2010/10/30


■@GAKUTOMO NO.157
自分が誘った仲間(保育士さん)が労働学校の第1講義を終えて帰ろうとしていたので「どうでしたか?」と声をかけてみました。「むずかしかったです〜〜」とちょっと苦笑しながら返事。

「資本主義」「新自由主義」「唯物論・観念論」「搾取」・・・などなどいろんな初めて見聞きした言葉にその人は、混乱したのではないでしょうか。これから17回みんなで学ぶなかで、そのことの一つひとつがいかに労働者である自分と関係しているか、保育士としても目の前の子どもといかに関係しているかを学んでいってほしいなと思います。

労働者にはどんな“力”があるのか、子どもは“社会的な存在である”ということ、労働組合の必要性、働くことが人間をつくってきた・・・。

自分自身も保育者として、労働者として生きていくときの「人間としての思想の土台」を労働学校の総合コースで学んだと思います。無自覚だった私が少しずつ変わってきたように、新しく学びはじめたその人も、自覚的に生きる労働者として成長していってほしいと思います。そのために自分も学び、働きかけていこうと思います。(麦)10/10/27

◎混乱=c…そうだ。自分の人生観と衝突して、うむうむ〜と。簡単には「わかった」とは言われない。科学的社会主義は、そんな軽薄なものではない。じっくりと学んでこそ自分の人生を新しいステージにおしあげることが出来るのだ。(む)


2010/10/29


■@GAKUTOMO NO.156
137期労働学校が開校し、総合コースは第1課の講義を迎えました。137期総合コースでは28人の仲間がともに学んでいます。自分の生活に照らし合わせて考えてほしい、いろんな人のいろんな意見を聞いて考えてほしい、自分の意見を積極的に話してほしい…と運営委員としては様々な思いを抱えながらのスタートでした。

総合コース第1課『マルクスは何を発見し、変革したか』は、総合コースで学ぶ内容が構造化された講義です。つまり、“科学的社会主義とは”ということを学びます。これから17回の講義で学んでいくことの概要を学ぶわけです。

初めて労働学校に来た受講生はどんな風に感じるんだろう?と、ドキドキワクワクして迎えた当日。講義のあとの分散会では、各班で簡単に自己紹介をして、感想交流をしました。緊張しながら、それぞれ感想を話します。

「これから頑張って学んでいきたい」、「今の労働環境があるのは、これまでに頑張って運動してきた人たちがいるからなんだなぁ」、「講義で話されていたことはどれも当たり前のこと。でも今の社会ではそれが当たり前ではなくなっている。」、「バイトで時給800円で働いているけれど、その中でも搾取されているのかな?」、「自分の仕事とこれからどんな風につながっていくのかな?」など、これから学んでいく中で大切にしていきたいことがたくさん出てきました。

これから2ヶ月間でどれだけ学び深められるか、どれだけ成長できるか、1人1人の挑戦が始まりました。私たち運営委員も受講生と一緒に挑戦する立場として、しっかり学び深めていきたいと思います。みんなで頑張りましょう。(蛍)10/10/27


2010/10/28


■@GAKUTOMO NO.155
今年の5月から毎月1回、学習仲間の保育士仲間で「『エミール』を読む会」をしています。

わたし自身、「エミール」は何度か学んできていますが、読むたびに「こんなこと書いてあったんや〜!!」という発見があり、ドキドキします。それは、古典のすばらしさであり、私の問題意識が変化してきたことの証でしょう。 v(o-_-o)v *゜゜*・。。・☆

その「エミール」で、なんとなくわかるんだけど、すっきりとしない・・・というところがありました。それは、「自然」について。私たちが普段つかう「自然」とは、違うものをさしているように感じます。例えば、「自然を観察するがいい。そして自然が示してくれる道を行くがいい。自然は絶えず子どもに試練をあたえる」「あなたがたは自然を矯正するつもりで自然の仕事をぶちこわしている・・・」(「エミール」岩波文庫42頁)と、自然んとはなんだ!?と思いつつ読んでました。

それが、先日の哲学講座ですっきりしました。カントも「永遠平和のために」で「自然」を言ってます。例えば、自然の「合目的性」、「自然はーー人間のために、地球上のあらゆる地域で、人間がそこで生活できるように配慮した」(「永遠平和のために」岩波文庫62頁)など。しかも、改めて読み直してみると、ルソーもカントも「自然の配慮」と全く同じ言い方をしています。

鰺坂先生は、講義の中で「自然、つまり歴史の必然性」と言っていました。ピカーン!!!カントが言った自然の合目的性は、ヘーゲルが「歴史の必然性」とより唯物論的にし、マルクスの「法則」につながったと。なるほどなるほど!

