学習通信090515
◎「まつり」と言えば葵祭……
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5月15日
上がも下がも
「まつり」と言えば葵祭をさすほど、京都の葵祭は有名である。この祭に参列する人の冠や車に、葵の葉を飾ったところからいうが、上賀茂神社と下鴨神社の間ではなやかにおこなわれる。さて、同じカモでありながら、いちいち上の場合は「賀茂」の二宇、下の場合は「鴨」の字を当てるとは凝ったものである。これは漢字というものの数が多く、自由にとりかえがきくためだ。
明治の文人徳冨蘆花(とくとみろか)は、兄の蘇峰(そほう)と喧嘩をして以来、兄と同じ苗宇をなのるのがシャクなので「富」という字の上の点をとって「冨」という宇に変えた。江戸末期に起こった邦楽歌謡に「うたざわ」というのがあるが、似たりよったりの「歌沢」と「哥沢」との二派があって、互いにきそいあっていた。吉川英史氏が両派を網羅するレコードを作った時に「うた沢」と銘打ってピンチを切りぬけた。いま、多摩川に沿ったところに、池田弥三郎氏の住む玉川町という町があるが、これはやさしい字をあてようという意欲を示したものであろうか。
(金田一春彦著「ことばの歳時記」新潮文庫 p164)
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葵 祭
葵祭の描写に、王朝絵巻を繰りひろげるという表現がよく使われる。壮麗な前駆・後陣を従えた斎王の行列は、さながら平安の世の幻をうつつにあらわすかのようで、数多い京都の祭儀のなかでも圧巻である。
この葵祭(賀茂の祭)と、九月十五日の石清水祭、三月十三日の奈良春日祭との三つを、「三勅祭」という。民間の祭ではなくて、政治の一環として行なわれた公祭だから、勅使が派遣されたわけだ。
賀茂祭そのものは奈良時代からあったようで、和銅四年(七一一年)、祭儀について山城国司に勅が出ている。平安遷都後大同二年(八〇七年)に勅祭として賀茂祭がはじまり、貞観のころには、いま見るような儀式次第がほぼととのった。古来、四月の第二の酉の日と定まっていたが、明治維新後、五月十五日に改められたものである。
行装の美々しさは平安の当時からすでに観物とされていて、祭の当日は、行列の通る道筋に見物人がひしめき、桟敷なども設けられた。
めいわくな顔は祭で牛ばかり
というわけだが、その混雑のなかから、さまざまな悲喜劇が生まれている。
有名なのは、『源氏物語』に描かれた「車争い」だ。今も昔も変らないのは、行事見物のときの駐車難。このころの乗物は、牛車という図体の大きなもので、上流階級はこれを沿道に駐めて車のなかから見物するわけだから、場所をとることがおびただしい。
祭見物に出かけた六条御息所の車と、葵の上の車とが、今の葵橋の附近と思われるあたりで鉢合せをした。場所争いが起る。どちらも育ちのよい人だから、「あれ押しのけよ」などとはしたないことはいわないが、車にしたがった供の連中が実力行使をした。
がさつなは葵の上の舎人なり
御息所の車は、引き退けられて供車の奥の方へ押しやられ、牛車の娘を支えてあった楊(とう)などはへし折られてしまった。もちろん小説のなかの話だが、紫式部はおそらくそうした光景を何度か実見したことだろう。
平重盛はもう少し紳士的である。車四五輛をそろえて一条大路へ来て見ると、すでに隙もなく物見車が立ちならんでいる。供侍たちがしらべてみると、なかには人の乗っていない空車もならんでいる。ちゃっかり席取りをやっているわけだ。重盛は、空車をひき退けさせて、自分の車を入れたという。
立見の人たちもそれ相応に苦心をした。祭の当日、一条束洞院に早朝から立札が立った。「これは翁の見物する場所なり、人立つべからず」とある。場所が場所だったので、てっきり陽成院が立てさせたのだろうということで、車も人も憚(はば)かってあたりへ近づかないようにした。
ところが、時刻になると、どこからか浅黄の衣を着た老人がひょっこりあらわれ、札の下に立った。涼しい顔をして、まわりの混雑ぶりをながめ、行列が過ぎると立札を抜いて帰つていった。
おさまらないのは、まわりの見物人たちで、「きゃつは陽成院の御名をかたって席をとった」とやかましくいいだした。このことが院の耳に入り、老人は探し出されて呼び出しを受けたが、「たしかに札は立てましたが、御名を騙った覚えはございません。『人ノ多ク候ン中ニテ見候ハバ、踏ミ倒サレテ死二候ナソ』と思って、札を立てただけでございます」といった。
事実そのとおりだったので、翁はゆるされた。この日の行列に、孫がはじめて供奉(ぐぶ)をするので、その晴れ姿をひと目見たい一心から考え出した奇策だったのである。
むかしは、花といえば桜、月といえば仲秋の名月、ただ祭といえばこの葵祭ということになっていた。京都の緑は、この日からますます濃く深くなってゆく。
(奈良本達也編「京都故事物語」河出書房 p271-273)
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◎「葵祭(賀茂の祭)と、九月十五日の石清水祭、三月十三日の奈良春日祭との三つを、「三勅祭」……民間の祭ではなくて、政治の一環として行なわれた公祭だから、勅使が派遣された」と。