〇〇八年十一月三日からの一年間を生誕八十周年と位置づけ、新しいアニメ作品を企画しています。まずはテレビ版の「ジャングル大帝」を夏に。力のある人にキャラクターを描いてもらいました。そして少し先ですが劇場用に「ブッダ」をやろうとしています。長い作品なので出家し、旅立つまでのお話になるでしょう。劇場用は「リボンの騎士」もやります。

 手塚原作の実写映画では七月に「MW」が公開されます。ハリウッドでは「アストロボーイ」が製作され、日本でも年内に公開されます。二つとも自然発生的によそで企画が進みました。手塚が好きだという人がたくさんいて、企画書を持ってきてくれます。ありがたいことです。

 連載は終わりましたが、浦沢直樹さんが「鉄腕アトム」をベースに描かれた「PLUTO」は大ヒットになりました。これもうちではなく浦沢さんの独自の企画。本人がみえて「子どものころ読んだイメージを、自分なりに膨らまして描きたいんです」と熱っぼく語り出した。手塚家に確認すると、「浦沢さんなら大賛成」と言ってもらった。案の定、すばらしい作品でした。

 才能のある方が次々とかかわってくださるから、読者が手塚作品に帰ってきてくれるんでしょう。何もしないと子どもが手に取る機会も限られます。本当は子どもたちにこそ読んでほしいんです。

手塚プロダクションの社長になって二十四年。手塚さんが亡くなった後も、手塚さんの意図に沿うかどうかを考えながら会社を運営してきた。

 手塚作品はご遺族と話し合い、手塚ブロが著作権やアニメ化など運用をすべて任せてもらっています。奥さまとご長男は役員として入ってもらっています。元気だったころの手塚も、手塚プロからの給料制でした。会社と一心同体という形でやってきました。

 うちは商売が下手だとよく人に言われます。あれだけの資産≠ェあるのに、なぜディズニーのようにならないんだ、と。手塚はディズニーが大好きで、いろいろと教えてもらったと感謝していた。ですが、事業としては同じ方向を目指していたと思いますか?

 自分たちの身の丈以上を考えたら、手塚の心が置き去りにされるような気がします。マネジャーを十八年間、務めましたが、手塚の頭の中はいつも、子どもに何を伝えるかでいっぱいでした。子どもの時代に戦争を経験し、平和がいかに大切か、命がいかに大切かを感じた。一木一草から地球、宇宙まで、すべてが命でつながっていると考えて、一生懸命、「火の鳥」などの作品にしてきた。

 自分たちの今の作品からもそんな思いが伝わるなら、手塚は喜んでくれるはずです。みんなによく言うんです。手塚のことを考え、いい仕事かどうかを考え、あとはみんなで生活できるくらいの利益が出ればいい、と。みんなは外で言っているらしいです。「うちの社長ね、金もうけしなくていいって言うんだよ」と。

 まあ、私たちが騒いで、生前の手塚を知らない人たちにも手塚のメッセージを読んでもらっています。


読んだ漫画は「熱血もの」、大学では芝居に打ち込む
卒業後はアルバイト転々、貧乏生活に慣れ
出版社で「手塚番」、一生ものの仕事に

芝居、塾、アルバイト……。若いころ、なかなか居場所は定まらなかった。

 一九四四年、横浜の生まれです。実は小学校のころ、手塚治虫の作品は「鉄腕アトム」など三つくらいしかまともに読んだことがありませんでした。漫画ばっかり読むんじゃないという社会の風潮もありましたが、手塚の作品は当時、頭のいい子に好かれていましたね。私はそんなタイプではなかったので、熱血ものなどを読んでいました。

 中学、高校、大学と、私の人生にはまだ手塚がはっきりとは現れていませんでした。大学は当時、お茶の水にあった中央大法学部でしたが、あまり授業には出ませんでした。打ち込んでいたのは芝居と、友人と開いた塾です。

