学習通信090608
◎事実を深く研究する「導きの糸」にせよ……

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『マルクスは生きている』を書いた
日本共産党付属社会科学研究所所長
不破哲三氏に聞く

マルクスの魅力は
思い込みがないこと

 「マルクスと現代」の視点から、マルクスの全体像をとらえようとする新書が好評だ。「マルクス研究」60年余の著者にその理解のエッセンスを聞いた。

 ──「マルクスを、マルクス自身の歴史の中で読む」をモットーにしているようですね。

 マルクスは、その哲学を研究する人はその哲学ばかり、経済学の人は『資本論』ばかりを読む。そうではなくて、マルクスはその全体像と思索の歴史から理解せよといいたい。

 マルクスは、哲学も自分が生きている社会をどう変えるかを念頭に置いて思索を重ねる。その中で経済が大事だとして経済学に進む。それも経済学の学徒になって大学で教えるためではなく、経済学を使って世の中を変えることこそ合理的な方向だとつかみとる。そういう生き方だから、ものの見方、社会のつかみ方、そしてその社会をどう変えるか、彼の生き方全体をとらえないとわからない。

 ──この本は「唯物論の思想家」「資本主義の病理学者」「未来社会の開拓者」の3部構成になっています。あえてマルクスの魅力を一言で。

 思い込みがない人。

 若いころにヘーゲルに著作のすみからすみまでそらんじるぐらい熱中する。しかし、それですべてではなかった。乗り越え方も早いが、ヘーゲル時代に身につけたもののうちいいものはその後に生かす。また、経済学の問題、社会の問題で結論を出しても、足りないと思うと、探求をやめない。歴史の勉強を生涯絶やすことなく、古代から死の直前までを記した膨大なノートを遺した。革命運動についても『資本論』を書いた後の進み方はすごい。『資本論』自体も書き直そうとする。

 マルクスが生きた時代は資本主義も初期の初期で、株式会社ができかけたころ。工場の動力源は蒸気機関であり、電話はない。逆に、手紙が無数に残っているので助かるが。

 いまのような複雑な仕組みがない資本主義だが、その本性は変わらない。マルクスは、そのカナメのなすところをがっちりつかむ。そういう時代だからこそつかみ出した資本主義の本筋だったが、いまになってもその本筋は変わらない。

 ──弁証法によって認識し、考えたわけですね。

 弁証法を一口で言うのはなかなか難しいが、あえて簡単にいえば、物事を、素直にありのままに見る見方、あるがままにとらえる方法。マルクスはその達人だった。

 自然と社会のすべての現象を、絶え間ない変化と運動、なかでも前進的な発展の流れの中でとらえる。そこに無理な理屈を入れて、切り分けしたりしない。

 マルクスは、『資本論』が終わったら弁証法の教科書を書きたいと思ったようだが、かなわなかった。

 ──『資本論』の社会観、歴史観においては、日本についての記述に詳しい。

 もうだいぶ前、「千島の問題」を国会で取り上げた際に、幕末に日本に来た外国人の訪問記を片っ端から読み、幕末史を徹底的に調べた。初代英国公使のラザフォード・オールコックが書いた『大君の都』を読んで気づいた。江戸のことを実に詳細に記述し、しかも『資本論』での著述がすべて出てくる。

 マルクスはある瞬間から日本について詳しくなる。エンゲルスとの手紙で間違った情報を交換し合ったりしていたが、『資本論』の第1巻改訂後に詳しくなる。旅行記を読んだという手紙もある。『大君の都』と『資本論』との関係はだれも気がつかなかったようだが、ほぼ間違いない。

 たとえば『資本論』の中で、ヨーロッパの中世を知りたい人は日本に行ってみよ、ヨーロッパの歴史の本よりもよほどわかると書いてある。そこまで断言できるには相当知らなければできない。『大君の都』に、オールコックがまるで日本はヨーロツパ中世そのもの、農民の搾り方も封建的な家臣の配列の仕方もそうだと書く。

