学習通信090501
◎労働組合という存在を強烈にアピール……

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5月1日
メーデー(働く人々の祭日)

 メーデーは世界中の働く人々の祭日である。日本で最初のメーデーは、一九二〇(大正九)年五月二日に上野公園で行なわれた。五千人の労働者が手に手に旗やのぼりをもって参加した。戦前のメーデーは警備が厳重で、危険人物とみなされた者は、当日は自宅から外出することさえ禁止された。

 戦争のあいだ中止されていたメーデーは一九四六(昭和二一)年、一一年ぶりに復活した。ラジオは朝から労働歌の歌唱指導をし、雨の中を五〇万の人々が皇居前広場に集まった。一九五二(昭和二七)年のメーデーは血に彩られた。これまでの例を破って会場として皇居前広場の使用が認められなかったことに抗議する人々は、会場の神宮外苑から皇居前広場ヘデモ行進した。武装した警官隊はピストルを発射し、二名を殺し、一千名以上を逮捕・起訴したが、裁判では無罪が確定した。
(永原慶二編著「カレンダー日本史」岩波ジュニア新書 p70)

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いま、
メーデーの歴史から学ぶべきこと
間宮悠紀雄
友愛労働歴史館 解説員

社会運動の視点を忘れてはいけない

 日本で最初のメーデーが行われたのは、1920年(大正9年)。当時の労働組合がおかれていた実情を考えると、その最大の目的は、労働者の団結の力を示し、労働組合を社会に認知させることにあったのではないか。

 第1次世界大戦後の世界不況を背景に労働運動が盛り上がってきていたと同時に、日本ではまだ労働組合の結成(団結権)が認められていなかった。それゆえ、メーデー開催を通して、労働組合という存在を強烈にアピールしようとしたのだろう。また、当時の日本の労働運動は、人間の尊厳、リベラリズム、友愛など、欧米のキリスト教人道主義を基盤とする社会運動の思想に大きな影響を受けていたが、国際労働祭としてのメーデーなら、労働運動の進め方について異なる考えをもつ人たちも一致団結して行動できるという側面もあったのだと思う。

 ひるがえって、現在の日本の労働者、労働組合がおかれた状況はどうだろう。第1回メーデーの司会を務めた、友愛会の鈴木文治会長は「団結の力で陰うつな社会的曇り空を吹き飛ばせ」と呼びかけたが、まさにその言葉が、ストレートに響いてくるような状況ではないだろうか。

 戦後、労働組合の団結権、団体交渉権、団体行動権が認められ、日本の労働運動は着実な歩みを刻んできた。しかしいま、格差社会、ワーキングプアといった言葉が生まれるほど、社会の歪みが深刻化しているにもかかわらず、その状況を打開しようという労働運動は弱々しいものに思える。それは、かつてのメーデーで示された団結の力、社会運動の視点を見失っているからではないか。

 戦後の労働組合は、企業別に結成されていった。その目的は「労働諸条件の維持・向上」にあるが、企業内に労使関係や活動が収斂されてしまっては、悪しき労働組合主義の企業内組合となってしまう。企業を超えた運動理念をもつ企業別労組として、産業別労組に加盟し、ナショナルセンターの活動に参加することで、社会運動の一端を支える。そのことを実感するという意味において、メーデーは今日でも重要な意味をもっているのではないか(談)
(「連合 09年5月号」日本労働組合総連合会 p25)

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メーデー
その闘いの歴史に学ぶ
 中林 賢二郎


●八時間労働の歌●

おれたちは仕事をほっぼりだそうと思う。
おれたちはやっとこさ、生命をつなぐだけの金で働くことにまったくつかれきってしまった。
考える時間なんか一時間もないのだ。
おれたちはお天とうさまの光をあびたい。
おれたちは花の匂いをかぎたい。
神さまもきっとそうしたことをのぞんでいられるはずだ。
だからおれたちは八時間労働がほしいのだ。
おれたちは造船所や大小の工場から、おれたちの仲間をよびあつめよう。
第一の八時間は仕事のために、第二の八時間は休息のために、そして残りの八時間はおれたちの好きなことのために!