「良い本のすばらしいところは、それによって同時に、それとは別の、他のところにあるすばらしい宝を発見する感覚と術と確信を会得させてくれることにあります。」(「内田義彦「読書と社会科学」岩波新書 12頁)ホント、古典はすばらしいです。(蓮)2010/10/25


2010/10/27


■@GAKUTOMO NO.154
いつもなら笑顔で子どもに「いってきま〜す」と手を振るお母さん。今日はいつもと様子が違います。目の下にくまをつくり、いまにも倒れそう。「お母さん大丈夫?」と声をかけると深刻そうな顔で「先生、今日昼間に職場に電話かけてくれへん?“子どもが熱出した”って言ってくれたら、それを口実に仕事帰らせてもらえるけど、最初からは休める雰囲気じゃないねん・・・。」とのこと。とてもしんどそうなお母さんを見かねて「わかった。」と了解し昼にお母さんの職場に電話をしました。後日「こないだはありがとう。おかげでその日は午後から帰らせてもらって、寝られたわ。」と少し元気になったお母さんからお礼を言われました。

体がしんどくても休めない雰囲気の職場って異常やな・・・と思っていましたが、保育園でも少なからず「発熱」や「流行性のもの」など明らかに“働けない状況”でない限り無理して仕事に行っていました。腹痛、頭痛などは「しんどい」うちに入りません。生理休暇もなくなり、しんどいときでも薬に頼って乗り切らないといけません。そういう日はなかなか子どもと本気で笑い合えません。

保育園側は「休んだらいい」と言いますが、実際の現場ではそうはいきません。代替の職員体制もなく、(まわりの職員に迷惑かける)という雰囲気が職員間であるのです。休めないのは仕方ない、ちょっとしんどいくらいでは休んだらあかん、そういう思想が我が園もお母さんの職場でも・・・いや社会全体を覆っています。そして、そういうなかで職場の職員数もギリギリの状態で配置されているのです。人件費をいかに下げてもうけを増やすか、どうしたら労働者をめいっぱい働かせることができるか、資本の側は常にそれを考えています。一人の労働者が死のうが替わりはいくらでもいる・・・と。

社会的な規制なしにその資本の横暴は止められなません。労働者が、自分の体を守り、長く働けるようにすることは、その背後にいる子ども、保護者、患者さん、高齢者……社会全体、国民生活全体とも密接にかかわっています。(麦)10/10/25


2010/10/26


■@GAKUTOMO NO.153
 自分がもっと成長すれば、“後輩”たちはもっと成長するのに…自分が運営委員長という役職につき、“後輩”運営委員たちが、自分たちの力でどんどんのびてゆく姿をみて、“あせって”本を読み、学習をしてきた…そんな一側面も自分にはあると思います。そして、今現在、自分が変わらないといけない、それが、“後輩”たちを“苦しめている”と痛感してしまいます。でも、何をすべきかは、自分でもわかっているのに、それができていないということ…。

 運営委員と話をしていると、ふと昔の自分と会話しているかと錯覚することもあります。いろんな壁や悩みにぶつかった時、自分はどう考えていたのか…懐かしさも感じるし、先輩たちは私にどう働きかけてくれたのか、思い出すようにして、話をするときもあります。

 壁や悩みということでなくても、人との接し方や、学習の理解の程度でも、昔の自分がみえる時があります。例えば、相手が話している途中なのに、「ハイハイ」とわかってもいないのに返事が早かったり(今でもあるかも)…はずかしい限りです。

 また学習したこともそれが“言葉だけになっている”…「弁証法」という言葉、意味をしっていても、実際の生き方の中で実践されていなかったら意味がないですよね。

 今でも覚えている15年前、ちょうど京都市長選挙の頃でした。その時、先輩たちが、「自分の成長と、社会の成長(社会発展)を重ね合わせた生き方」みたいな話をされていたことがありました。それがやっと実感としてわかってきたように最近思えます(まだその入口くらいしか理解はできていないかもしれませんが…)。

 そんなこと考えていたら…137期募集最終盤でつくられた“That's 科学的社会主義”パンフの参考にもなった月刊「前衛」8月号の石川康宏さんの論文「学生時代にこそマルクスを」の中に、マルクスが17歳の時に書いた文章を引用して、『「人類の幸福」と「自身の完成」を同じ方向に重ねあわせる人生観』と書かれていて、ビックリ!!

