学習通信090513
◎ウイルス……

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《潮流》

国内で初めて、新型インフルエンザの感染者がみつかりました。軽症ですんでほしい

▼「インフルエンザ」はイタリア語です。英語のインフルエンス(影響)にあたります。英語の辞書を引くと、もともとの意味を解説しています。なんでも、星占いにちなむ言葉だったらしい。星の霊が人の心に流れ込んで起こる力をいいました。インフルエンザの病名をつけたのも、星占い師のようです

▼ヨーロッパでは十九世紀の半ばごろまで、伝染病はよどんだり汚れたりした空気のせいで発生するという説が有力でした。その昔、インフルエンザも天体の運行がもたらす空気や気候の変化の影響で起こる、と考えられていたのです

▼しかし、さまざまな病に苦しんできた庶民は、人と人との接触で伝染病が広がると知りました。十九世紀、パスツールやコッホの研究で、細菌が伝染病の原因だと分かります。接触説が裏付けられました。十九世紀の末には、ウイルスの存在が確かめられました

▼地球上でもっとも小さな生命体とされるウイルス。インフルエンザの病原体もウイルスだと分かったのは一九三三年ですから、七十六年前です。しかし研究者は、インフルエンザウイルスのしくみを解き明かし切っていません

▼もっとも、すでにつかんでいる弱みもあります。たとえば、インフルエンザウイルスの膜はほとんど脂質でできているのだとか。つまり、せっけんで洗うと壊れ、ウイルスは活力を失います。手洗い励行を、軽く考えてはいけないようです。
(「赤旗」20090510)

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ウィルスは、最も複雑な無生物であるか、あるいは最も単純な生物であるかのいずれかである。どちらであるかということは、ウィルスが「生きている」と思うかどうかによっている。
 ウィルスはRNAもしくはDNAの核のまわりにコートタンパク質(ウィルスの殻を構成するタンパク質)が取り囲んだ形となっている。ウィルスは細胞がなくても生き延びることができるが、細胞がないと繁殖することができない。

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ウィルスは細胞の合成機構を使って繁殖する。ウィルスが細胞の表面に近づくと、細胞はウィルスのコートタンパク質を認識して、そのウィルスを飲み込む。ウィルスが細胞の中に入るとタンパク質の外皮は溶けてしまい、核酸が放出され、細胞の中で自由に動くようになる。細胞の正常な化学反応のいくつかが、ウィルスのために転用され、ウィルスのRNAやDNAがコードするタンパク質を作るようになる。
 その結果、細胞の正常な過程がウィルスの核酸によって妨害され、細胞の機能に必要な多くのタンパク質の生産が止まってしまう。細胞の装置によって、外来のウィルスの核酸がたくさん複製されるばかりではなく、ウィルスのためのコートタンパク質も作られる。そして細胞が多くのウィルスを形成すると、細胞は破裂してしまい、放出されたウィルスはまた他の細胞を次々と感染させていく。

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 残された謎
 ウィルスはどこから来たのだろうか? ウィルスはふつうの方法では繁殖しないから、それらがどのようにしてはじまつたのかということを知るのは難しい。ある理論によれば、それらは長い期間寄生したために繁殖能力を失った寄生生物である。
 実際、進化の過程で能力を失うにとはふつうに起にるので、この考え方はそう奇妙なものではない。たとえば、人間はビタミンCを合成する能力を失っている。多くの他の哺乳動物が今でもビタミンCを合成できるのに、人間は環境からそれを取り込まなければならないのである。

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ウィルスは生物の中で最も小さいものである。インフルエンザウィルスのような典型的なウィルスは、直径が原子数にして一〇〇〇程度である。これは細胞と比較すると、一〇〇分の一から一〇〇〇分の一程度しかない。大きさが小さいので、容易に一つの宿主から別の宿主へと移れるのかもしれない(小さいものをろ過することは難しい)。
 一般には細胞のほうがウィルスより大きいが、細胞の大きさの分布が非常に幅広いので、実際のところ細胞とウィルスの大きさには重なりがある。最も大きなウィルスは最も小さな細胞よりも大きいのである。

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ウィルスは抗生物質によって殺すことができない。抗生物質は、細胞によって取り込まれ、その特定の細胞を殺すことのできる化学物質である。抗生物質はたいていは正常な細胞の化学反応における決定的なステップを抑制することによって機能する。ウィルスは細胞ではないので、この攻撃方法がうまく働かないのである。そのために、肺炎(これはバクテリアによって起こる)を治すのと同じ方法、つまり薬の錠剤を飲んで風邪(これはウィルスによって起こる)を治すことができない。

