学習通信090521
◎「鬼が来る。鬼が来る。」……

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《潮流》

「鬼が来る。鬼が来る」。ある少年は、死の床で最期まで叫んでいたお母さんの言葉がいつまでも頭から離れない、と書いています

▼文集『原爆の子』(編・長田新、一九五一年)に載る手記の一つです。作者は小学六年生のとき、お母さんと広島で被爆しました。地獄をみたお母さん。敵への憎しみをかりたてる「鬼畜米英」の言葉が、真実味をおびて迫ってきたのではないでしょうか

▼しかし被爆者たちは、憎しみを乗り越えてゆきます。みずからの運命に、人類の未来を重ねました。「あんなむごいことを二度と繰り返してはならない」「原爆がこの世にあってはいけない」と

▼長年の悲願にこたえ、米政権が動き出しました。広島・長崎に原爆を落とした「道義的責任」を認め、核兵器のない世界をめざすと誓ったオバマ大統領。期待を込めて日本共産党の志位委員長が送った、核廃絶へ率先してとりくむよう求める書簡への、米政府の返事も届きました。「あなたの情熱をうれしく思う」……

▼日本共産党は、米占領軍が禁じていたころから反核運動をおこしてきました。党員だった詩人の峠三吉は、一九五〇年八月六日に弾圧下の広島で開かれた平和集会のもようを作品にしています

▼デパートの窓から無数の反戦ビラが降る。駆け寄ってくる警官に奪われまいと、つかみとる市民たち。「一枚一枚 生きもののように/声のない叫びのように/ひらり ひらりと/まいおちる」(『原爆詩集』)。「あなたの情熱」は、半端ではないのです。
(「赤旗」20090521)

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高等学校三年(当時小学校六年)
徳光幸久

 私の家は大須賀町で白島(地名)に近い川辺にありました。いつもは工場の穴掘りのために向洋(地名)の近くに通っていましたが、突然建物の取りこわしの方にまわされたので、あの日は比治山橋の近くに集合することになっていました。あの日は良く晴れた暑い日でした。先生の「集合」との声で、私達は暑さのためにぐったりとした体をひきずって、だらりだらりと集まりはじめました。その時誰か
「飛行機だ!」
と叫んだ者がいました。上を見ると私達の真上あたりをB29が飛んでいます。

然し警報も解除になっていますので安心していますと、突然目の前がパアッと明るくなり、頭がクラクラッとして、次の瞬間何が何やら分らなくなってしまいました。道路の真中あたりにいると思っていたのに、気がついた時は、道路から少し離れた、さっきまで家のあった所をはっていました。

だんだん頭が静まってくるにしたがって、「自分の目の前に爆弾が落ちたのだ……早く家に帰らなければ……又やられては……」という考えが浮び、急に比治山に向って走り出しました。山の上にあがって広島市を眺めましたが、頭が変になっているのか、何も感じませんでした。唯ここへ来る途中で、家の下敷になって助けを呼んでいる叫び声だけが、耳に残っていました。

また山をおりて無意識に人の後をついて行きました。どこまで行っても倒れた家々。広島駅前では、紫色にふくれ上った死体か道路の真中にころがっている。おばさんが頭から血を出し、子供が真裸で泣いている。家の下敷になって助けを呼んでいる。然し誰もふり向く者がない。自分の身の安全を計るために一心なのだろう。私は恐ろしいとも、悲しいとも思わず、唯家に帰りつこうとあせった。然し自分の家はどうであろうか? 家から火が出ているではないか? けれども急に「火にかこまれては」とおもいなおして、東練兵場に行きました。

そこにいるのは皆茫然とした希望のない顔をした人ばかりでした。私も力がつきてしまい、木の影にねころびました。すると兵隊さんがやって来て、自分の名前を胸につけておくようにとのことでした。友達の水ぶくれになった顔を見ましたが、自分もそのようになったのでしょう。目をあけるのがむつかしくなりました。

それで、もっと楽な場所はないかと思って、ふらふらと歩いていますと、偶然にも母にあいました。母も体を相当ひどくやけどしている様子でした。母と一緒に日のあたらない防空ごうに入りました。そのうちに次第に目の前が暗くなり、ねむったような状態になりました。七日、八日と日はたちましたが、私には唯夜と昼の見分けがつくだけでした。九日の昼頃でした。非常にのどが乾き、水がほしくてたまらないので、あてもなく外へ出ました。