 芝居は早稲田大に行っていた先輩らと劇団を立ち上げました。団長に祭り上げられて二年、三年、四年とやりました。ずるいんですよ、先輩連中は。「芝居をやることが生きることだ」なんて息巻いていたんですが、みんなきちんと就職していきました。残ったのが僕と何人か。だからお金が必要で、塾を開いた。一年半くらいやったでしょうか。

 ただ、そういう生活も芝居も腰を痛めたりして終わりました。

 もう大学は卒業していましたが、行くところがなくなりました。最初は新大久保の一泊九十五円で素泊まりできるところに三日泊まって、お金が尽きた。どうしようかと新宿の駅ビル屋上で途方に暮れていると、スポーツ新聞が風で飛んできた。見たら朝夕食事つきで下宿でき、朝夕刊のどちらか配ればいいというのが目に入りました。「これいいな」と行ってみた。

 でも「ここは受験生の支援でやっているんだ」と断られた。私は長髪にビーチサンダル、ジャンパー姿。それでも店主が私の履歴書をみて私の実家がその店主の実家のすぐ近くだったことがわかった。で、入れてもらえました。

 それでも私はしばらく、一つの場所には収まりませんでした。新聞配達は「半年はやんなさいよ」といわれたため、七、八ヵ月やってやめた。そして安い下宿に住み、お金がなくなるとアルバイトを転々とする生活が始まりました。フリーターのはしりです。ビンのリサイクル、レコードの販売。いろんなことをした。貧乏生活には慣れました。

転機は二十代後半。漫画雑誌の編集部に嘱託で入り、手塚さんと出会う。

 出版物を売り歩く仕事を辞め、東京に戻ったのですが、仕事がない。先輩に会い「何でもいいんだが、ないですかね」と聞きました。彼は早稲田大の漫画研究会出身で、そこは当時、実業之日本社にアルバイトのコネがあって、誰かしら派遣することになっていた。それを紹介してもらいました。

 週給五千円。それでいいかと言われたが十分大丈夫でした。編集部に入り、漫画サンデーという大人の漫画雑誌を担当しました。グラビアと読み物、漫画の編集者と分かれていましたが、入った直後に新しい雑誌ができて、担当者が一人抜かれた。で、素人なのにグラビアの欄をすべて任されました。評価されたんじゃなくて「できるだろう」ということでした。

 でも漫画のページが増えていく移行期。せっかく慣れた活字ページから漫画に回りました。原稿を取りに行って、持ち帰って印刷所に出す。それにはすぐ飽きました。

 そのころです。手塚番≠ノなれと言われました。手塚は七三年一月に漫画サンデー増刊号などに「レボリューション」「ペーター・キュルテンの記録」という作品を描いたのですが、この二つの原稿取りで私は七二年十一月から二ヵ月間、手塚プロダクションに詰めっきりでした。それぞれ五十nの短い作品で、飛び込みの執筆依頼。なかなか原稿が取れず漫画界で最も過酷とされた手塚番です。他社の編集者にしたら「じゃまなやつ」だったでしょう。

 手塚番になったのはたまたまです。そのころ出版業界は組合がものすごく強い時期でした。で、年末闘争でみんなが残業拒否すると嘱託の私しかいなくなるわけです。仕方ないから私がやるようになった。でも、手塚番はそこから一生ものになりました。


手塚さんのマネジャーが辞めたため、後任に
大御所なのに、新進漫画家をライバル視
85年に社長就任、腹が立っても笑顔に負けた

当時、手塚治虫さんは漫画の世界で大御所中の大御所。だが辛抱強く待つ新参者の編集者にも気を使ってくれた。

 「松谷氏、劇団やってたんでしょ。旅回りの劇団の名前でいいのがありますかね」。ある日そんなことを手塚は聞いてきました。漫画に使うらしいのですが、どんな名前にするかは手塚のなかで答えが決まっているんです。でも私なんかじぃっと何日も待ってるわけでしょう。だから声をかけてあげようかと気を使うんですね。