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 残された謎
 なぜウィルスには非常に特異性があるのだろうか? 各ウィルスはただ一つの種類の細胞にだけ侵入することができるようである。そしてウィルスの病気は、植物界と動物界のある一部にだけ起こるようである。顕花植物には多くのウィルス病があるが、常緑樹(裸子植物)にはウィルス病が非常に少ない。また、脊椎動物は多くのウィルス病に罹るが、節足動物のような他の動物はあまりウィルスに罹らない。

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レトロウィルスはA─DSやある種の人間のガンの原因となっている。レトロウィルスはRNAのみを持ち、それが働くしくみは以下のとおりである。
 ウィルスの持つ酵素の働きによって、ウィルスのRNAはDNAに逆転写され、細胞の核の中に取り込まれる。このDNAが、今度は多くのウィルスRNAと酵素を作るための遺伝暗号となって、新しいウィルスを作り、結局はその細胞(そしてその生物自体)を殺してしまうのである。
(ジェームス・トレフィル著「科学1001の常識」BLUE BACKS p181-184)

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万物が進化する

 今日の自然科学はさらに視野をひろげて、銀河系や宇宙の進化の歴史にも挑戦していますが、そのなかで注目されるのは、私たちの身休をはじめあらゆる物体を形づくつている元素も、宇宙の発展のいろいろな段階に生みだされてきた歴史的な産物であることが、明らかになったことです。それによると、元素のなかでも、もつとも早い時期から存在してきたのは水素とヘリウムで、重い原子核をもった元素ほど、よりあとで生まれたとのことです。

現代の自然科学は、「自然に歴史はない」どころか、「自然のなかに歴史の産物でないものはなに一つない」といえるところまで、自然の雄大な歴史の解明に、あらゆる分野と角度からせまりつつある
のです。

 「固定した境界線はない」というのが、弁証法の第三の見方でしたが、このことも、自然科学のあらゆる分野で無数の確証をえてきています。

 たとえば、インフルエンザが流行するたびに問題となるウイルスという存在があります。ウイルスが発見されたのは一八九八年のことですが、生物か無生物かが論争の対象となりました。というのは、ウイルスは、他の生物の体内に入ると、どんどん増殖するなど、生物と同じような活動をしますが、生物の体外では、結晶になりうることが発見されたからです。しかし、この論争はいくらやっても答えは出ない論争でした。

ウイルスとは、実は、核蛋白質とよばれる一つの巨大な分子で、条件に応じて生物的なはたらきもすれば、結晶にもなる──生物と無生物との間に「固定した境界線」のないことを、いわば体現している存在だったからです。

 光は粒子か波動かという問題も、ニュートン以来、物理学者のあいだで二百年以上も論争されてきましたが、現代の物理学は、光だけでなく、電子など物質のあらゆる構成要素が、粒子と波動の二つの性質を内包しており、条件におうじてそれぞれの現れ方をするのだということを、つきとめました。

 放射能の発見によって、原子ももはや不動の固定したものではなくなりました。それどころか、原子から原子核へ、さらにその内部へと突きすすんだ物理学は、いまのところあらゆる物質の構成単位とされている素粒子──陽子、中性子、電子、中間子、光子など──が、相互の転化を不断におこなっている、きわめて躍動的な存在であることを明らかにしました。

 こういう例は、あげてゆけばきりがありません。現代の科学が、自然の奥深くすすめばすすむほど、「固定した境界線」は次から次へと消え去ってゆくのです。
(不破哲三著「社会主義入門」新日本出版社 p77-79)

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1886年版の序文

──以上略

 ひょっとするとしかし、理論的自然科学の進歩によって、私の仕事は、大部分もしくはまったく不要になってしまうかもしれない。

と言うのも、大量に積み重ねられていくただ経験的研究方法だけを使って行なわれた諸発見、ただこれを整理する必要だけからも理論的自然科学に迫られている革命が、自然界の出来事の弁証法的性格というものをどれほど頑強に抵抗する経験万能論者にもますます意識させずにはおかないほど、強力なものだからである。

これまで認められていた硬直した諸対立、くっきりした踏み越えることのできないもろもろの境界線、これがますます消えていく。

最後の「純正」気体まで液化されてしまってからというもの、物体を液態また気態と区別のつかない状態に置くことができるということが立証されてからというもの、もろもろの集合状態は、それまでの絶対的性格をあとかたもなく失ってしまった。