 (「八時間労働の歌」R・Oボイヤー、H・Mモーレス著 『アメリカ労働運動の歴史I』岩波書店)


八時間労働日のためのたたかい

 今日、メーデーは、労働者の国際的な祭典の日といわれ、また労働者階級がその威力を国際的にしめす日とされていますが、そのそもそもの起源はどういうところにあったので 国際メーデーのきっかけをつくりだしたのは、アメリカの労働組合が、一日の労働時間を法律で八時間以内と制限することを要求して、一八八六年(明治一九年)の五月一日におこなったゼネストです。

 当時の労働者は、どこの国でも一日に九〜一〇時間ならばいいほうで、たいていは一二〜一四時間もの長時間にわたって働かされていました。だから、アメリカの労働者のあいだでうたわれた「八時間労働の歌」の文句−「時間だけ働き、八時間ねむり、あとの八時間は自由に暮らす」−は──は、すべての労働者の夢でした。

 アメリカの労働者は、すでにこのときまでに、八時間労働日を要求して請願行動を数十年もつづけていましたが、しかし資本家はいっこうに受けつけず、らちがあきません。そこで実力行動で要求をたたかいとろうということになったのです。

 組合がたたかいを呼びかけると、反響は絶大でした。宣伝のためにつくられた「八時間タバコ」、「八時間靴」などが飛ぶように売れ、八時間労働の歌がいたるところでうたわれました。

 そして一八八六年五月一日には、シカゴ、ニューヨーク、ボストンその他の一万一五〇〇以上の工場の労働者約三五万人がストライキに突入し、一八万五〇〇〇人の労働者が、八時間労働日を獲得しましたし、その他二〇万人の労働者が労働時間の短縮をかちとりました。

国際メーデーの起源

 しかし残念なことに、労働者が実力でたたかいとった成果は、このときは長つづきしませんでした。ただちに資本家側が反撃に移り、五月三日には、シカゴのマコーミック・ハーヴェスターエ場で警官が発砲してスト労働者を四人も殺し、さらに翌日シカゴのヘイ・マーケッ卜広場で開かれた労働者の抗議集会にたいしては、なにものかが(おそらくは警察のまわしものが)爆弾を投げたのを合図に、弾圧がおこなわれ、アルバートー・パーソンズをはじめとする八名の労働組合指導者が逮捕され、処刑されました。

 そして、労働者が弾圧にひるむと、ゼネストでかちとられた八時間労働日の約束はこのあとつぎつぎに反古にされていきました。

 そこで一八八八年にアメリカの労働組合は、たたかいの陣列をたてなおし、一八九〇年の五月一日にふたたびゼネストでたたかうことをきめました。そしてこんどは、各国の労働運動にたいして同じ日に同じ要求でたたかうように積極的に呼びかけることにしました。

 折りもおり、ヨーロッパ大陸では、フリードリヒ・エンゲルスの努力がみのって、フランス革命の一〇〇周年記念日にあたる一八八九年の七月一四日に、パリに各国の社会主義運動と労働組合運動の代表者たちを集めて国際大会が開かれ、ここで第ニインタナショナルが結成されました。アメリカの労働組合の代表は大会に参加しませんでしたが、その呼びかけはフランス代表によって大会に報告されました。そして討議のすえ、大会は次のように決議しました。

 「国際的な一大デモンストレーションを組織して、法律で労働日を八時間に短縮するよう、すべての国、すべての都市の労働者が一定の日に国家当局に対して要求するようにする」

 「この種のデモを一八九〇年五月一日におこなうことをすでにアメリカ労働総同盟がきめているので、この日を国際的デモンストレーションの日とする」

 「各国の労働者は、各国の条件に応じて、このデモを組織しなければならない」

 さて、一八九〇年の五月一日になると、アメリカでもイギリスでもフランスでも、またドイツ、オランダ、オーストリア、イタリア、スイスでも、またオーストラリアやペルーでも、幾十万労働者が、この決議にしたがってストライキをして、集会とデモ行進に参加しました。

国際メーデーの発展

 これが国際的なメーデーの最初のものでした。世界の労働者はその思想ではさまざまでありながら、この日はじめて一つの旗のもとに、一つの共通の要求をかかげて、共同のたたかいに立ちあがったのです。そしてこの国際的共同闘争は、このあと毎年つづけられることになり、五月一日は、まさしく全世界の労働者の国際的な示威の日、国際的な労働者の祭典の日になったのです。

 しかも、いったんこうした国際的共同闘争の道がきりひらかれると、メーデーのたたかいは、たんに八時間労働日というような労働条件の改善のための経済闘争にとどまることなく、これに政治闘争が結合されるようになりました。

 第ニインタナショナルでも、翌一八九一年の第二回国際メーデーにさいしては、八時間労働日の要求に、戦争反対・平和擁護の要求を結合してたたかうことをきめました。

わが国メーデーの最初の試み

 こうしてヨーロッパとアメリカの労働者を中心に最初の国際メーデーがたたかわれた時期には、まだわが国には労働組合も社会主義団体もありませんでした。したがって、最初からわが国の労働者が国際労働者階級と歩調をあわせてその第一歩をふみだすわけにはいきませんでした。

