学習通信090518
◎古代の公然とした奴隷制との違いは……
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第2回 職場問題学習・交流講座への報告
幹部会委員長 志位 和夫
一、雇用問題をめぐる情勢の特徴と、日本共産党の役割
大企業の職場支配を土台から崩壊させる矛盾が一気に噴出している
──略──
「非正規切り」は、あいつぐ労働法制の規制緩和と正社員の非正規労働者への置き換えの目的が、財界のいうように「労働者のニーズ」とか、「新しい雇用の創出」とか、そういうところにあるのではまったくなく、いつでも「使い捨て自由」の労働者をつくりだし、景気悪化の際には真っ先に切り捨てる「調整弁」をつくるという、財界・大企業の果てしないコストダウン、あくなき利潤追求の産物であることを、最も残酷な形で示すものとなりました。
また、人間をモノのように「使い捨て」にする非正規労働という支配体制が、違法・無法を土台にしていることが、次つぎと明らかになりました。偽装請負、期間制限違反、違法な「クーリング」、短期・細切れ契約の反復、契約中途での解雇など、現代の奴隷労働ともいうべき派遣労働・非正規労働が、恐るべき無法労働とされていること、いま、おこなわれている雇用破壊そのものが無法行為であること、そして、それを主導しているのが、トヨタ、キヤノンをはじめ世界に名だたる大企業であることは、絶対に許すことができない大問題であるといわなければなりません。
──略──
(「赤旗」20090428)
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このことから賃金の最低限とはなにかが分かる。
賃金の最高限は、すでに見たように、ブルジョアもたがいに競争しているのだから、その競争によって決まる。
ブルジョアは商業か工業による以外に、その資本をふやすことはできない。
そしてこの二つの目的のために労働者を必要とする。
彼は利子を稼ぐために資本を投ずるときでも、間接的に労働者を必要としている。
なぜなら、商業や工業がなければ、誰も彼の資本にたいして利子を払わないだろうし、誰も彼の資本を利用することができないからである。
このように、たしかにブルジョアはプロレタリアを必要とするのだが、しかしそれは直接に生活のためではなく──彼は自分の資本を食いつぶすこともできるのだ──金もうけのためであり、それは商品や役畜を必要とするのと同じなのである。
プロレタリアはブルジョアのために商品をつくり、ブルジョアはそれを売ってもうける。
そこでもしこれらの商品への需要が増大し、たがいに競争しあっていた労働者がすべて仕事にありつき、いくらか不足するようになれば、労働者の競争はなくなり、ブルジョアがたがいに競争しはじめる。
労働者をもとめている資本家は、需要が増大したために価格が上昇すれば、利益も大きくなることをよく知っており、利益をすべて失ってしまうよりは、いくらか高い賃金をよろこんで払う。
彼はソーセージを投げてやってハムを手にいれようとし、ハムが手にはいればよろこんで労働者にソーセージを与えるのである。
〔訳注〕英語版では「彼はソーセージを投げてやって」以下は、「彼はチーズをとるためにバターを送り、チーズが手にはいると、よろこんでバターを労働者に残してやる」となっている。
こうして資本家はほかの資本家から労働者を奪いとり、賃金は上昇する。
しかし、それは増大した需要がゆるすだけの上昇にすぎない。
資本家は彼の特別な利益の一部は犠牲にするけれども、通常の、つまり平均的な、利益をいくらか犠牲にしなければならないとなると、平均的な賃金以上には支払わないように用心するであろう。
ここからわれわれは平均賃金を決定することができる。
平均的な状況のもとで、すなわち、労働者も資本家もとくにたがいに競争する理由はなく、ちょうど必要とされているだけの商品をつくるために雇うことのできる労働者とまったく同じだけの労働者がいる場合には、賃金は最低額よりいくらか高くなるであろう。
それが最低額をどのぐらい越えるかは、労働者の平均的な欲求と文明の程度によってきまる。
労働者が週に何回か肉を食べることが習慣となっているなら、資本家は、それだけの栄養がとれる賃金を労働者に支払うことを承諾せざるをえない。
それ以下にはならない。
なぜなら労働者はたがいに競争しているわけではないので、それ以下で満足する理由はないからである。