 それは、@GAKUTOMO NO.152の「佐貫論文では、今の社会では『本来青年期において達成される“社会と自分との再統合”(社会や歴史の中で自分の役割を位置づけ、自分の生きる意味を発見していくこと)ができないままになってしまう。』」にもつながってきていて…。このことだけじゃないですが、自分が学習してきたことが、いろんなつながりが、今やっとみえてきているようで…遅いんですが…。

 前出の石川康宏さんの論文「学生時代にこそマルクスを」を読みすすめてみると、「マルクスの学説の構成ですが、大きくわけると、一つは世界観、二つは経済理論、特に資本主義の経済理論、三つは資本主義の次に生まれる未来社会(社会主義・共産主義)論、四つが未来社会にいたる過程についての革命論、社会改革の運動論…これらの四つは機械の部品のようにそれぞれ独立した部分としてあるのではなく、互いに結びつき、浸透しあった全体の要素となっています。他の要素のことは知らないが、ある一つの要素はよく知っているといった、そういう理解を許さない深い相互関係がそこにはあります。マルクスの学説は、それら四つの要素を統一することによって成り立つ特徴をもっています。」とあるんですよ!

 まさしくこれが、今はじまろうとしている、137期労働学校の総合コースそのものです!!

 136期総合コースに学んだ仲間が、最終講義が終わってから、「総合コースっていろんなテーマがあるけれど、実はバラバラの講義なんじゃなく、一つにつながっているんですね」って言っていました。

 総合コースのみなさん、学ぶこと自身もたたかいです!2ヶ月間みんなで頑張りましょう!(吉)10/10/25


2010/10/25


■@GAKUTOMO
UPできる@GAKUTOMOがありませんでした。


2010/10/23


■@GAKUTOMO NO.152
教師を目指して、今年大学に入学した学生と話をしました。

まず話題になったのは、教師という仕事についてです。私は保育士として働いていますが、労働学校に来てから、保育には自分自身が出ていて、それが子どもたちに大きく影響することを今まで以上に感じています。保育の専門知識だけがあればいいのではなく、世界観を学び、確立することの大切さを実感し、今運営委員として学習と実践を積み重ねているところです。教師でもそれは同じです。生徒のことをどう見るか、保護者のことをどう見るか、社会をどう見るか、世界観を学ぶことは不可欠です。

そして、■@GAKUTOMO.No.149とも重なるのですが、佐貫浩さんの論文を読み、学ぶことの本当の意味を確認しました。「競争に勝ち、いい学校に入るため、いい会社に入るために学ぶのはおかしいね」「これから生きていく中で、自分で主体的に学び続けていけるように、その土台を作るのが学校なんじゃないかな?」という話になりました。佐貫論文では、今の社会では『本来青年期において達成される“社会と自分との再統合”(社会や歴史の中で自分の役割を位置づけ、自分の生きる意味を発見していくこと)ができないままになってしまう。』と指摘されています。教師が科学的社会主義を学ぶ必然性を感じます。

でも、教師になったら仕事に追われ、活動したり学習したりする時間が少なくなってしまっているのが現状です。労働学校に来たくても来られない現状もあると聞きます。そこも変えていかなければなりません。現状はおかしいと感じる人、『学校を組み替える』人を増やさないと。労働学校で学ぶ教師の仲間を作っていきたいです。(蛍)10/10/22


■@GAKUTOMO NO.151
「給食室の役割って、生活の一部でしかないしあんまり重要性が感じられない」

「正直、栄養士として働く場は他にもあるし、保育制度が変わることへの危機感も保育士の人ほどないと思う」

これは私の職場の栄養士の言葉です。子どもたちの身体の基礎をつくる保育園の給食室。そこで働く職員がその仕事の重要性をつかめていないことを知り、衝撃を受けました。

「何でやろう??」と考えていると、一つの理由は彼女の口からすぐに出てきました。「子どもとも他の職員とも関わる機会も少ないし」

確かに、自分の仕事が子どもの成長にどんな影響を与えているのか、実感できなければやりがいは持ちにくい。ただ業務を事務的にこなしているだけになるのかも。そうなれば、その環境を守る必要性も感じにくいですよね。

食と関わっての子どもの姿を話すと「へぇ〜、そんなとこにもつながってるんですね〜」とおもしろそうに聞いてくれました。

子どもや職員、保護者とのつながり(社会)の中で自分の仕事の意義が見えてくる。その社会が変わろうとしている今、そのことがすごく重要なんだ、とも感じました。(和) 10/10/20


2010/10/22


■@GAKUTOMO NO.150
 今期の労働学校募集では、ようやく職場で「労働学校募集」での協力者ができてきたり、職場の様子や悩みや愚痴などを話してもらえるようになってきました。そのことを切り口に科学的社会主義を学ぶことの重要性を話せる関係がすこ〜しですが、できてきつつあります。今期はそのことをよく感じています。