 しかし一八九七年(明治三〇年)に「労働組合期成会」のもとにわが国最初の近代的労働組合組織がつくられると、ただちにメーデー行事が運動のなかにもちこまれました。

 一八九八年(明治三一年)に労働組合期成会の指導者たちが、弾圧されるのを警戒して四月三日に「労働者大運動会」の開催を計画したのがそれで、メーデーと謳ってはいませんでしたが、あきらかに国際メーデーに歩調をあわせようとしたものでした。

 そしてこれが当局によって禁止されると、四月一〇日に期成会事務所から上野まで労働者のデモ行進を組織したのです。

 ついで日露戦争下の一九〇五年(明治三八年)には、東京の有楽町にあった「平民社」の二階で、五月一日に、社会主義者たちによって「メーデー茶話会」が開かれました。

 「平民社」に結集した社会主義者たちは、日露戦争に反対して、きびしい弾圧にも屈することなく、「平民」新聞によって反戦の論陣を張っていました。そればかりか、その前年には、ロシアの社会民主労働党にたいして連帯を呼びかけていましたし、さらにそのうちの一人であった片山潜は、アメリカからオランダのアムステルダムに渡って、ここで開かれた第ニインタナショナルの大会に出席して、その席上で各国社会主義運動の代表者たちに反戦のたたかいを訴えていました。

 平民社の人びとは、このとき屋外で公然と大衆集会を開くことはできませんでしたが、とにかくわが国ではじめて五月一日に、はっきりメーデーと名のる会を開いて、国際労働者階級の運動に仲間入りしたのです。

わが国の第一回メーデー

 わが国で労働組合が主催し、メーデーの行事がはじめて大衆的に、しかも屋外で堂々とひらかれたのは、それからさらに一五年たったのちの、一九二〇年(大正九年)五月二日のことでした(第一回メーデー)。

 この時期になると、明治時代とはちがって、わが国の資本主義も大きく発展して、労働者階級もその数を増し、労働組合運動も、着実な発展をとげていました。そこで大日本労働総同盟友愛会、信友会、正進会など一五の労働組合があつまって実行委員会をつくり、東京の上野公園で五〇〇〇人の労働者をあつめてメーデー集会を開いたのち、神田錦町までデモ行進をしました。

 集会では、労働組合死刑法といわれた弾圧法規である治安警察法の撤廃、失業防止、最低賃金法の制定の三つの要求が決議され、さらに緊急動議として、八時間労働制、シベリア即時撤兵、公費教育の実現の三つの要求が提出されて、いずれも可決されました。

 八時間労働制の要求は当然のことですが、わが国の軍国主義が、一九一七年に勝利したロシアの社会主義革命を圧殺しようとして、シベリアに軍隊を派遣していたのにたいして、公然と反対を決議したことは、わが国の労働者階級の国際主義の伝統の強さをしめずものとして、注目しなければなりません。

メーデーの発展と労働歌

 翌一九二一年からは、メーデーは、毎年東京だけでなく、大阪、神戸、横浜、足尾などの地方でもおこなわれるようになり、これに参加する労働者の数も、年を追ってふえていきました。しかし労働者階級の力の増大を恐れた支配層は、これを黙って見すごしてはいませんでした。第一回メーデーにさいして、すでに官憲はデモ行進にたいして弾圧を加え、数名の労働者を逮捕しましたが、第二回メーデー以後、こうした弾圧は毎回、それもますます狂暴なかたちでおこなわれるようになりました。

 したがって戦前は、メーデーに参加する労働者は、逮捕を覚悟のうえで、ゲートルを巻き、腰にべんとうと水筒と手ぬぐいをさげてでかけるというのが、常識になっていました。

 行進にさいしては、今日と同じように、労働歌をうたいましたが、そのうちには、今日までうたいつがれているものがたくさんあります。

 「きけ万国の労働者」という素朴で勇壮な感じの歌は、第三回メーデーにさいして「アムール河の流血や」という一高の寮歌の曲にあわせて作詞されたものです。

 また、今日もよくうたわれるものに「赤旗の歌」がありますが、これは、アメリカのIWW(世界産業労働者同盟)という戦闘的な組合のオルグたちが、歌で労働者の組織化をすすめたさいにつくられたものです。作詞者は、わが国に映画で紹介されたショー・ヒルの仲間の一人であったジェームズ・コネルです。

 この歌の第二節に「フランス人は愛す旗のひかり、ドイツ人はその歌うたう。モスコーがらんに歌ひびき、シカゴに歌声高し」とあります。それはちょうど一八八九年七月の第ニインタナショナル創立大会が国際メーデーについて決定した直後の八月に、ロンドン港湾労働者が大ストライキに立ちあがり、それにたいして各国労働者が連帯のための集会やデモをおこなった、その情景をうたっているのです。

