学習通信090525
◎違うものとなって、そこから出てくる……
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注目の第二点は、利潤第一主義との闘争のなかでの労働者の変貌です。
マルクスは、『資本論』のなかで、労働時間の短縮をめざすイギリスの労働者階級の闘争を詳しく研究しています。剰余価値への渇望から、労働時間の延長を求める資本の要求は、大工業が成立した十八世紀の最後の三分の一期にいよいよ苛烈になり、各地の工場で一日十五時間をこえる労働が広がるまでになりました。これにたいして労働者の階級的な抵抗は長期にわたって激しく展開され、一八五〇年、ついに労働時間を規制する最初の本格立法である十時間労働法がかちとられました。
マルクスは、これを「半世紀にわたる内乱」の成果と呼ぶとともに、労働者は、最初に生産過程に入ったときとは「違うものとなって、そこから出てきた」と語っています。そして、この闘争に参加したかった労働者たちがこのたたかいを通じて、どんな意識、どんな自覚に到達したのかを、次のような言葉で表現しました。
……
責め苦の蛇(ドイツの革命詩人ハイネの詩からとった言葉──不破)から自分たちの『身を守る』ために、労働者たちは結集し、階級として、一つの国法、一つの強力な社会的バリケードを奪取しなければならない(第一部第三篇第八章)。
そして、労働者が獲得目標とする社会的バリケードの内容を、次のように意義づけました。
労働者たちは、自由意思で資本と契約を結び、労働力を売り渡すが、資本とのその契約は、労働者とその同族を死と奴隷状態におちこませる危険をもっている。それを阻止することに、この社会的バリケードの意義がある。
生産過程の機構による「結合」と闘争を通じての階級的訓練──マルクスは、『資本論』第一部のしめくくりにあたる部分で、これらをまとめる形で、労働者階級そのものの成長・発展の総括的な特徴づけをおこなっています。それは、生産の社会的性格の発展につれて、「貧困、隷属、堕落、搾取の総量」が増大する一方、労働者階級は「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織され」て、その「反抗」も増大する、ということです(第七篇第二十四章)。
私は、『資本論』からマルクスの労働者像を正確に読みとるためには、利潤第一主義の攻撃を正面から受ける被抑圧の姿と同時に、そのなかで訓練と結合と組織の過程を歩む階級的発展の姿をよく見ることが、たいへん重要だと考えています。
(不破哲三著「マルクスは生きている」平凡社 p98-99)
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わが労働者は生産過程にはいったときは違うものとなって、そこから出てくるということをわれわれは認めなければならない。
市場では、彼は、「労働力」商品の所有者として他の商品所有者たちと相対したのであり、商品所有者が商品所有者と相対したのである。
労働者が自分の労働力を資本家に売るときに結んだ契約は、彼が自分自身を自由に処分するものであることを、いわば白い紙に黒い文字で書きとめたようにはっきりと証明した。
取り引きが終わったあとになって、彼は「なんら自由な行為者ではなかった」こと、彼が自分の労働力を自由に売る時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であることは、実際に、彼の吸収者は「一片の筋肉、一本の腱、一滴の血でもなお搾取することができる限り」手放しはしないことが暴露される。
自分たちを悩ます蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは結集し、階級として一つの国法を、資本との自由意志的契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態とにおとしいれることを彼らみずから阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない。
「譲ることのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というつつましい大憲司≠ェ登場する。
それは「労働者が販売する時間がいつ終わり、彼ら自身のものとなる時間がいつ始まるかをついに明瞭にする」。なんとひどく変わったことか!
(マルクス著「資本論 A」新日本新書 p524-525)
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労働組合運動の発展法則
労働組合の右翼的潮流を克服し現状を打開するという場合、われわれは「左翼」日和見主義者のように、現状(あたえられた現実)を否定一色にぬりつぶすことはできない。最近、集積された巨大な資本の社会的力にうちひしがれ、労働者階級の大衆的組織である労働組合運動の現実が過去とでなく未来とむすびっいていることがみえない、小ブルジョア的急進主義集団の動向が内外にわたってめだってきている。
たとえば、アメリカの雑誌『マンスリー・レビュー』のまわりにあつまっている「失望」した小ブルジョア急進主義者の一人、ポール・スウィジーは、マルクスがプロレタリアートこそ資本主義を根絶して「もっと合理的な社会」を建設すべき使命をもつとみていたのは誤っていた、とさえ主張しはじめている。「……資本主義はその直接の犠牲者を無力にしてしまうほど、彼らを毒した。一方、資本主義、後進諸国の広大な人民大衆をめざめさせ、彼らを運動にひきいれた。この後進諸国は、資本主義の非合理性──世界戦争やファシズムとなってあらわれる非合理性──の負担をまぎれもなく、あからさまに負わされている」(『マンスリー・レヴュー』一〇号、一九五八年)、と。
