学習通信090428
◎愛するということ……

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らいふプラス
なぜ減らない?
配偶者からの暴力

妻を支配 しつけと誤認
予防に若者の教育を

 配偶者間暴力(DV=ドメスティック・バイオレンス)防止法の施行から八年が過ぎたが、被害は減っていない。内閣府の調査では三人に一人の妻が何らかの身体的、精神的暴力を受け、そのうち一三%強は命の危険を感じたという。警察への相談や被害届も昨年は過去最多。なぜ暴力をふるう夫は減らないのか。

 配偶者からの暴力被害はもちろん妻だけではない。内閣府の調査では六人に一人の夫も妻から何らかの暴力を受けたことがあると答えている。だが繰り返し、しかも命の危険を感じるような暴力の被害者は圧倒的に女性が多い。自治体の配偶者暴力相談支援センターや警察への相談の九九%は女性からのものだ。

20年間耐え続け

 先ごろDV被害者支援のための特定非営利活動法人(NPO法人)アーシヤを立ちあげた野原沙希さん(55)も、夫からの精神的、肉体的暴力に三十年間耐え続けた。夫がひょう変したのは結婚二年目。まず言葉の暴力が始まり、部屋が散らかっている、食事の支度が遅いなどささいな事で暴言を吐いた。機嫌を損ねると口もきかない。

 夫の顔色をうかがう毎日が続き、ついにはうっ病を発症した。入院中は手のひらを返したように優しかったが、退院すると今度は身体的暴力が待っていた。気に入らないことがあると床や壁にたたきつけられ、呼吸困難で病院に駆け込んだこともある。

 離婚を決意したのは娘の前で襲いかかられた時だ。

 「今になればDVだったとわかるけど、長い間私が悪いんだと自分を責めていた。子どもを連れて出て行く気力もなく、逆らったら大変なことになるぞという夫の言葉におびえるだけだった」と野原さん。立ち直るのに十年かかった。

 民間の支援団体でつくるNPO法人全国女性シェルターネットの遠藤智子事務局長によれば、DVの加害者は職業も学歴も収入も多様だ。一流企業のサラリーマンや大学教授、警察官もいる。外見からは暴力をふるうと思えない人が、家庭では暴君に変わる。被害者もごく普通の女性だ。

 一方で暴力のパターンは驚くほど似ている。嫌いな料理を作った、自分の言うことに逆らったなど彼らなりの理屈があり「オレを怒らせる相手が悪い」と信じている。

 独占欲が強く、帰宅すると買い物のレシートを出させて時間と行動をチェックする。自分の知らない友人と付き合うことを許さない。少しでも疑わしいことがあれば厳寒の中、頭から水をかけてベランダに出す、ドライブの最中に山の中に置き去りにする──。

 「妻を自分の所有物と思い、しつけと信じている。長く支配されていると妻も異常さが分からなくなり、どの夫婦も同じだろうと耐えている」(遠藤さん)

 内閣府が三年に一度行う調査では、何らかの被害を受けたことのある女性は二〇〇八年で三三・二%。一九九九年の第一回調査からほとんど変わらない。

 なぜ、こうした暴力はなくならないのか。お茶の水女子大学の戒能民江副学長は「男性から女性への暴力を放置してきた長い歴史がある」と語る。日本では女性だけでなく、障害者や子ども、高齢者の人権に対する意識も不十分。「DV防止法は知っていても心の奥でたいしたことないと思っているのではないか」

被害者を責める

 名古屋市配偶者暴力相談支援センターの原田恵理子さんは、東京都や佐賀県でも支援に携わってきた。「普通の暴力なら加害者が責められるのに、DVはなんでそんな男と結婚した、なぜ逃げないんだと被害者が責められる。こうした冷たいまなざしも暗黙の容認につながる」と話す。

 自治体の相談窓口や警察への相談が増えているのは、法律の施行によって隠れていた暴力が顕在化したことが大きい。「これはDVではないか」と被害者が気付き始めた。だが予防や対策は不十分だ。最近は恋人同士のデートDVも問題になっている。

 暴力をなくすには男女平等教育や女性の経済的自立が大切だ。そして学校などで、DVは犯罪だということをきちんと教える必要がある。内閣府は文部科学省と連携して、高校・大学生向けの教材を作成中だ。

 関係者の多くは「加害者への厳罰も欠かせない」と主張する。法律によって被害者への接近などは禁止されるが、加害者は傷害などで起訴されない限り自由だ。「これではDVが犯罪というメッセージが社会に伝わらない」(遠藤さん)

