学習通信090624
◎自分はもうこんなにも進歩したのか……

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 そこで私たちは、私たちの誰でもが普通程度の悟性にまで発達するために出発する最初の地点はいったいどこであるかということがわかる。

あるいは知ることができる。しかし他方の極、つまり悟性の終点を誰が知っていよう?

 人間は誰でもがその天分、趣味、欲求、才能、熱意、そしてこれらを十分に発揮できる機会に応じて、多かれ少なかれ進歩するものである。

人間の到達できる限界、そしてそれ以上は進みえない限界はここだといってのけたほどそれほど大胆だった哲学者を私は知らない。

私たちは、私たちの自然本性が私たちに可能ならしめる進歩の限界というものを知らない。

ある人間と他の人間のあいだに生じうる開きを測定したものは誰一人としていなかった。

こういうことを考えてしかも発憤しない人間、時々得意になって、自分はもうこんなにも進歩したのか、これかさきまだどの位進めるだろうか、自分と同じような人間が自分より先へ進むなどということがあるだろうか、と、ひとりごとすることもないような人間、そんな情けない人間がいるだろうか。

 繰返していうが、人間の教育は誕生とともに始まるのである。話す前に、聞きわける前に、人間はもう学習を始めている。経験は教訓に先立つ。
(ルソー「エミール 上」岩波文庫 p71)

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 第三点は、人間の全面的発達の問題、すなわち、すべての人間にその能力を全面的に発達させる機会と条件を保証することが、社会自身の大目標になる、という点です。

 どんな個人も、自分自身のなかに多くの能力を潜在させています。しかし、これまでの社会では、多くの人びとが、おかれた環境に支配され、その能力を埋もらせたまま、生涯を終わっていました。マルクスは、未来社会を展望するさい、人間の物質的生活を向上させ豊かにすることと同時に、その社会が、すべての人間にその能力と活動の全面的な発達を保証する社会となることを、何よりも重視しました。

 その要となるのが「労働日の短縮」です。労働は人間と社会の生活のために不可欠なものですが、働く能力をもつすべての構成員がこの活動に参加するという方向で社会体制が再編成されれば、一人一人の労働時間は現状よりもずっと短縮できるはずです。そして、今後の生産力の発展とともに、その労働時間をより短縮してゆくことができます。そうなれば、社会のすべての人間が、一方で、労働の責任を果たしながら、また生活を楽しみながら、他方で、自分の肉体的および精神的な素質を開発し存分に発揮する充分な機会をもつようになります。

 マルクスは、「労働日の短縮」こそ「人間の力の発達の根本条件」だといい、ここに、人類の発展のなかで未来社会がもつ、もっとも重要な意義があるとしました(『資本論』第三部第七篇第四十八章)。


*「必然性の国」と「自由の国」

 マルクスは、未来社会における人間の生活と活動時間について「必然性の国」と「自由の国」に分けて論じたことがあります。

 「必然性の国」とは、労働にあてる時間は、社会と自分の生活の維持のために避けることのできない活動だという意味で、「必然性の国」と呼ぶのです。「自由の国」とは、それ以外の何に使ってもよい生活時間のことで、この領域こそ、人間が生活を楽しむ場所になると同時に、自分の能力を発達させる人間的発展の舞台となります。

 マルクスは、未来社会では、労働の性格が変化し、人間が「人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとで」自然に働きかける活動となるが、それでも、物質的生産の活動が「必然性の国」に属することに変わりはない、人間の本当の意味での「自由の国」は「必然性の国」の彼岸にあると、次のような論を展開しました。

 「それでも、これ(物質的生産の領域──不破)はまだ依然として必然性の国である。この国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が──といっても、それはただ、自分の基礎をなす必然性の国の上にのみ開花することができるのであるが──始まる。労働日の短縮が根本条件である」(『資本論』第三部第七篇第四十八章)。

 この文章は、『資本論』第三部の最後の部分ではじめて出てくるのですが、この考察自体は実は、『資本論』の最初の草稿である『五七〜五八年草稿』のなかにまず登場し、次の『六一〜六三年草稿』でもより詳しく展開されてきたものです。そういう経過は、ここに、マルクスの未来社会論のもっとも大事な核心の一つがあることを示していると思います。
(不破哲三著「マルクスは生きている」平凡新書 p163-165)

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「私たちは、私たちの自然本性が私たちに可能ならしめる進歩の限界というものを知らない。」
「どんな個人も、自分自身のなかに多くの能力を潜在させています。しかし、これまでの社会では、多くの人びとが、おかれた環境に支配され、その能力を埋もらせたまま、生涯を終わって」。