 この歌が、わが国に最初に紹介されたときには、どのような曲にあわせてうたうのかわかりませんでしたが、一九一九年渡英した若かりし頃の野坂参三氏が、曲のついた歌集を手にいれ、これでドイツ民謡の「樅の木」のふしにあわせてうたうのだということがわかり、この曲にあわせて故赤松克麿氏が七五調に翻訳したものが、その後一般にひろがっていったのです。

メーデー禁止と戦争

 わが国では、一九二〇年のメーデーを第一回として、今年(一九八五年)のメーデーは第五六回メーデーにあたります。

 一九二〇年からかぞえて今年は六六年目なのに、なぜ第五六回なのかというと、それは、戦時下、軍部ファシズムが強化されるなかで、一九三六年〜一九四五年の一〇年間にわたってメーデーが政府当局によって禁止されていたからです。

 一九三六年の二・二六事件後は、東京に戒厳令がしかれ、メーデーは、東京だけでなく、全国的にも禁止されました。その後、一部の左翼組合はメーデーを実施しようとしましたが弾圧されました。右翼幹部はすでに一九三三年から「メーデー粉砕」をかかげて「愛国労働祭」をひらくようになっていました。

 このようにメーデー変質のたくらみや禁止が全面侵略戦争へと結びついていった歴史の教訓を私たちは、いましっかり思いおこすことが大切です。

戦後のメーデー

 メーデーの集会と行進が、全国の主要都市で、数干、数万から数十万という真に大衆的な規模でおこなわれるようになったのは、いうまでもなく、軍国主義の支配がうちたおされた第二次大戦後のことです。

 一九四六年五月一日、第一七回復活メーデーには、全国で二百数十万人が集まりました。東京では、皇居前広場を「人民広場」と呼んで五〇万人が集まり、平和と解放をよろこび、「働けるだけ食わせろ」「民主人民政府樹立」をさけんで集会とデモをおこないました。

 さらに一九日には、メーデー実行委員会の申し合わせで、二五万人を集めて「食糧メーデー」がひらかれ、民主戦線即時結成の動議を採択し、食糧危機突破を政府に要求しました。この日には、「詔書(ヒロヒト曰く)、国体はゴヂ(護持)されたぞ、朕はたらふくくっている。なんじ人民飢えて死ね。ギョメイギョジ(天皇の署名)」と書いたプラカードも現われ、当時まだ生きていた不敬罪で起訴されるという事件までおきました。この間幣原内閣が総辞職し、内閣不在の政治的空白が一か月もつづいたのです。

 このように日本の労働者のたたかいは嵐のようにまきおこりましたが、アメリカは、日本を反共の基地にするために、労働運動の弾圧を開始し、やがて一九五〇年朝鮮戦争がはじまり、五一年九月には、日本の対米従属と軍国主義復活への体制がためとしての、サンフランシスコ「平和」条約と日米安保条約が結ばれました。

 こうした情勢のもとでひらかれた第二三回メーデーでは、「血のメーデー事件」がおこり、武装警官のピストルで都職労の高橋正夫が射殺され、梶棒で法政大学の学生、近藤巨士が殺され、千数百名の労働者が重軽傷を負わされました。

安保とその後のメーデー変質のたくらみ

 一九五九年の第三〇回と翌六〇年の第三一回メーデーは、「安保ハンタイ」一色のメーデーでした。全国各地に安保改定阻止の二〇〇〇の共闘組織がつくられ、統一行動は一年半の間に二三回にもおよびました。この国民的なたたかいは、岸内閣を打倒し、アイゼンハワー米大統領の訪日を阻止しました。

 この安保闘争のもりあがりにおどろいた米日独占資本は、労働運動の内部に、新安保条約にもとづく政策遂行を支持し、協力する反共、親米、労資協調主義の潮流づくりに本格的にのりだし、一九六四年五月にはIMF・JCがつくられ、つづいて全労、総同盟、全官公が合同して一一月には全日本労働総同盟(「同盟」)が結成されました。

 この同盟は、一九六三年の全労時代から「メーデー近代化」にとりくみ、この年大阪同盟は「従来のデモをおこなうメーデーには参加しない」と分裂メーデーに踏みこんだのです。

 以来、日本の労働者は、そのときどきの重要な政治課題や生活と権利を守る課題をかかげてメーデーをとりくんできました。しかし、昨年以来、労働戦線の右傾化と結びついて中央メーデーそのものを変質させようとするたくらみが強まっています。

 今年は戦後四〇年の節目の年でもあります。メーデーの変質や禁止が戦争と結びついてきた歴史の教訓に学び、戦後民主主義を守り、核戦争阻止、核兵器全面禁止の課題と結びつけて、万国の労働者と連帯し、メーデーを大きく前進させましょう。(一九八五年三月記)
(「学習の友別冊 メーデー」学習の友社 p20-31)

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◎「メーデーは、労働者の国際的な祭典の日……労働者階級がその威力を国際的にしめす日」と。