 警察庁の調べでは配偶者による殺人は〇七年で年間百九十二件、傷害は千三百四十六件、暴行は九百三十三件起きている。被害者は殺人の四割が男性だが、暴行、傷害の九割以上は女性だ。DVの深刻さを社会が認識することが、減らすための第一歩ともいえる。(編集委員 岩田三代)
(「日経」20090427)

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デートDV
DV(ドメスティックバイオレンス)最近はよく耳にします言葉ですが、
大人の間だけの事ではありません。男女交際においても虐待や暴力による
対等でない関係があります。

 デートDVは結婚していない男女間での体、言葉、態度による暴力の事です。

 親密な相手を思い通りに動かす為に複合的に使われるあらゆる種類の暴力を指します。

1.身体的暴力;相手に向かって物を投げる、たたく、噛むなど

2.言葉、心理的感情的暴力;汚い言葉を言う(ばか、ブス、デブ、汚いなど)無視する、嫌がらせ ストーキング、頻繁の電話、過剰な嫉妬

3.性的暴力;合意のない性交渉、交渉時に痛めつけたり侮辱したりする行為、

4.経済的暴力;お金を貢がせる
 いろんな種類の暴力によって自己決定権を剥奪する。「力を持って相手を支配」する。相手を自分の思い通りにしたい。

 ではどうしてデートDVが起きるのでしょうか。その一つに”暴力を甘く見る風潮”男の子は多少暴力的でもいい”と暴力容認の社会が背景となっている。

ジェンダーバイアス(社会的性差による偏見)。

*男らしさとは?*(一般的に思われている事例)
 苦しくっても弱音をはかない。男は泣かない。感情を表さない。家族を養ってこそ男。強く競争に勝つ。女性を守らなければ。男は黙って・・・。

:女らしさ*
 か弱い。守られる。おとなしくついていく。控えめ。貞淑、受身。夫・子供を第1に。理屈を言わない。学歴はそこそこ。家事育児は女性の仕事。

 男はいつも自分が正しく、感情にふたをする事が当たり前という概念が頭にあると、思い通りにならなかった時に怒りが爆発し暴力となる。女性は自分の意見は持たず男性についていく。何か起こった暴力を振るわれてもしょうがない。こういった考え方が社会の中に根深く根づいている。

”女らしさ””男らしさ”ではなく、社会通念に左右されず”自分らしさ”を見つけよう。

*デートDVを起こさない為に*
1.間違った知識を学び落とす。(男らしさ、女らしさなど)
2.相手を尊重する対等な関係性を学ぶ
3.コミニケーション力をつける

 男の子もつらい時には弱音を吐いていい、感情を表してもかまわない。女性も自分の意見を持って”嫌なものは嫌”ときちんと発言していい。

1つの事例を紹介してみます。
場面;デート中相手の携帯に電話が入り長時間話しています。あなたはいらいらします。その時の気持ちをどのように伝えますか?


男「何で食事中に長電話なんかするんだよ!」
女「だって大事な話なんだもん」
男「俺は大事じゃないのかよ。この間もそうだっただろ。もういい加減にしろ!」

このメッセージでは相手にとって批判されたり、責められたりするように聞こえます。このままけんかになりそうですね。
それでは同じ内容をちょっと言い方を変えてみましょう。


男「食事中に長電話されるといやだな。僕の事どうでもいい様に感じるよ」
女「あっ。ごめんね。でも大事な話なの」
男「そうかもしれないけれど、折角のデート中だから、食べ終わってからかけ直すって言ってくれない?」
女「うん わかった。」

 自分の気持ちに焦点を当ててその気持ちを率直に相手に伝える事です。
この会話の後は、たのしいデートが続きそうですよね。

 この研修会の内容は男女間の暴力となっていますが、これはいろんな立場の暴力にも当てはまるなと感じました。たとえば、教師と生徒、上司と部下、親子友人間など。「力による支配」があるところには、必ず暴力が介在します。

 ただ、残念な事に現社会の中にある”ジェンダーバイアス”は私たちが小さい頃から知らないうちに刷り込まれており、大多数の人も当たり前と思っている
 事柄です。これを見直して学び直す事は難しいことですが、後回しにしてはいけないなと感じました。
(WEB情報)

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ゆうPress
若者に広がる 「デートDV」

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 最近、十代、二十代のカップルの間で「デートDV(ドメスティックバイオレンス)」が問題になっています。殴る、けるなどの身体的な暴力、「毎日電話を強制される」「セックスのとき避妊してくれない」「お金をとられる」などの精神的、性的、経済的暴力も含まれます。デートDVの実態は――。(伊藤悠希)