 ある時、マネジャー問題が浮上しました。前の人たちが辞めようとして、いつの間にか私がマネジャーがわりで采配を振るうようになった。原稿は「どうぞお先に」って感じであせってませんでした。で、そのマネジャーが辞める時、手塚に言ったそうです。「松谷さんでどうですかね」と。手塚は「ああ、いいですね」と答えたらしいです。僕はもちろん、お引き受けしました。手取りで月二十万円出しますっていうんです。一九七三年です。当時、私の月収は五万円くらい。二つ返事でした。

 手塚がたいへんな天才だということは少しいればわかりました。暇だからほとんどの作品を読むわけですよ。すごかった。だが、四六時中仕事をする手塚にはどうしてもだれか仕事の現場や日常生活をさばく人間が必要でした。

 ある時、手塚がうちの編集長を訪ねてきて、「ぜひお願いします」と言ったそうです。編集長は手塚に「松谷君はね、よくやるんですけど、欠点はね、家に帰んないんですよ」と言った。手塚はその時、にやっと笑ったといいます。手塚も家に帰んない人でした。

「天才」を背負わされる、大変な日々が始まった。

 マネジャーはまずスケジュール管理としかられ役が仕事です。編集者の怒りを手塚にダイレクトに向けてはいけない。あとは食事の管理、アシスタントの手配です。七五、七六年は月に六百n書くこともあり、アシスタントが足りなくなることもありました。

 手塚は新しく出てきた漫画家はみんなライバル視していました。もう大御所だからそんなことしなくてもいいのにと思うんですが、きちんと見ていて「どこがいいんですかね」と聞くんです。まずみんなの前では漫画雑誌は開きませんでしたが、みんなが帰った後、そっと読んでいました。気にしていたんです。

 結局、子どもにメッセージを伝えたいなら、今の子どもたちがどんなものを好むのか。テーマは変えないにしても、意識していないといけないということでしょう。

 私が一番好きな作品は「百物語」という短編です。が、一番の思い出は「ブラックージャック」です。手塚が一番悩んでいた時期でしたし、「虫プロ」など二つの関連会社がつぶれた時と重なったからです。大ヒットしました。手塚の家などを処分しても残った借金はそれで一気に返せた。手塚プロは救われました。

 私が結婚したのは三十八歳です。青春を手塚治虫にささげました。夜食に近くの飲み屋からおにぎりとかをとるんですが、たまにきていた女の子がいた。聞いてみると、学生時代に僕らがつくった塾の生徒だったとか。僕が辞めた後に入ったらしいです。その人が嫁さんになりました。手塚はそのころ言っていました。「あなたもう結婚しないとだめですよ」と。もう一人いた若いマネジャーは「松谷氏より早く結婚しちゃいけません」と厳命されていました。

 八五年には手塚プロの社長を任されました。みんな「性に合ってる」と言ってくれますが、つらくて腹が立つことがたくさんありました。「ちょっとブックフェアがあるのでサンディエゴに行きたい」と言う、「アニメはもうやらない」と言っておいて結局やる。仕事がしっちゃかめっちゃかな時に手塚はこういう具合です。辞めてやるぞと何度思ったか。でも面と向かうとだめなんです。「すみません」と笑いながら言われると本当に。作品もそうですが私は手塚治虫の人間性にひかれていました。


死の直前、病床で連載3本描き続けた手塚さん
「もういいかなあ」会社に残るかどうか迷う
記念館構想など相次ぎ辞めるきっかけ失う

手塚治虫さんは亡くなる直前まで病床で連載を三本描き続けた。その死はあまりにも大きな衝撃だった。

 手塚は一九八九年二月に亡くなりましたが、がんという病名は知らせませんでした。

 八七年春でしたか、パーティーの席で調子が悪くなり、検査をすすめられました。その年は何度か調子が悪くなることがありました。八八年三月、手術を受けました。ご家族や近くにいた私たちには大きなショックでした。私は体調のこととともに仕掛かり中の仕事をどうするのか考えなくてはなりませんでした。