それは16回集中セミナー募集と労働学校募集を同時に取り組むなかでの自分の問題意識の高まり(変革の視点で職場と労働者を見るということ)もあると思いますが、現代の資本主義のなかで、矛盾が労働者や子どもや女性や高齢者に大きな影響を与えている現状がありそのことにたいする職場活動家の“何とかしな!”という思いが強くなっているということが大きいと思います。(学習どころじゃない!という職場も大半ですが・・・)

職場に噛み合う対話はまだまだ……なので、そこは「科学的社会主義・手作りパンフ」という協力な武器を活用しながら今期の募集をすすめています・・・。

ところで2カ月サイクルでの労働学校募集で新しい仲間に出会うといつも“自分の知らないところで悩み、孤立感を抱えている労働者は山のようにいるんだな”ということを実感します。労働学校募集をしていなかったら出会えなかった人たち、バラバラだった人たちがつながっていくことのおもしろさ。そして学んで成長した仲間といろんな集会や会議で出会い、笑顔を交わすと(同じ志でがんばろうとしている仲間がいるって嬉しいな〜)と感じる気持ちが大きくなっていきます。そういう感情も学習したことに照らしてみれば“人間らしさの回復”ってことでしょうか。

残りわずかの労働学校募集、ひとりでも多くの労働者に参加してもらえるよう奮闘していきます。(麦)10/10/21


2010/10/21


■@GAKUTOMO NO.149
今、介護保険制度をモデルに、保育制度が大きく変えられようとしています。直接契約になったら、誰が「保育に欠ける児童の保育」に責任を持つのか、応益負担になったら、子どもが基準じゃなくてお金が基準になるんじゃないか、企業が参入したら「塾化」するんじゃないか・・・と懸念しています。

しかし「反対!」だけではなく、「批判と同時に・・・打開の展望を示す」「建設的な提案」(「日本共産党第25回大会 第2回中央委員会総会決定」)が必要だと思います。攻撃に対して「大切にしたい保育」の優位性を、保育士たちが確信を持って実践し、実証しないといけない!・・・(これ、1〜2年前に園長が言ってたなぁ・・・と今さら実感。)立ち上がれ保育労働者!なんです。

「塾化」は、親にとっては一見嬉しい話かもしれません。「小学校へ行ったときに困らないように・・・」というのは、よく聞く話です。そういう親の要求は、どこから生まれてくるのか・・・「生き残る」ために!という親心だと思います。親自身もそうして「生き残って」きたのでしょう。

競争教育の中で「生き残る」ことを求められてきた青年の中にあるのは、「人格の中の・・・意欲と目的の空白」(佐貫 浩)です。つまり、競争がなければ、なんで勉強するのかわからない。テストがなければやる気も出ない。それは、子ども自身にとって(社会にとっても!)有益なことだとは思えません。

「人間をその人のために育てないで、ほかの人間のために育てようとするばあいには、どうなるか。」(岩波文庫「エミール」26頁)「子どものうちに子どもの時期を成熟させるがいい」(同134頁)とルソーは言っています。子どもに必要なのは、早く読み書きすることよりも、「学びたいという気持ち」(同184頁)です。

加えて、「教師は生徒にふさわしく教育されていなければならない」(同47頁)。ドキッ!!頑張ろう。(蓮)2010/10/20

学習通信2005/2/15 を参照して深めよう。


2010/10/20


■@GAKUTOMO NO.148
「大地疾走」(10月2日朝日系)というドキュメンタリー番組で、大沢たかおさんがアフリカ大陸を旅していました。最初に訪れた「ビクトリアの滝」がスゴイ!!何がスゴイって、その大きさもスゴイですが、なにより「滝が動いている」ということ。それは、想像もつかないような年月をかけて動いているのですが、広大な大地には、その証として「ビクトリアの滝」へと続くジグザグの亀裂・・・すべて滝が移動してきた「足跡」だそうです(映像で見てほしい!!)。

砂漠に暮らすゾウの姿も印象的でした。水のない砂漠で、匂いをかぎつけ、鼻で穴を掘って地下水を飲んでいました。エサのない砂漠で、高い木の葉を食べるため、二本足で立ちあがっていました。それは、ここにすむゾウだけに見られる姿だそうです。ゾウも経済的土台(生きていくための客観的条件)によって、生き方が規定されているようです。まず飲み食いしないことには生きていけない。そのために必要な活動です。