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女子高生の10人に1人被害

 長崎の「NPO法人 DV防止ながさき」が行った調査(グラフ)では女子高生の10人に1人、女子大生の6人に1人がデートDVを受けていることがわかりました。アンケート結果からは常に携帯電話にメールをし、相手の行動を監視する、携帯電話を勝手にチェックするなどという束縛、干渉を受けているケースが多いという実態が見えてきました。

 埼玉県の栗橋高校で若年者DV予防啓発講座「デートDVお互いを尊重した関係とは」が開かれました。全校生徒550人が対象です。県男女共同参画課のDV対策事業の一環として行われました。講座を聞いた女子生徒は「束縛がいけないと思わなかった。愛情はそういうものだと思っていた」と述べ、男子生徒も「デートDVという言葉は初めて聞いた。自分がやってしまわないための参考になったし、被害を受けたときの対処法もわかった」。

 入江克己校長は「水面下ではもっと起きているのではないかと思います。暴力と気付いていない生徒が多いのでは。生徒の一生にかかわる問題なので、啓発のいい機会にしていきたい」と話します。

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服装まで好み強要
 市民団体の「レジリエンス」でサバイバー(DV被害を受けた、受けている人)をサポートしている中島幸子さん(42)。大学時代、彼氏からDVを受けていた中島さんの場合は――。

 二十歳から四年半付き合っていた男性から殴る、ける、夜中に車で連れ出され知らない場所に置いていかれるということもありました。ショッピングセンターに行ったときのことです。彼の態度が変わって置いていかれそうになりました。

 「置いていかないで」と言うと、彼が「おかしな人がいるから連れてってください」と私を警備員に突き出しました。あまりの仕打ちにそれ以降の記憶がありません。

 デートをするときも彼が気に入る服でないと着替えなければなりませんでした。ハイヒールを履くなと言われたので、すべて捨てました。笑うと「なんで笑ってるんだ」と怒られるので笑うことをやめました。

 彼から逃げたのは大学院生のときです。彼が子どもを殺しかねない人だと感じたことがきっかけでした。家族の協力もあり、親せきの家に四カ月間隠れました。

 カウンセリングを受け、初めてDVを受けていたことに気付かされました。こんな目に遭っているのは世界中で自分だけだと思っていたのです。


一人で我慢せず相談を
 レジリエンスでサバイバーのサポートをしている島田里沙さん(39)=仮名=もDV経験者です。

 結婚前、彼の気に入らないことをすると責められることがありました。結婚すれば彼は変わると思って二十七歳のときに結婚、子どもを二人産みました。二人目の子どもを妊娠しているとき顔をたたかれました。これは子どもへの暴力だと感じました。そのとき離れようと思いました。二歳と二カ月の子どもを連れて家を出、五年間別居し、離婚しました。

 DVの一般知識と自分の場合を比較して自分は違うと思い込んでいました。相手の言うとおりにするのが安全と認識します。そうして、心理的に支配されるのです。

 今はレジリエンスで「後から続く人のために歩きやすい社会にしたい」と活動しています。でも、DVの体験から物音に敏感で、男性の大声、クラクションに対する恐怖心は強いままです。

 DV被害に遭っていると気付いたら一人で悩まず家族や友達に相談してください。身近な人に言いにくかったら公的機関やNPOなどを活用してください。がまんしていても解決にはなりません。がまんすることは危険な状態に身を置き続けるということです。

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加害者が自分と向き合う必要
 デートDV防止プログラム、DV行動変革プログラムを行っている「アウェア」の山口のり子さんの話

 DVは特定の人にしか起こらないというのは間違った認識です。私たちは体罰、セクハラ、いじめ、リストラなどのさまざまな暴力に日常的にさらされています。暴力で問題解決してもいいという暴力容認の意識がどこかにあるのかもしれません。まんが、映画、テレビ、雑誌、歌の歌詞から受ける影響も大きいでしょう。

 DVは暴力を用いて相手を怖がらせ、力を持つことで相手を思い通りに動かし、支配することが目的です。

 アウェアが行っているDV加害者の行動変革プログラムでは加害者がグループ教育を受け、自分の加害に向き合い、どうすれば行動を変えていけるか考えます。幾人もの参加者がプログラムを受ける過程でDV行動は妻に対してだけでなく、結婚前に付き合っていた人にもしていたことに気付きました。防止教育は若年であるほど効果があります。中学、高校あるいは大学で防止教育をすることが必要です。