それ以上ということもない。
なぜなら、資本家もたがいに競争しているわけではないので、特別に優遇して労働者をひきつけようという動機はないからである。
労働者のこのような平均的な欲求と平均的な文明のレベルは、すでに示唆しておいたように、現在のイギリスの複雑化した状況のために、きわめていりくんでおり、労働者階級の多様さに応じて多様なものになっている。
しかし、たいていの工業労働は一定の熟練と規則性を必要とする。
したがって一定の文明度をも必要とするこれらの労働にたいしては、その平均賃金も、労働者がこういう熟練を身につけ、規則的な労働にしたがうようにさせるだけのものでなければならない。
だから工業労働者の賃金は、平均すると、ただの荷物運搬人や日雇労働者などの賃金より高く、ことに農村の労働者の賃金より高いということになる。
それには、もちろん、都市の生活費が高いことも理由の一つとなっている──あるいはドイツ式にいえば、労働者は法的にも事実上も、有産階級、つまりブルジョアジーの奴隷であり、まったく奴隷になりきっていて、商品のように売られ、商品のように価格が上下しているのである。
労働者への需要が増大すれば労働者の価格が上昇する。需要が減少すれば価格も下落する。
需要の減少が大きく、一定数の労働者が売れ残り、「在庫となる」と、労働者は遊んでしまい、遊んでいるだけでは生きてゆけないので餓死する。
というのは、経済学者の言葉でいうなら、労働者を養っていくために用いられる費用は「再生産」されず、無駄な金になるので、そういうところへは誰も資本を投じないからである。
そして、そのかぎりでは、マルサス氏の人口論はまったく正しい。
古代の公然とした奴隷制との違いは、今日の労働者は自由なように見えるということ以外にはまったくない。
なぜなら彼はいっぺんに売られてしまうのではなく、一日ごと、一週ごと、一年ごとに切り売りされるからであり、また、ある所有者が彼を別の所有者へ売るのではなく、彼が自分自身をこのような仕方で売らなければならないからである。
それは彼が個々の有産者の奴隷ではなく、全有産者階級の奴隷であるためである。
労働者にとっては事態は根本的に同じである。
そしてこういう見せかけだけの自由が一面では彼に若千の現実的な自由を与えるに違いないとしても、他面では、誰も彼の生存を保障してくれずブルジョアジーが彼の雇用や生存になんの関心ももたなくなると、彼の主人であるブルジョアジーによって、いつ、つきとばされ、餓死させられるか分からないという不利な面もあるのである──これにたいしてブルジョアジーはこの制度のもとでは古代の奴隷制よりもはるかに有利な立場にある──彼らはいつでも好きなときに従業員を解雇できるし、投下した資本をそのために失うということもない。
そして、アダム・スミスが計算してみせてブルジョアジーになぐさめを与えたように、労働は一般に、奴隷によっておこなわれるより、はるかに安あがりなのである。
「奴隷の消耗は主人の損失となるが、自由な労働者の消耗は労働者自身の損失となるといわれている。しかし後者の消耗も同じように主人の損失となるのである。あらゆる種類の日雇職人や使用人などに支払われる賃金は、そういう人びとにたいする社会の需要の増加、停滞、あるいは減少に応じて、日雇職人や使用人という階層を存続させることのできるものでなければならない。しかし、自由な労働者の消耗もやはり主人の損失になるとしても、一般的にはその損失は奴隷の消耗にくらべて、はるかに少ない。奴隷の消耗を修復したり、補充したりするための基金は、ふつうは、怠慢な主人や不注意な監督者によって管理されている、など」──アダム・スミス『国富論』第一編第八章、マカロックの四巻版、一三三〔一三四〕ページ〔大河内一男監訳『国富論』、中公文庫、I、一三七ページ〕。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p126-129)
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「人間をモノのように「使い捨て」にする非正規労働という支配体制が、違法・無法を土台にし……偽装請負、期間制限違反、違法な「クーリング」、短期・細切れ契約の反復、契約中途での解雇など、現代の奴隷労働ともいうべき派遣労働・非正規労働が、恐るべき無法労働」と。