ここでは、一方で帝国主義・独占資本主義諸国の労働組合運動の現実を、一色の右翼日和見主義にぬりつぶし、他方では、毛沢東流に民族解放運動だけが世界史の進歩を代表するものとして評価されている。同様の小ブルジョア的な思い上りは、わが国では流行の反戦青年委員会の「思想」と行動になってあらわれている。「職場に反戦をつくる意義、それは、自分自身の労働と生活が、日本の帝国主義の強化と他民族の抑圧を許している。だから現状での鋭い反省と拒絶を求める青年を組織しなければならない。職場反戦は、組合機関による指令を自主的に受けとめて動員するというものではなく自主的、自立的に職場の生産点における労働者的政治闘争を推進していく。そして生産、輸送、通信など一つひとつの機構を拒否していくたたかいが政治闘争である」(京都反戦、労働者教育協会『学習運動』第一四三号、西村功氏の論文による)。
ここでは、労働者じしんの労働と生活が、日本「帝国主義」の強化と他民族を抑圧しているという奇妙な精神主義的反省が運動の出発点におかれる(労働者階級のおかれている客観的な状態でなくて)。そして、この「反省」を立脚点にして、労働組合運動の現状(あたえられた現実)を無視し、はねあがり小集団の無政府的な「生産点における労働者的政治闘争」(?)を提起し、集積された資本の社会的な力である生産、輸送、通信の機構にたちむかおうというのである。だが、集積された資本の社会的力にたいしては労働者階級の唯一の社会的力として「数の多数」が対峙されるほかはないし、また、労働者階級を中心とする人民大衆の国家権力にたいする闘争をぬきにして、資本主義的生産機構の変革ができるわけはない。この権力問題ぬきという点にかんしては、六〇年代初頭に流行した修正主義者の「構造改革」論と一脈つうずるところがある。ともあれ、彼らの思想と行動は、風車にたちむかうドンーキホーテのようなものである。
われわれは、このような唯物論的な観点および労働組合運動の大衆的性格にまったく無縁な見解にたいして、労働組合運動の歴史的発展を科学的、法則的に明らかにしておく必要がある。マルクス主義的見地からすれば、資本蓄積の展開が労働者階級の形成をすすめるうえでの根源的要因であり、労働者階級を組織化する労働組合の実践も、資本の蓄積法則の作用にたすけられている。
資本主義の歴史は、資本主義社会の二つの基本的階級──ブルジョアジーとプロレタリアートの発生、発展および闘争の歴史である。資本が蓄積されるにつれて、賃労働者軍が不可避的に成長する。
マルクスによれば、
「拡大された規模での再生産すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、つまり一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家、他方の極により多くの賃金労働者を、再生産する……資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである」。(『資本論』第一巻)
このように、資本主義の発展は、賃金労働者のたえまない再生産と増大をもたらさないわけにはいかない。
なぜなら、
「資本は賃労働を前提し、賃労働は資本を前提する。両者はだかいに条件になりあう。両者は相互に生みだしあう。……したがって、資本がふえるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級がふえることである」から。(マルクス『賃労働と資本』)
しかも、資本の蓄積過程は、このように人間的搾取材料として資本主義的生産関係にくみこまれる労働者数をたえず増大させるだけでなく、資本の集積を基礎に剰余価値生産の方法=搾取強化の方法をもたえず発展させ、その社会的結果として、労働者階級の貧困化か不可避的となる。
「資本制生産の内部では、労働の社会的生産力を高めるすべての方法は、すべて個々の労働者を犠牲において行われるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具の部分人間にし、彼を機械の付属物にひきさげ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて、労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は、彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程にあるあいだは狭量陰険きわまる専制支配に彼を服従させ、彼の生活時間を労働時間とし、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げこむということ、これらのことをわれわれは知った。しかし、剰余価値の生産のための方法は、すべて、同時に蓄積の方法であり、蓄積の拡大はすべてまた逆にかの方法の発展のための手段になる。そこで、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払いがどうであろうと、高かろうと低かろうと悪化せざるをえないということになる。」(『資本論』第一巻)
しかし、ますます増大する労働者階級は、このような社会的貧困化にたいして、手をこまねいているような階級ではない。
労働者階級とは、
「大規模な資本主義によってつくりだされ、組織され、教育され、啓蒙され、きたえられた特定の歴史的階級である」(レーニン『偉大な創意』)
したがって、労働者階級は、生産の基本的な担い手である我が身にふりかかる社会的貧困=社会的不公正に抗議し集積された資本の社会的力にたいして組織的に抵抗する条件と素質をあたえられている。
このように、
「ブルジョアジーはなによりもまず、自分自身の墓掘人」としての近代的プロレタリアートをつくりだすのであって、(マルクス『共産党宣言』)
以上のような点にこそ、労働組合運動の発展、労働者党の発展の科学的合法則性が存在する。もっとも、労働組合運動の合法則的発展の過程は、直線的で計画的な発展とは似てもにつかぬものである。各国の資本家階級は、労働組合運動の発展にたいして、暴力的手段をはじめあらゆる手段を総動員して抵抗してきたし、現に抵抗しているからである。したがって、労働組合運動の発展は、具体的には飛躍と停滞、勝利と敗北をつうじてたゆみなく前進するということにならざるをえない。
(戸木田嘉久著「社会変革と労働組合運動 日本の労働組合──その過去・現在・未来」大月書店 p181-185)
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◎「労働者階級そのものの成長・発展の総括的な特徴づけ」と。