 相手が自分とは違う考え方、生き方、価値観を持っていることを受け入れ、自分の価値基準で評価しない。自分の考えを押しつけず歩み寄る努力をし、尊重する人間関係をつくることが相手を大切にすることです。
(「赤旗」20060717)

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 もしも、愛の第三の要素──尊敬──がなかったならば、責任は、たやすく支配や所有に堕落してしまうであろう。尊敬は恐れでも畏怖でもない。それは、語源(respicere=ながめる)に従えば、人をあるがままに見、その特異な個性を知る能力である。

尊敬とは相手がその人自身としてありのままに成長し、発達すべきであるという関心を意味している。尊敬にはこのように、搾取の欠如の意味を含んでいる。私は愛する人が、私に仕えるためにではなく、自分自身のために、そして自分自身の方法で、成長し、発達することを望むのである。

もしも、私が他の人を愛するならば、私は彼あるいは彼女とひとつであることを感ずるが、しかし、あるがままの彼とひとつになるのであり、私が使用する対象として、私に必要なものとしての彼と合一するのではない。

尊敬とは、ただ、独立を成就した時にのみ、支えられる必要なしに、誰かを支配し、搾取することなしに立ち歩くことができる時にのみ、可能であることは明らかである。尊敬は自由の基礎の上にのみ存在する。すなわち《愛は自由の子供である》と古いフランスの歌がうたうように、愛は自由の子であり、けっして支配の子ではないのである。

 人を尊敬することは、その人を知ることなしには不可能である。配慮と責任とは、もしも知識によって導かれることがないならば盲目となるだろう。知識はもしもそれが関心によって動機づけられないならば空虚になるだろう。

知識には多くの層がある。愛の一局面をなすところの知識は対象の周辺にとどまることなく、中核にまで侵入する。それは私が私自身への関心を超越し、他の人を彼みずからの価値において見ることができる時にのみ可能となる。

たとえば、私はある人が怒っていることを、その人がそれとはっきり示さない時も知ることができるだろう。しかし私は、彼の怒りよりもさらにいっそう深いところまで彼自身を知るであろう。そして私は、彼が不安であり、悩んでいること、彼が孤独であること、彼が罪責を惑じていることを知るのである。そして私は、彼の怒りはより深いあるものの現われにすぎないということを知り、彼が心配し、困惑していることを理解し、怒っている人としてよりも悩んでいる人として彼を見るようになるのである。
(フロム著「愛するということ」紀伊国屋書店 p37-39)

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二人のための世界ではなく世界のための二人

 もうだいぶ前のことになりますが、「二人のため、世界はあるの」という流行歌がずいぶんはやったことがありました。それは二人の愛を歌ったとてもさわやかな感じの歌でした。これはたしか、恋愛こそが最高ですべてはそれにまさることはない、といういわゆる恋愛至上主義の考えを歌ったものでした。

 そこには社会や世界の動きは度外視して、愛しあう二人が見つめあう幸せだけがあります。

 たしかに私たちにとって恋愛も結婚も人生上の大問題です。
 理想的にいえば、一組の男女が愛しあい、やがて結婚して新しい家庭をつくる、これがいちばんのぞましい姿です。
 しかし、現実にはいつもそうなるとはかぎりません。当然のことに、そこにはいろんな波風がつきまとうし、破たんする場合だってあるでしょう。

 それは、熱烈な恋愛のすえにやっと結婚したような夫婦の場合でさえも、けっして例外ではありません。
 どうしてそうなるのでしょうか。

 私は、二人のために世界があるという、そういう閉鎖的な愛の関係、さらにいえば愛情の自己目的化ともいうべきそういう姿勢に大いに関係があると思います。

 お互いに見つめあってだけ生きる、そこになんらの共有する理想も目標もないというのでは、長年のあいだにはこれまで気がつかなかったような、いろんな欠陥や矛盾も目についてくるようになりますが、これをのりこえるための共同は成立しようがない。そして結局は破たんにいたるケースも現実にすくなくありません。

 「今年の秋に結婚をひかえた友人とその彼女の仲が危ぶまれています。彼は青年部を引っ張る中心的な好青年ですが、地域の活動、学習で、彼女との時間が少なく、彼女は結婚後も彼が活動を続けるつもりなら、別れるといいだしています。いま、彼は必死の説得中……。」という記事が目につきました。