 手塚は医者ですからなぜ手術をするのか気が付いていたかもしれません。ですが、その時は回復するものと信じていたし、実際、六月、七月あたりはかなり回復しました。これで転移がなければと祈りましたが、秋口にまた体調を崩します。

 十一月中旬、上海で国際的なアニメの祭りがあり、手塚は審査員に呼ばれていました。がんが再発して体調が悪かったので「先生、もういいんじやないですか」と言つたら、「これは国際間題です。絶対行きます」と言ってききませんでした。帰国してすぐに入院し、そのまま出られなくなった。中国は手塚にとって最後の外遊先になりました。手塚プロは二十年前、中国にアニーメスタジオをつくりましたが、これも何かの巡り合わせかと思ったのが、場所を選んだ理由です。

 手塚から病気について問い詰められたのは二度目の手術をする前の一度だけでした。「あなた会社の社長なんだから、ぼくが働かないと仕事になんないでしょう。きちっとよく聞いてください」と言われました。病状がかなり悪いことは担当医から聞かされていて、どうやって説明していいかわかりませんでした。

 手塚が漫画を描けたのはその年の十二月いっぱいでした。その姿は壮絶でした。翌八九年の一月以降は、指示や、文章で済ませられる仕事になりました。連載中たった「ネオ・ファウスト」「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」は二月、絶筆となりました。

 漫画の連載はこれでおしまいです。どうしようもありません。でも未完成のアニメの仕事が問題だった。「手塚がいなくなったアニメでもいいんですか」とテレビ局などで検討してもらいました。そしたら「いい」ということになって。特にNHKさんで放送する作品は全くのオリジナルなので困りましたが、手塚が結構長く構想を書き残してくれたので、「やりましょう」ということになった。でもまあ、がたがたの連続でした。亡くなった直後は。

手塚プロに残るかどうか迷い、そして残った。

 私も手塚があんなに早く逝ってしまうとは思いませんでした。五十歳を過ぎたころから丸い絵が描けなくなったとか、丸の下の部分が震えるとか言っていましたが、味があったし描くのも相変わらず速かった。だから私が見る限り、健康体でありさえすれば今も八十歳で現役だったかもしれません。ストーリー漫画は分量があるから大変ですが、週に何ページかなら描けたはずです。あと、映画の原作も書けましたから。

 私はそもそも二年くらいで手塚プロを辞めようと思っていました。手塚番の編集者の人たちの原稿をもらう順番を決めたり、なだめたり、そんなことばっかりで。ですが、次から次へといろいろなことが起きるんですよ。「虫プロ」がむちゃくちゃになったり、沖縄海洋博を手伝ったり、アニメを復活させたりと。

 亡くなった後、またどうしようか考えました。もういいかなあと思いました。手塚の仕事のための環境整備が私の役割でしたから、その相手がいなくなり、私のいる意味があるのかどうかでした。もともと飽きっぽい性格でもありましたし。

 ですが、次々とまたいろいろ起きました。手塚の生前に引き受けたイタリア国営放送向けのアニメ作品。お国柄もあってなかなか製作が進まず、製作費をいただく時も問題が発生しました。手塚の記念館やテーマパークをつくろうというお話などもいただきました。そんなことが続き、結局辞めるきっかけを失ってしまいました。


利益の大半を再投資しアニメなど制作
「火の鳥」だけは続編を作ってほしくない
「100年後も手塚の精神伝える会社」に

曲折はあったが仕事は広がっている。

 手塚プロダクションは手塚の生前と比べ、会社の規模が大きくなっています。手塚は何もかも自分でやりたかった人なのですが、生前は忙しくて一度にできなかった。亡くなってからは、私たちが「手塚先生ならこうしただろう」と想像しつつ、アニメなどを積極的に作ってきました。