人間も経済的土台により規定されていますが、何にもしばられないで「自由に」生きているように見えます。

労働学校を勧めている中で、ある学生が言っていました。「今、将来のこととか考えると不安もあるし、悩みもある、それに加えて『社会のこと』ってなったら頭の中がぐちゃぐちゃになりそう・・・」と。きっと労働学校で学んだら、びっくりするやろうな〜と思いました。自分の生活や学業、将来のことも含めてみんな、まるごと「社会」の中にあるんやっていうことの実感・・・これは、私自身も労働学校で学んで初めて得た実感やったな〜と思いました。

「大地疾走」で最後に訪れたのは、人類発祥の地であるグレートリフトバレーが眼下に広がるレンガイの噴火口。自分の立ち位置を知ることで人生観が変わると思います!!!(蓮)2010/10/18


2010/10/19


■@GAKUTOMO NO.147
「16回集中セミナー」が終わり、興奮冷めやらぬまま書いています。受付をしていたので半分くらいしか講義は聴けませんでしたが、その半分でも、とてもおもしろい・・・という言葉では言えないほど“労働組合を強めるためのヒントや団結の要は何か!!”など重要なことを学びました。同時に自分の労働組合活動のなんと狭い、本気さの足りない、形骸化した活動になっていたことか!?ということに反省させられました。

労働組合にとって「要求は命だ」と言われた生熊さん。その「要求」を引き出せない。わたしの分会でも「今年の春闘の要求どうする?」と聞いてもシーーーン。「何か意見は?」と投げかけてもシーーーン。だんだん会議が重〜〜い空気になっていってました。自分も焦りが出てきて、結局前年度と同じような要求でまとめてしまう・・・そんなことの繰り返し。生熊さんは「それは執行部がサボってるだけ!」とピシャリ。「いまの社会状況のなかで、要求や不満を持っている人は多い。けれどみんなはその要求を声に出してみてもどうにもならないと思っている。そういう人たちに対して本当に要求を引き出そうと思ったらこっちもそういう準備や工夫がいる」と。(具体的には、非正規で働いてる人に頼んで家計簿を見せてもらいリアルに生活ができない状況を訴える材料にするとか、会議での発言者を予め決める。(会議はつくるもの!自然発生的に質問や意見は出てこない!)など。)本当にそういうことを考えずにやってました。そんなんで団結できるはずない・・・。

他にも講義を思い出すと、いろいろ感想や書きたいこと、各職場で話したいことがあふれてきます。

終わったあと「生熊さんみたいな委員長が我が組合にもいたらなあ〜」・・・そのときハッと気づきました。1人ひとりが“生熊さん”にならないとあかんし、そういうリーダーをつくっていかないとあかんのやなと。そこを生熊さんはわたしたちにメッセージされてたんだとあらためて思いました。これだけルールなき資本主義のなかで痛めつけられている労働者。未組織労働者が多い、非正規雇用労働者であふれている今日。しかしそれは労働者を団結させるチャンスでもある!と。

しかし学ばないとそのことは見いだせない。学びつつたたかい、たたかいつつ学ぶ、そういう労働者仲間をいろんな職場でもっともっと増やしたい!そのためにもう少し、いやもっとがんばろうと思いました。(麦)10/10/18


2010/10/18


■@GAKUTOMO NO.146
どの職場でも、現場で働く労働者の声には、いつも何かと考えさせられます。それも、労働組合などでより良い職場環境をつくっていこうという意識を持った仲間の声なら、なおさらです。

先日、病院の組合役員の方が話されていた話・・・それは看護師さんの“靴”についてでした。「靴ですか!?」と一瞬とまどいましたが、勢いよく話してくれるのですぐに「なるほど・・・」と思いました。

その病院には“看護師さんの靴は真っ白でないといけない”という決まりがある、でも根拠はないそうです。「☆白衣の天使☆だからですか?」と皮肉っぽく言うと、「そんなもんあるかぃ!!」と即否定(笑)。「外反母趾の人もいる。腰が悪い人もいる。“真っ白”で自分の足に合う靴なんて、なっかなか見つからへんよ!ラインも入ってたらアカンて・・・カタログはあるけど、足合わへん人もいるもん!!」と言ってました。それにとどまりません。その役員さんは、買ったばかりのデジカメで靴屋さんに並んでいる靴たちを撮ってきていました。「真っ白の靴なんて、なかなかないですよ!」と上司に見せるそうです(パワフル〜!)。

立ち仕事であり、常に歩き(走り!?)まわる仕事であり、一日中靴をはいて仕事をするわけですから、看護師さん自身の健康を考えれば、靴の問題は大きいんだな〜と思いました。

この職場では顕在化している問題が、全く同じではないにしても、共通するような問題が別の職場では潜在化してあるかもしれない。そういうことを思います。

いろいろな職場に共通する問題は、根源をつきつめていくと、資本主義社会の仕組みそのものに目が向いていきます。労働者が一箇所に集まること自体が、自覚的な労働者として目覚めさせていくきっかけになりうる。現場の声を聞くことの魅力は、そういうところにあるのかな〜と思いました。(蓮)2010/10/15