 これは不思議な話だ。ヨーロッパの封建制は、共産制を残していた部族制度のゲルマンとローマ文化が合流してできたもの。日本はそんな歴史なしに源平から南北朝、室町、戦国と、時間はかかっているが、全然違った道をたどっている。しかし、できた江戸の封建制はイギリスの公使からヨーロッパ中世と同じと見えるのだから、社会発展の法則はおもしろい。

消費と生産の矛盾が爆発
形は違うが理屈は同じ

 ──マルクスの病理学者の目で今回の世界的な経済危機を見ると。

 マルクスの恐慌論については7年ほど前に熟考したことがある。いままでマルクスの恐慌論には二つ柱があった。一つは恐慌の可能性の議論、もう一つは、どんな矛盾が恐慌を引き起こすのかという根拠・原因論だ。いままで、矛盾が恐慌という形で爆発するまでなぜ大きくなるのかについては、マルクスの恐慌論としていわれてきたものの中では整理がなかった。そこには「失われたリングがある」と考えて、それを探求しようと研究した。恐慌の運動論だ。

 今回の場合、アメリカのサブプライムローンとは虚構の需要だった。みかけは金融恐慌だが、土台にはその架空の需要がある。アメリカの家計が持っている過剰債務は8兆jだという。それだけのものがバブルの元になっているのだから、過剰生産恐慌になるのは当たり前だ。金融恐慌で広がったが、金融で恐慌現象が起こったわけではない。生産と消費の矛盾が爆発している。自動車が痛めつけられるはずだ。いまの現象を見ると、マルクスが分析した恐慌の現代版。同じようにバブルが起きて、形は違うが理屈は同じだ。

 ──地球温暖化についても、この本で警鐘を鳴らしています。

 マルクスの時代に比べ、エネルギー消費量は人口当たり21倍ある。資本が限りなく生産を増やすことで被害を与えるまでは書いたが、地球を壊すところまでは予想しなかった。生物が地球上で生きていく条件を損ない、それを治す力を持っていないとしたら、そういう体制はほかにどんないいことがあっても成り立ちえない。これは資本主義の限界を、マルクスが予想したよりももっと激しい形で示すものではないか。

 ──「未来社会の開拓者」としての視点では。

 マルクスについては誤解が多い。有名なのは、たとえばマルクスは革命は暴力革命といっているというもの。これはレーニンの整理であり、マルクスは普通選挙権に注目して、それを通じて革命ができるといった最初の革命家だった。

 だからこそ、「マルクスを、マルクス自身の歴史の中で読む」ことをお勧めしたい。 (聞き手・本誌・塚田紀史)
(「週刊東洋経済 20090613」東洋経済新報社)

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執筆を終わって

 第一講のエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』からはじまった『古典への招待』でしたが、第一六講・エンゲルス『エルフルト綱領批判』をもって、いよいよ完結の日を迎えることになりました。この講座は、もともとは、『月刊学習』の連載講座として、二〇〇六年五月号から始めたもので、雑誌連載は今年二〇〇九年の三月号、第三十五回をもって終結しました。この下巻も、上・中巻同様、一冊にまとめるにあたって、論点の再整理や加筆補強の作業を、全体にわたっておこないました。

 この講座では、一八四八年革命にかかわる革命三部作、国際政治論説、マルクス『フランスにおける内乱』など、古典選書ではまだ出ていない著作もふくめて解説をおこないました。これで、『資本論』は別として、マルクス、エンゲルスの主要な著作のすべてを、読者のみなさんをご招待しながら、読みとおしてきたことになります。

 この計画に取り組むにあたって、私の頭のなかには、大きくいって二つの目標、二つの願いがありました。

 一つは、マルクス、エンゲルスの理論を自分のものにしたいと志す方がたに、マルクスの理論の全体をつかんでもらいたい、という願いです。マルクスの理論は、『資本論』で経済学の中身が分かればそれですむ、というものではありません。世界観にかかわる著作を読んで、マルクスの唯物論哲学や史的唯物論がのみこめたから核心がつかめた、と言えるものでもありません。