 ほんとうに組合や地域で積極的に活動することと、恋愛、結婚、家庭生活を両立させ、若い二人がお互いに成長し、温い家庭をつくっていく、というのはたやすいことではないのです。

 さて、この場合の彼氏はどうするのでしょうか?
 そう、彼の前にあるのは三つの道です。

 第一の道は彼女のいうとおり活動をやめてしまうことです。これは右よりのあやまりの道といえましょう。

 第二の道、こんなわからずやの彼女なんか勝手にしろ、とばかりに別れてしまう。だけどこの道は左よりのあやまり、第一のうらがえしです。

 第三の道、それはやっぱり必死の説得以外にありません。これこそ正しい解決の道です。

 彼と彼女のあいだにある矛盾、それはもちろん非敵対的な性質のものです。だから道理にもとずく説得、教育、そして学習を通じて解決する以外に方法はありません。

 やはり、このような事例にも示されているように、愛情の永続的な発展の条件というのは、そこに共有の理想があるかどうか、これがとても大切なことです。お互いにスクラムをくんで共通の目標に向かって助けあいながら前進するという関係、そこにはお互いを結合する共通の基盤があるはずです。

 彼の理想は彼のもの、私には関係ない。私の理想は私のもので、彼には関係ない。これでは、スクラムの組みようがないではありませんか。

 やはり理想を共有する友人としてまた同志としての関係のなかにこそ、お互いに援助しあい支持しあうというたたかうものどうしの愛も生まれてくるでしょう。そこにこそ真に二人を結合する紐帯が芽生えるのです。

 二人のために世界があるというのでなく、世界のために二人がある。二人の愛を社会の歴史的発展と進歩の道にむすびつけて、そのなかに位置づける、そうしてこそほんとうに個人的な狭い枠のなかから脱け出して、真の愛の創造について語ることができるのに違いありません。

 私たちも結婚してからいろいろいろなことがありましたが、とにもかくにも、その一つひとつをのりこえてここまでやってこられたのは、当然といえば当然のことで、なにも秘けつといったものがあるわけではありません。とはいえ、風雪の試練という点では、普通の場合とは多少異たる点もなかったわけではありません。

 そのようなときに私たちの共同をささえたのはいったい何だったのかといいますと、それはやっぱり共通の敵に対する共通の怒りではなかったかと思います。いいかえると共通の目標と共通の理想、それに向かってたたかいつつ前進する、という立場をつらぬいているということです。

 ですから私たちは、夫婦である前に友人であり、また同志でもあります。
 相互支持と相互批判のスクラムのもとでのたたかいの日々は、あっというまに過ぎ去ってしまったように思えます。おかげで退屈や中だるみなどというぜいたくなものに悩まされることもなかった、そのことだけを幸せというべきでしょうか。

民主的な家庭は民主的社会建設の土台に

 「どこかの大物の社会民主主義活動家が熱烈な、非常に急進的な演説をしながら、家庭生活、日常生活では、正真正銘の俗物……『おもわず知らずブルジョア』になっているというような光景に、お目にかかることがまれではなかった。

 資本主義社会制度をとりまく環境全体が、かれの心理にあまりにつよく影響しているため、本人はそれに気づきさえしていないのだ。妻はかれにとって友や同志ではなく主婦──召し使い、あるいはオモチャであり、享楽、性的欲求の充足の対象である。」(クルプスカヤ『レーニンについて』G)

 だいぶ長い引用になりましたが、なかには耳のいたい人もいるのではないでしょうか。

 これは、レーニンの妻、クルプスカヤが「レーニンの共産主義道徳論」について論じたものからの引用です。

 実際、現代日本でも「熱烈な、非常に急進的な演説」をする人でも、一歩家のなかに足をいれたとたんに「専制君主」に早がわりという光景もまれではないようです。

 また自分では社会的な活動の重要性をみとめている人でも、自分の妻が活動することはどうも賛成できない、活動は自分一人でたくさんという態度にでくわすこともあります。

 クルプスカヤのいうように、本人はそれが「おもわず知らずブルジョア」になっているのだということに気づきさえしていないのです。

 また妻のほうでも、結婚とは三食昼寝つきの就職の一種と心得ていて、経済的にも夫の稼ぎにまるがかり、文字どおり「ご主人」に食べさせていただく、ですからうちの主人はかいしょうがあるとか、ないとか、それで何の疑問も感じないという人がいないわけではありません。これでは、ほんとうに対等平等の民主的関係の家庭をつくるということにはなりません。