◎大都市、大工業、パブ……労働者の反抗、労働組合の結成や運動……労働者を結集させる条件が大きな役割(産婆的な)を果たしている。エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」の復習をすすめて理論的裏付けを獲得しよう。(む)


2010/10/16


■@GAKUTOMO NO.145
「体育の日」の昼間のこと。堀川通りを自転車で下り学習会館へ向かっていると、カーキ色のゴツゴツとした妙に大きな車が、同じ方向へ走り追い抜いていきました。「なんか、軍用の車みたい・・・」と思っていると、続いて3台同じような車が・・・。車の後ろは、テントのような生地がかかった荷台です。同じくカーキ色の服を着た男の人たちが、扉もないその荷台にズラリと並んで座り、運ばれていました。「うわ、ホンマに軍用の車やった・・・」出動命令でも出たら、すぐに飛び降りてくるような感じです。なんだか異様な光景でした。

ちょうど私を追い抜いた時、行く先の信号が赤に変わったのですが、「この車は止まるんだろうか」と、とっさに考えました。ちゃんと止まったので、安心している自分も妙な感じ・・・と思いつつ。

ふと思い出したのが、「しんぶん赤旗」の記事です。「高校校庭に米軍指揮所 静岡県立伊東高 『防災』訓練を名目に」(2010/10/6)「陸自戦車が公道走行 未明の帯広 『生活の場だ』住民抗議」(2010/10/9)というもの。立て続けに学校や公道という「生活の場」に軍隊の姿があるという異常を伝える記事があったので、気味が悪いなぁ〜・・と思っていた矢先の、堀川通りの光景でした。

あれは自衛隊の車だったのでしょうか。何だかわかりませんが、あんな格好にあんな車・・・きな臭いことには変わりはありません。そんなタイミングで見たのも、たまたまの偶然なのかもしれませんが、私たちの「生活の場」(それも日本中!)に軍隊がいることに変わりはありません。

この違和感、簡単に無視してはいけないのではないか。この緊張感・・・軍事で平和は守れません。(蓮)2010/10/13


2010/10/15


■@GAKUTOMO NO.144
 プロのスポーツ選手が、全力をぶつけあい真剣勝負で競い、その中で生まれるさまざまなドラマには、いつも感動させられます。どんなスポーツでも、その頂点で、極める選手たちの姿には、無駄な動きが取り払われ、“美”さえ感じます。人間の能力は、どこまで開花するのか、それはまるで無限のようにも感じます。

 そんなスポーツも、いまの社会では、“もうかる”ことが基準となっている面が多々あることは、残念な思いを持たざるをえません。まして、法律で認められる認められないは別として、“ギャンブル”の対象になるということが“あたりまえ”になることには、もっと異を唱えないといけないのではないでしょうか。

 とはいいつつ、野球をみる(今はもっぱらスポーツニュースでみるくらいですが)のは、おもしろい。小さい頃からすりこまれているのかもしれませんが…。

 この土日に開催されたパ・リーグのクライマックスシリーズ、連日の大逆転劇の連勝でロッテがファイナルステージ進出が決まりました。1戦目が4点差、2戦目が3点差の逆転。そんなに大逆転でない点差と思う人もいるかもしれませんが、こういう短期決戦では、そのチームのエース級が登板する訳で、1点をとることがどれほどたいへんなことかと、私は思います。そういう意味では、連日の大逆転劇です。

 そのロッテのたたかいぶり…“全員”野球だということと、そして、最後まで“あきらめない”精神…それらが、勝利へとつながる…ここに感動を覚えました!

 ここは、私たちの活動にも貫くべき精神だと思います。それらを徹底してこそ、“壁”を乗り越えることができたり、さらに未来をきりひらくことができるのではないでしょうか。

 労働学校を開校させるために、今、私たち運営委員会に求められることです。(吉)10/10/13

◎「科学の目」、みんなで闘う思想の確立、方針の確立と実践……時には集中し持続的に追求する姿勢。活動のリーダーが組織の運命を握っている。八甲田山死の彷徨=@その自覚が問われている。(む)