 マルクス自身、現状を打破する変革の道に立って活動するなかで、唯物論哲学と史的唯物論に到達し、その過程で社会の経済的土台の解明が重要なことを悟って、科学的経済学の構築の課題に取り組み、そうして得たすべてを世界を変革し未来社会を開拓する事業の理論的指針とした革命家でした。よくマルクスの理論について、三つの構成部分ということが言われますが、その理論を学び身につけてゆく立場で整理した時には、世界観、経済学、末来社会論、革命運動論、この四つの部分を意識的に研究の対象にしてゆくことが大事だと、私は考えています。

 今回取り組んだ『古典への招待』──マルクス、エンゲルスの代表作の全体を読む、ということは、マルクスの理論を、その全体を視野にいれて学習する上で、必ず大きな力になるでしょう。

 もう一つの願いは、マルクスをマルクス自身の歴史のなかで読む≠ニいう読み方を、この講座を通じて、多くの方に理解してもらいたい、ということでした。

 マルクスは、理論の上で、現在の到達点に安住することのない人でした。どの分野でも、ある地点に到達すると必ず新しい問題を発見し、その解決を求めて新しい峰をめざす、そういう努力を生涯の最後の日まで続けました。マルクスの理論を体系的に整理するといって、いろいろな時期のいろいろな著作から、あれこれの命題をぬきだし、それを項目的に配列して、理論体系とするといった試みが、内外でやられてきた歴史がありますが、私は、マルクスの思想と理論の発展史をぬきにしたこの種のつかみ方では、マルクスの理論の本当の神髄はつかめないと思っています。

 どの分野の理論にせよ、そこでマルクスが理論を発展させていった歴史そのものをつかむ、こういうとらえ方をしてこそ、マルクスの到達点も的確につかめるし、その理論を現代に発展的に生かす力をきたえることもできる、私は、そういう思いをこめて、マルクスを歴史のなかで読む=Aより正確にいえば、マルクス自身の歴史のなかで読む=Aこのことを、マルクス学習の合言葉にしたのでした。

 マルクス、エンゲルスのすべての主要著作を、執筆と刊行の時間的順序を追って読む、という今回の企画は、まさに、この読み方を実践する絶好の舞台となりました。どんな問題でも、マルクス、エンゲルスの理論と思想の発展の姿が、具体的に目の前にあるのですから。

 いま、十三講の全体を終えて、私が内心の目標としてきたこの二つの願いは、出来不出来はあるにせよ、おおよそは達せられたのではないかと、勝手な自己採点をしているところです。

 執筆の過程をふりかえってみると、これらの主要著作の世界にみなさんをご招待し、執筆と刊行の時間的順序を追ってそれらの解説をおこない、マルクス、エンルスの思想、理論、路線の歴史的発展を探る、という仕事は、私にとっても、はじめての企てで、たいへんな難事業であると同時に、多くの理論的な喜びにも恵まれた楽しい仕事でした。

 取り組んでみると、個別に読んでいたのでは出会えない理論的脈絡を発見したり、層をなして発展する二人の考察のあとに予期しない形で踏み込む機会を得たり、気にかかっていたマルクスとエンゲルスの理論的な食い違いの解決に取り組まざるを得なかったり、私自身、たいへん勉強になった三年間だったと言えると思います。『ドイツ・イデオロギー』や『反デューリング論』などの大作は、ひとりで読んでいるときには、読み方に深い浅いの違いや、軽く読み飛ばしてしまう部分がどうしても出てくるものですが、この『招待』では、できるだけ空白を残さず解説することを方針にして、自分なりに空白を埋めることができたのも、ありがたいことでした。

 最後にもう一言つけくわえれば、理論を、それにそって現実を裁ち切る「型紙」にするのではなく、事実を深く研究する「導きの糸」にせよ、とは古典家の大事な教えの一つです。科学的社会主義の理論を本当の意味で「導きの糸」として活用するためには、古典そのものを深く読み、深くつかむことが、なによりも必要です。その古典学習に、今回の講座『古典への招待』が役立つことを願って、講座終結の筆をおきたいと思います。
 二〇〇九年三月 不破 哲三
(不破哲三著「古典への招待 下」新日本出版社 p360-363)

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◎「マルクスはその全体像と思索の歴史から理解せよ」と。