 いうまでもなく、家庭というのは社会の最小単位です。親子・夫婦という特別の紐帯でむすばれた特殊性ある最小単位の社会、それが家庭というものです。そこで主人と主人でない者がいて「支配」と「服従」の関係が生きている、主人に相談しなければ何事もきまらない、個人としての基本的な人権と自立が失なわれている、こういうことでは、そこにほんとうの連帯も共同も、生まれ育つはずはありません。

 社会の最小単位で民主的な連帯、民主的共同が実現しなければ、社会全体の民主的な前進もありえないといってもけっして過言ではありません。

 その点では、クルプスカヤのいうような活動家の場合には、やっぱり古い社会からしみついた母斑を背負って生きているのだといえるでしょう。しかし、自分のいちばん身近な部分で古いものに安住していてどうして革新の事業を前進させることができるのか、それは重大な自己矛盾ではないのかと問うてみなければなりません。

 私たちの家庭は文字どおり、たたかいの根拠地です。それは温いやすらぎがあって、しかもはげましもある、そういうものであってほしいというのはだれも願うところでしょう。

 とはいえ、これはけっしてほおっておいてひとりでにそうなるというものではありません。

 それはほんとうに民主的な関係のもとでのお互いの思いやり、お互いの努力によって共同してつくりあげるものなのです。一方が努力して他方がお手伝いするなどというすじあいのものでないことは、はっきりしています。しかし、これはけっしてたやすいことではありません。結婚生活スタートのころは「あばたも笑くぼ」だったのが、だんだん「笑くぼもあばた」となってくる、そしていろんなトラブルもでてくるようになる、これはさけられないことかもしれません。

 問題はこれをどうのりこえていくかです。私はそのためにすくなくとも二つのことが大切だと思います。

 第一に、主観主義はだめだということです。主観主義というのは、物事の客観的な法則やすじ道とは無関係に自分の狭い経験や意見だけで行動することをいいます。それは、家庭のなかでは、夫婦互いに「こうあるべきだ」とか「こうあってほしい」とか、自分の願望をもとに相手をみる、そうするといろんな幻滅がでてきます。両方からでてきます。現実と願望の取りちがえです。そうではなくて、お互いにいまある現実というか、あるがままの事実、実態をみとめてかかる態度、つまり完全主義ではなくて共同の創造をめざして援助しあう態度が重要なのです。

 そういう基本的な前提をおいた上で、なお大事なことといえば、それは相手を一面的に見ないことです。どんな人間でもよい点、よい面もあれば、わるい点、わるい面をもっています。わるい点、わるい面だけの人間なんてあるわけがありません。ですから、できるだけそのよい点よい面を見るようにすることです。そして弱点はこれをあいまいにしろということではなくて、「病いをなおして人を救う」という態度と方針で根気よく批判、援助をおこなっていく、こういうふうにすれば、たとえ一気にはいかなくても、やがてそれをのりこえることができるようになるでしょう。そうして一段高い次元での新しい団結が実現するようになります。

 もう一つの大事なこと、それは相手を固定的に見ないことです。何事によらず、ましてどんな人間でもいつまでも同じなどということはありえないことです。人間はかならず変化、発展する、これは弁証法的唯物論の鉄則です。相手の弱点、これを固定的に見ないこと、援助の結果かならず成長・発展するということを確信する、そういう態度でのぞむことがとても大切だと思います。

 ここにあげた二つのこと、それは単にいま結婚生活している仲間だけの問題ではありません。お互いに愛しあっている恋人どうしの場合にも当然あてはまることです。

 要するに二人の愛は二人の共同で創造していくものだということ、そこに二人だけにわかる創造のよろこびがあるのではないでしょうか。

 それからもう一つ、家庭の建設のなかでの夫たる男性の特別の役割りです。

 現実の社会では、婦人はどうしても育児・家事、その上に職業をもっている場合には、それによる特別の負担など、男性にない困難にたえています。その点でははじめから平等でもなんでもありません。だからレーニンは、婦人の解放というのは、まずそのこまごまとした家事からの解放なんだという意味のことをいったのです。

 その社会的重圧、これとたたかうのは婦人だけでということにはなりません。夫たる男性の側からの積極的な援助と共同、これは当然すぎるほど当然のことです。社会的重圧に対しては共同してあたっていく、これなしにはほんとうに民主的な活力のある家庭の建設は不可能といってよいでしょう。
(有田光雄・有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版社 p230-237)

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◎「社会の最小単位で民主的な連帯、民主的共同が実現しなければ、社会全体の民主的な前進もありえないといってもけっして過言では」と。