2010/10/14


■@GAKUTOMO NO.143
美容院に髪を切りに行きました。美容師さんと仕事のこと、趣味のことなど色々な話をし、待ち時間は雑誌を読んでいました。

隣の席には40代ぐらいの女性がいて、美容師さんと会話が弾んでいました。その会話がところどころ聞こえてきたのですが、「今の若い人のお給料って安いねぇ。」“そうですねぇ。四回生とか頑張って就活してもなかなか決まらないって言ってますよ”とか、「うちのおじいちゃんは月に27万ぐらい年金をもらってるけど、私たちはいくらもらえるのかなぁ?」“27万って私より多いですよ!”「大変やねぇ」…というような会話でした。聞いていて、「どうしてそうなってるんだと思いますか?」と尋ねてみたくなりました。(勇気が出ませんでしたが。)

今の社会の状況を嘆くだけでは何も変わりません。そこで、“なぜそうなっているのか?”“より良くするためにはどうすればいいのか?”を考えることが大切なのだと思います。そのためには、まず事実を知ること。そしてみんなで考える。それが必要です。労働学校はまさにその両方ができる場所です。137期も多くの仲間が一緒に学べる場所になるように、最後まで精一杯頑張ります。(蛍)2010/10/13


■@GAKUTOMO NO.142
今年は国際生物多様性年ということで、地球上のダイナミックな生物の話題を取り上げた番組や記事が多くあります。先日のNHKスペシャル「日本列島 奇跡の大自然」(10/9・10)では、日本の「森」と「海」を取り上げ、生物の多様性を紹介していました。

そこにしかすまない生物が多いことで有名なガラパゴス諸島。ダーウィンがそこで生物の研究をしたことなどを知ると「行ってみたいなぁ〜」なんて思ったりしていましたが、なんと日本列島の方が、そのガラパゴス諸島よりも固有種は131種と多いそうです。びっくり!!さらに、海にすむ生きものも、3万4千種と世界一多いそうです w(@△@;)w

案内人の松下奈緒さんはこの番組に取り組んで、「日本の自然と言っても、実は世界の自然と重なりあって成り立っていました。」と語っています(しんぶん「赤旗」2010/9/30)。

日本列島そのものも、初めから今の形であったわけではなく、壮大な歴史の中で大陸とくっついたり離れたり・・・を繰り返しながら、今の日本列島を形づくっていきました。その中で固有種が出てきたことや、アキアカネを取り上げて人間の暮らし(稲作の広がり)がその繁殖を後押ししてきたことなども取り上げられていました。

まるごとの世界の中に“その場所”はあって、常に動いている中に“今の形”はあって、人間もその中の一種の生物で相互に作用し合っているのだと感じます。

「自分のいる場所」を大きな時代の流れの中でイキイキととらえる目=科学の目を身につけることは、自分の頭で考え、自分の足で立ち、自分の手で変化をつくりだしながら生きていくことにつながるのだと思います。人間らしさの回復です。(蓮)2010/10/11


2010/10/13


■@GAKUTOMO NO.141
毎日、こんなに感動することがあるものなんだなぁとしみじみ感じます。もともと、日記などは長くて1週間続けば良いくらいで、継続できない私。これまでにも何かの節目ごとに、今の自分が感じていることや、発見したこと、心が動いたことなど書き留めておきたい!と思って、何度か挑戦はしてきましたが・・・。だから、私の「日記帳」は、最初の方だけで後は真っ白だったり、日付が飛び飛びで書かれていたりしますw(*゜△゜*)w

この@GAKUTOMOを書き始めて、3ヶ月と少し。特定ではないけど、伝える相手がいるというところで、伝えたいことがモリモリ出てきます。世界中のすべての働く仲間へ!と思うと、日常生活の中に次々と糸口が見えてきます。

いざ人に伝えるとなると、「滑った転んだ鼻たれた」というだけのものでは満足いきません。そこに自分自身の学び直しや、新たな学習の積み重ねや発見もあって、「伝えたい!」になる。「伝えたい!」が明確に見つからない時もありますが、そんな時も日常生活を見つめ直し、その中にある変化や感動を再発見することにもなります。

そんな風に、外へ外へと向かおうとする時に人間は成長するのだ、やはり社会的存在なのだと感じます。同時に、今の生活の充実っぷりと「もっと充実させることはできる!」ということも感じます。

学んだことを広げる活動は、成長へのプロセスそのものですね。矛盾や課題があって、そこにぶつかっていく限り、それを乗り越える力もでてくる。労働学校で青年が成長することは、証明済みです。(蓮)2010/10/8


2010/10/12


■@GAKUTOMO NO.140
介護保険制度では、2006年の制度改悪の際にホテルコストという考え方が導入されました。これは新自由主義的な考えのひとつで、「どこで暮らしていようが、食事代と居住費はかかるのだから、介護保険のなかから負担せずに、自己負担としましょう」というものです。