〈完全気体では、個々の気体分子の運動速度の二乗が、温度が同一であれば、分子量に逆比例する〉、という運動学的気体理論の定理によって、熱も、じかにそれとして測ることのできる運動諸形態の仲間にまっすぐに加わった。

つい一〇年ほど前までは、新しく発見された運動の大基本法則は、ただのエネルギー保存の法則であり〈運動は消滅させることも創造することもできない〉ということのただの表現である、とつかまれ、したがってただその量的側面だけからつかまれていたのであるが、この狭い消極的な表現は、エネルギーの転換という積極的表現のためにますます押しのけられている。

この表現においてはじめて、過程の質的内容に正当な地位が認められ、世界の外にいる造物主という考えが最終的にぬぐいさられているのである。

運動(いわゆるエネルギー) の量が──運動エネルギー(いわゆる力学的な力)から電気や熱や位置のポテンシャル・エネルギーなどなどに転換し、また、この逆の転換が行なわれても──変わらない、ということは、いまではもうこと新しく説くまでもない。

このことは、この転換過程そのもの──自然認識の全体がそれの認識のうちに総括される、この大きな基本過程──にかんするいまでははるかに内容豊かになった研究の、ひとたびかちとられた基礎として使われている。

そして、生物学の研究が進化論の光に照らされて行なわれるようになってからは、生物界では、分類上の硬直した境界線がつぎつぎに消滅した。

ほとんど分類できない中間項が日ごとにふえ、研究が正確になってくるにつれて生物たちは一つの綱(こう)から別の綱へ追いやられるようになり、ほとんど信仰箇条になっていた区別の目印は、その無条件の妥当性を失っていく。

いまでは卵を産む哺乳動物が識られており、また、もし報告に間違いがないとすれば、四つ脚で歩く鳥もいる。

もう何年も前にフィルヒョーは、細胞が発見された結果として、仕方なく動物個体の一体性を自然科学的にまた弁証法的にというよりは進歩党的にばらばらにして細胞国家の連邦としたが、動物の(したがってまた人間の)個体性という概念は、アメーバふうに高等動物の体内を這い回っている白血球細胞が発見されたために、さらにいっそう込み入ったものになっている。

しかし、まさに和解も解決もできないと考えられている右のような両極対立こそ、無理に固定された境界線と綱の区別とこそ、現代の理論的自然科学にその狭い形而上学的性格を与えたものなのである。

〈こうした対立と区別とは、なるほど自然のなかに現われはするけれども、ただ相対的妥当性しかもっていない〉、という認識、〈そうした対立と区別とがもっていると考えられたあの硬直性と絶対的妥当性とは、これとは反対に私たちが反省によってはじめて自然のなかへ持ち込んだのだ〉、という認識、──この認識が、自然の弁証法的把握の核心になっているのである。

自然科学上の積み重ねられていく諸事実に迫られてもこういう認識に到達することはできる。

もしこうした事実の弁証法的性格に弁証法的思考の諸法則を意識して立ち向かうなら、この認識にいたることはもっと容易である。

いずれにせよ、自然科学はいま、弁証法による総括をもはやまぬかれないところまできている。

自然科学はしかし、もしつぎのことを忘れないならば、この過程を楽なものにできるであろう、──自分の諸経験を総括した成果がもろもろの概念である、ということ、しかし、概念を運用する技術が、生まれつきそなわっているものでも普通の日常的意識と一緒に与えられているものでもなくて、本当の思考を必要とし、この思考がこれまた経験的自然研究にまさるとも劣らない長い経験的歴史をもっている、ということ、これである。

自然研究は、哲学の二五〇〇年にわたる発展の成果を身につけることを覚えてこそ、一方では、自分の外また頭上に立つどの自然哲学からもまぬかれるであろうし、他方では、イギリス経験論から受け継いだ自分自身の偏狭な思考方法から抜け出すこともできるであろう。
  ロンドン、一八八五年九月二三日
(エンゲルス著「反デューリング論 上」新日本出版社 p24-26)

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◎「ウイルスとは、実は、核蛋白質とよばれる一つの巨大な分子で、条件に応じて生物的なはたらきもすれば、結晶にもなる──生物と無生物との間に「固定した境界線」のないことを、いわば体現している存在」と。