するとどこかで私を呼んでいるような気がしますので、立止ると、駅の人が来て、たんかに乗せてくれました。その時はうれしくて目頭が熱くなりました。すぐ鉄道病院で手当をうけ、顔や手足にほうたいをぐるぐるまいて、おかしなかっこうになりました。ここには医者がないからとのことで安芸郡坂村の病院に鉄道バスで連れていってもらいました。その病院では毎日葬式が三つ四つはありました。なおって出て行く人はあまりなく、だんだん人数がへって行くのは葬式のためでした。私はそれらの人に対して、何も感じませんでした。考える力がなかったからでしょう。

 然し母が急に亡くなった時は、この世が地獄のような感じがしました。泣いても、おこっても、どうにもなりませんでした。その晩は悲しさの余り、頭が変になったような感じがしました。夢の中では母が幾度もあらわれ、私に話しかけます。けれども目がさめると、すぐに現実の世界においやられてしまいました。最後まで母が言った言葉がいつまでも頭から離れないのです。それは

 「鬼が来る。鬼が来る。」

という叫び声でした。ほんとうに広島市は地獄でした。それを思い出して叫んだのだろうと思っています。恐ろしい戦争! なぜあのような爆弾を落したのだろう? それが頭にこびりついて離れません。私の周囲におられた人はみんなあの世に行かれました。今は人間としてではなく、神仏となって、この世を見ておられるでしょう。私の仲のよかった友達、近所の人々、病院の人々、それは永久に頭の中から去らないでしょう。

母のおらない家庭──それは淋しいものでした。食卓に坐っても自分で何事もやらなくてはならない。特に弟などは、となりの子供がうまいものを食べていると、うらやましそうにぼんやり見ているのが、私にはかわいそうでたまりませんでした。何も知らない弟──誰の罪をせおっているのでしょう。
(長田新編「原爆の子」岩波書店 p237-238)

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一九五〇年の八月六日

走りよってくる
走りよってくる
あちらからも こちらからも
腰の拳銃を押えた
警宮が 馳けよってくる

一九五〇年の八月六日
平和式典が禁止され
夜の町角 暁の僑畔に
立哨の警官がうごめいて
今日を迎えた広島の
街の真中 八丁堀交叉点
Fデパートのそのかげ

供養塔に焼跡に
花を供えて来た市民たちの流れが
忽ち渦巻き
汗にひきつった顎紐が
群衆の中になだれこむ、
黒い陣列に割られながら
よろめいて
一斉に見上るデパートの
五階の窓 六階の窓から
ひらひら
ひらひら
夏雲をバックに
蔭になり 陽に光り
無数のビラが舞い
あお向けた顔の上
のばした手のなか
飢えた心の底に
ゆっくりと散りこむ

誰かがひろった、
腕が叩き落した、
手が空中でつかんだ、
眼が読んだ、
労働者、商人、学生、娘
近郷近在の老人、子供
八月六日を命日にもつ全ヒロシマの
市民群衆そして警宮、
押し合い 怒号
とろうとする平和のビラ
奪われまいとする反戦ビラ
鋭いアピール

電車が止る
ゴーストップが崩れる
ジープがころがりこむ
消防自動車のサイレンがはためき
二台 三台 武装警宮隊のトラックがのりつける
私服警官の堵列するなかを
外国の高級車が侵入し
デパートの出入口はけわしい検問所とかわる

だがやっぱりビラがおちる
ゆっくりと ゆっくりと
庇にかかったビラは箒をもった手が現れて
丁寧にはき落し
一枚一枚 生きもののように
声のない叫びのように
ひらり ひらりと
まいおちる

鳩を放ち鐘を鳴らして
市長が平和メッセージを風に流した平和祭は
線香花火のように踏み消され
講演会、
音楽会、
ユネスコ集会、
すべての集りが禁止され
武装と私服の警官に占領されたヒロシマ、

ロケット砲の煤煙が
映画館のスクリーンから立ちのぼり
裏町から 子供もまじえた原爆反対署名の
呼び声が反射する
一九五〇年八月六日の広島の空を
市民の不安に光りを撒き
墓地の沈黙に影を映しながら、
平和を愛するあなたの方へ
平和をねがうわたしの方へ
警官をかけよらせながら、
ビラは降る
ビラはふる
(峠三吉著「原爆詩集」青木文庫 p90-105)

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◎「被爆者たちは、憎しみを乗り越え……みずからの運命に、人類の未来を重ね」と。