長年福祉職場で働いている者からすれば、食事を作る能力がないから、あるいは社会生活を営むための基盤となる安定した住居の確保から、福祉施策として保障することが必要なのであり、福祉のことを何も分かっていないおバカな論理だと、とりたてて反論する必要もありませんでした。「福祉がなくなった」と言えば済むと思っていました。

ところが、このホテルコストの考え方が持ち込まれ、すでに4年経ち、さらには新自由主義的な考えのもとに設計された介護保険ができて10年が経ちました。

その間、新自由主義路線の制度や政策が様々な分野でも持ち込まれました。現在23歳の青年からすれば、中学、高校、大学と新自由主義的な考え方のもとで育った青年と言えるでしょう。

大学では介護保険の枠内でしか高齢福祉が語られていない場合もあります。

いま福祉職場で働く青年の多くは、そうした本来の福祉の考え方でない考えを持たされているのが普通と言っても過言ではありません。

ですから、最近では民主的と呼ばれる我が職場でも、ホテルコストはあたりまえという意見にも出会います。

そこでは、「福祉がなくなった」と言っても通じないことになります。

そんな青年が、制度の枠内で働く現場のみで福祉思想を磨くにしても、誤った考え方を変えていくことは到底できません。

それを変えていくには、それに対峙する考えを外から持ち込む以外にありません。

今、福祉労働者が社会のしくみを知り、様々なことを自分で判断できる基準が本当に必要とされています。福祉労働者が科学の目を持ち、自身の羅針盤を持つことは、福祉の再構築にとって欠かすことのできないものとなっています。(書)10/10/8

◎人権という思想、民主主義の思想、日常の中で対話と討論が低調な中では、真理を追求する値打ちも自覚できません。「わかっているやろう〜」という構えこそ、自分を甘やかす意識こそ克服しなければなりません。(む)


2010/10/9


■@GAKUTOMO NO.139
診療所の透析科の臨床工学技師さんに労働学校をすすめにいきました。その人は専門学校を卒業し診療所に就職して1年目の方です。彼女は「専門学校を卒業してすぐは、こんなに患者さんと近い仕事をするとは思っていなかった」と話し始めました。「透析」の治療のための機械を扱う仕事ということで「機械のあれこれ操作をする仕事」という程度にしか考えていなかったそうです。

いろんな数値や検査結果からその患者さんの状態を調べ治療していく仕事。しかし話しを聞くなかで「数字で判断するだけだと思ってたら、そうでもなくて看護師さんや患者さんの家族の話しと重ねて診ていくことも大事なんで、そういうことも少しずつやれるようにならないとだめなんです」と話されました。

まさにそういう見方、しかしもっと深く、社会とのかかわりのなかでとらえることの大切さを学ぶのが労働学校なんです!患者さんの身体がどんな状態になっているか、血液や体温などの数値も重要な判断材料でしょう。しかし同時に顔色は?表情は?会話の内容は?声のトーンは?家族の話しは?等々いろんな角度で患者さんを知ることが、その患者さんを“ありのままに捉える”ということになる。そういう小さな変化に気づくことが日々の看護のなかで十分にできていないの現状はどうして起こってきているのか・・・?そういうことを知ることでもまた患者さんへの働き方が変わるんですよ〜〜!看護観、人間観が変わりますよ〜!と話すと「それじゃあ一回行ってみようかな」となりました。(麦)10/10/9


2010/10/8


■@GAKUTOMO NO.138
保育園を出ようとした時、目にとまった一つの絵。ウワッ!と思い、すぐ事務所に戻りました。「園長、あれケーテ・コルヴィッツの絵ですか!?」と聞くと、一瞬驚いた様子で、ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館へ行ったと話してくれました。まさかわたしが彼女のことを知っているなんて、思いもしなかったのでしょう。

私が日本でのケーテ・コルヴィッツ展に行ったのは5年前(!)です。何かの記事で見て気になってはいたものの、遠いからなぁ〜・・・と思っていたところを「行ったらええ」と後押しされ、見に行きました。行ってよかった!

ナマで見るコルヴィッツの作品は、迫力・・・!!感動とかなんとかいうより、ただただ「スゴイ・・・」とまさに“胸を打たれる”感じだったことを覚えています。白と黒の絵。妙に静けさがありながら、どの作品もザワザワとしています。人の心の動き、その瞬間の衝撃、コルヴィッツの“怒り”のような感情、そしてなにより力強さ!!・・・絵そのものはもちろん静止していますが、動いています。背後にある本質的なものを感じさせます。

園長はいつも「“労働者的な考え方”はキライだ」と皮肉を言います。しかし、コルヴィッツを語る園長は、「労働者と反戦と子どものことに取り組んだ人」と誇らしげです。ベルリンの美術館で感想を書いてきたそうです。「コルