学習通信090529
◎自分たちの歴史を自分たちで、意識して……
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資本主義社会では、資本の利潤欲、搾取欲が経済発展の推進力でした。そのために、本来人間社会の発展に役立つべき経済力、生産力の発展が、一方では恐慌や自然破壊を、他方では、生産を担う人たちの労働苦、生活苦を生みだしたことは、第二章で見てきたところです。
未来社会では、その根本が変わってきます。まず、経済活動では、人間の生活を向上させ、その多面的な欲求にこたえることそのものが最大の「規定的目的」「推進的勤機」とされ、生産力の発展や生産規模の拡大も、社会と人間の生活向上の要求にこたえることを目的としておこなわれます。
その目的を実現するやり方についても、そこでは、生産者に無理な労働を強いたり環境を破壊する無理なやり方ではなく、科学・技術の進歩を本当の意味で社会に生かす、生産力の新しい発展のあり方が追求されるでしょう。そこでは、生産力の飛躍的な拡大・発展が、一方では、労働時間のさらなる短縮、他方では自由な時間のさらなる拡大をともないながら実現される、という、人類社会の新しい生活形態が現れることが予想されます。
この展望については、人類社会のこの段階を、生物進化の過程のなかで位置づけたエンゲルスの次の文章が、たいへん面白いと思います。
「人間とともにわれわれは歴史にあゆみいる。動物もまた歴史をもつ。彼らの起源と、現在の状態にまでいたったゆるやかな進化の歴史である。しかし、このような歴史は彼らにとってはつくられたものであり、また彼らがその歴史に関与したとしても、それは彼らの認識も意欲もなしに起こっていることである。これに反して人間は、狭義の動物から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ自分たちの歴史を自分たちで意識してつくりあげるようになり、このような歴史にたいする予期せぬ作用や統御されないもろもろの力の影響はそれだけ少なくなり、歴史の結果は設定された目的にそれだけ正確に対応するようになる。しかし、目的と結果との対応というこの物差しを人間の歴史にあててみるとき、現代の最も発達した諸民族の場合でさえ、そこではまだ予定されていた目標と達成された成果とのあいだにはいつでも巨大な不一致が存在していること、予期せぬ作用が支配的であり、統御されない力のほうが計画的に発動させた力よりもずっと強大であることをわれわれは見出す。……
計画的に生産され分配されるような社会的生産の意識的な組織だけが、人間を社会的関係においても他の動物世界からぬけださせることができるのであって、それは生産一般が人間にたいして、〔生物学的な〕種の関係においてなしとげてきたのと同様である。歴史の発展はこのような組織を日々ますます不可避のものとし、しかもますます可能にもしている。まさにこのような組織から一つの新しい歴史の時代が始まり、そこでは人間自身が、またそれとともに人間の活動の全分野、とりわけ自然科学もまた、従来のいっさいのものをしてその光を失わせるほどの一大躍進をとげることになるであろう」(『自然の弁証法・序論』)。
知的能力をもった生命体・人間の誕生は、地球上での三十数億年の歴史をもつ生物進化の画期的な到達点をなすものですが、その到達点にふさわしい人間社会の本当の歴史がここに始まる──エンゲルスがここで展開した未来社会論は、マルクスの「本史」論の進化論的な解説として読むことができるでしょう。
(不破哲三著「マルクスは生きている」平凡社新書 p166-168)
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人間とともにわれわれは歴史にあゆみいる。
動物もまた歴史をもつ。
その由来と、今日彼らが占めているそれぞれの位置にいたるまでの漸次的な進化との歴史である。
しかしこのような歴史は彼らにとってはつくられたものであって、また彼らがこれに関与するかぎりでは、そのことは彼らのそれと知りそれと意欲することなしに起こっていることなのである。
これに反して人間は、狭義の動物から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ自分たちの歴史を自分たちで、意識してつくりあげるようになり、このような歴史にたいする予期せぬ作用や統御されないもろもろの力の影響はそれだけいっそう少なくなり、歴史の結果はあらかじめ設定された目的にそれだけいっそう正確に対応するようになる。
しかし日的と結果との対応というこのような物指を人間の歴史にあててみるとき、現代の最も発達した諸民族の場合でさえ、そこではまだ予定されていた目標と達成された成果とのあいだにはいつでも巨大な不一致が存在していること、予期せぬ作用が支配的であり、統御されない力のほうが計画的に発動させた力よりもずっと強大であることをわれわれは見いだす。
そしてそのことは、人間の最も本質的な歴史的活動、すなわち人間を動物であることから人間であるというところにまで高めてきたところの、また人間のその他の諸活動の物質的な基礎をなしているところの歴史的活動、人間の生活必需品の生産、つまり今日では社会的生産が、統御されない力から生ずる偶発的影響のあいつぐ交替出現にかえって屈服させられ、意図的は例外的にしか実現されずにその正反対のことのほうがずっと頻繁に実現されているというあいだは、そうなるほかはありえないのである。
最もすすんだ工業国では自然力は制御されて人間に奉仕させられるようになった。
これによってわれわれは生産をかぎりなく倍化し、そのためいまでは一人の子どもでも以前の百人のおとなよりも多くを生産している。
しかもその結果はなにか? つのりゆく過重労働とつのりゆく大衆の貧困、それに一〇年ごとの大恐慌である。
経済学者たちが最高の歴史的な偉業として賛美している自由競争、生存闘争が、動物界では正常な状態であることをダーウィンが立証したとき、彼は自分が書いたものが人間にたいして、またとくに自分の同国人にたいして、どんなに辛辣な諷刺となっているかを知らなかったのであった。
計画的に生産され分配されるような社会的生産の意識的な組織だけが、人間を社会的関係においても他の動物世界からぬけださせることができるのであって、それは生産一般が人間にたいして種属的関係においてこれをなしとげてきたのと同様である。
歴史の発展はこのような組織を日々ますます不可避のものとし、しかも日々ますます可能にもしている。
まさにこのような組織から一つの新しい歴史の時代が始まり、そこでは人間自身が、またそれとともに人間の活動の全分野とりわけ自然科学もまた、従来のいっさいのものをしてその光を失わせるほどの一大躍進をとげることになるであろう。
(エンゲルス「自然の弁証法」ME全集 第20巻 大月書店 p353-354)
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◎「人類社会の新しい生活形態が現れることが予想され」ると。