 版権ビジネスでの収入は、ほとんど経費がかかりませんから利益は上がります。利益の大半は再投資に回します。手塚作品は年月が経過しても古くならない。だからアニメにしても楽しめます。多少赤字になってもそれが広告だと考えれば現場はいい仕事ができるのです。そうすることで手塚作品はまた十年、二十年愛され続ける。もうけがなくてもいいものをつくれ、というのは手塚治虫の創作姿勢を学んでぃるつもりです。

 手塚プロは今、埼玉県新座市のスタジオに五十人、高田馬場の本社に五十人います。二十年前、中国にスタジオ「北京写楽」もっくりました。中国は手塚の最後の出張先。手塚は中国を大切に思っていましたので文化交流の場になればと思いました。北京写楽を卒業≠オた人は千人近く。描けるようになると出ていく。日本のアニメの技術を早く習得できるので引く手あまたなんだそうです。

 国内では、手塚作品を自分の解釈でリメークしたい、あるいは続きを描きたい、というお話もいただきます。鉄腕アトムの「地上最大のロボット」を下敷きにした浦沢直樹さんの「PLUTO」がそうでした。お申し出を受ける作品で最も多いのは「火の鳥」でしょう。でもこれだけは、あのままでそっとしておきたいんです。

 火の鳥は全体として五千年も隔てた過去と未来を交互に描いていくスタイルをとっています。発想がとてもユニークです。手塚は生前、「最後は現在を描くんです」と言っていました。時代はアトムが生まれた二〇〇三年。鼻の大きい猿田彦の末裔(まつえい)としてお茶の水博士が登場する、といった構想を話してくれたことがありました。でも「現在」は点じゃないですか。描いているうちに過去になってしまう。だから今を描くというのはものすごく大変なこと。手塚はそれを描くことで最後に自分で真実に触れる、そんなことを夢見ていたのではないかと勝手に想像しています。ほかのだれかに継続して描いてもらうのは難しいんじゃないかと思います。

「百年後も手塚の精神を伝えている会社」を目指す。

 四月四日、「トキワ荘」の記念碑が東京都豊島区の跡地に近い公園に完成し、除幕式にお邪魔しました。一九五〇年代前半に手塚や当時の藤子不二雄先生、石ノ森章太郎先生、赤塚不二夫先生らが住んでいたアパートです。二〇〇八年にお亡くなりになった赤塚先生はいつもおっしやっていました。

 「手塚先生は漫画家を目指すならいい映画や舞台、絵をみなさい、いい音楽を聴きなさい、と後輩たちに教えていた。自分はそれを励行し作品を描いた」そうです。

 これまで、いろいろな方々が手塚への思いを私たちに語ってくださいました。では、手塚の心やメッセージをどうやって未来に伝えていったらいいでしょう。私はこの会社が百年後も手塚の精神で作品をつくり、手塚と同じような仕事をしている場所であってほしいと期待しています。六十年も前の手塚作品が今も単行本になり、売れているわけですから、十分に可能です。手塚にちょっと申し訳ないのは、漫画の制作にあまり携わっていないことです。いつになるかわかりません。何とかいい企画を考えて少しでも漫画の世界に貢献したい。もちろん、命の大切さ、戦争の悲惨さなど手塚のメッセージを大切にしてです。

 手塚は常に仕事にひたむきでした。背中を見ながら勉強させてもらった気がします。本当に身になっていればいいですけど……。とにかく、私の仕事はこれからも手塚の思いや願いを伝えていくことです。「表現手法としての漫画やアニメのすばらしさを世界中に理解してほしい」。少しでもそれに近づけていきたいと思っています。
 (聞き手は編集委員 中山淳史)
(「日経 夕刊」20090420-24)

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「アメリカよ! おまえはいつわりの自由の女神のいつわりの旗のもとに世界を地獄へ追いやってしまった」……。そして2009年