学習通信20090512
◎愛用のギターや自転車に囲まれ、少し照れくさそうに……

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 2日亡くなった忌野清志郎さんは日本ロック界で、孤高ともいえる存在感を放ってきた。音楽評論家の渋谷陽一さんは、「清志郎は肉体でロックを発信していた」と振り返る。

音楽評論家
渋谷 陽一

忌野清志郎 孤高のロック
肉体で発したメッセージ

 矛盾した表現のように思われるかもしれないが、清志郎は誰よりロックが思想である事を理解し、同時にロックは芸能でありビジネスである事を知っていた表現者であった。日本のロックが、どこか輸入文化としての脆弱性から抜けきれず、思想としてもビジネスとしても、確かな肉体性を獲得しきれていない中、彼はデビュー当時から確信に満ち、日本の風土に根ざした表現を貫いてきた。

 「ぼくの好きな先生」という初期の代表作がある。タイトル通り、高校時代に彼を担任した美術の先生について歌っているナンバーだ。ストレートに先生に対する好意を表現する歌詞は、驚くほど素直だ。後にも先にも、日本のロックでこれほど教師に対する肯定的な気持ちを歌った曲はないだろう。

 自分の思想貫く

 当時も今も、ロックにとって教師は敵であり、否定の対象である。しかし清志郎はそんな事は気にしないのである。自分がいいと思えば歌うだけだ。そこに迷いはない。何故、それが可能であったかといえば、彼には肉体化されたロックの思想があり、自分の肉体が自然に発するビートや言葉が、常に正しくロックである自信があったからだ。

 「ぼくの好きな先生」は、一貫して清志郎の代表作として歌われ続け、時代が経過しても古臭くなるどころか、むしろ輝きを増していった。彼が貫いた強い社会的メッセージも、言うまでもなく肉体化されたロックの思想に基づくものだ。「君が代」を歌ったのも、反戦反核を歌ったのも、それが彼にとってロックとしてのエモーションを喚起するテーマだったからだ。

 彼には政治的な党派性はない。むしろそういうものから距離を置こうとしていた。しかし、自分のロックとしての思想性は一歩も譲らなかった。メジャー・レコード会社との契約がなくなっても、曲が放送されなくなっても、彼は闘い続けたのである。多くの人がイメージする清志郎は、派手な衣装とバリバリに決めたメイクで歌う姿だろう。それは闘病生活を経て、五十代後半に突入した時に行われた復活祭でも変わらなかった。見せ物としてのロック、芸能としてのロックの素晴らしさを誰よりも知る清志郎だからこそ貫かれたスタイルだ。

仕事に注文なし

 僕は彼と雑誌、テレビ、ラジオなど、いろいろなメディアで仕事をしたが、彼から内容についての注文を受けた事がほとんどない。どんな条件でも、それは仕事なのだからという姿勢で彼はとり組みベストを尽くした。そこでアーティスト風を吹かせる事はなかった。誰より闘う姿勢を貫いた清志郎は、誰より柔軟な姿勢を持つロック・エンターティナーだった。そして。そんなアーティストは彼以外ほとんど存在しなかった。

 インディーズ時代のアルバム「夏の十宇架」に誰も知らない≠ニいう曲がある。「僕の作る歌を誰も知らない誰も知らない僕の歌う歌を誰も知らないでもそれはいい事なのかもしれない 僕の歌には力がありすぎるから」という歌詞の曲だ。

 レコード・リリースに困難があり、その時の心情が強く反映されているのかもしれないが、この孤立感はきっと彼のアーティスト人生を支配し続けた感情だろう。また矛盾した表現かもしれないが、だからこそ清志郎の歌は風化しないのである。僕らはきっと、このたった一人であった清志郎を、いつかたった一人にしない為に、これからも聞き続けるのだ。
(「日経 夕刊」20090512)

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まど
「キヨシロウに感謝!」

 「彼」に最後のお別れを言いたくて、東京・港区の青山葬儀場へと連なる弔問の列に加わりました。自分と同じ「アラフォー」世代を中心に、子連れ、老夫婦、高校生グループと、「彼」を慕う層の広さに改めて驚かされました。

 〇…「彼」を初めて知ったのは一九八〇年、高校一年生のとき。ロックバンド「RCサクセション」を率いた「彼」のド派手な衣装とメーク、ミックージャガー顔負けのパフォーマンスは衝撃的でした。「愛しあってるかい!」の問いに、「イェー!」とこぶしを突き上げたライブのそう快感は、記憶に鮮やかです。まさに、青春は「彼」の歌とともにありました。

 〇…多少は脱線しても認められた当時の自由な学園の空気、若者がごく普通に抱く権力者への反発を、「彼」は見事にすくい取りました。しかし、真骨頂はそれから。日本政府がアメリカヘの戦争協力と改憲の動きを加速させる中、「メジャーなミュージシャン」にあって「反戦・平和」を声高に歌い続けました。しかも、カッコよく。

 〇…「彼」の祭壇にたどりついたのは、五時間後。途中であきらめて帰る人はいませんでした。この人波こそ「彼」の偉大さを証明するものだという誇りを、みんなが共有していたからでしょう。愛用のギターや自転車に囲まれ、少し照れくさそうに笑う「彼」と向き合うと、やっぱりこんな言葉しか出てきませんでした。「ありがとう、キヨシロウー」(研)
(「赤旗」20090512)

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◎「忌野清志郎」と。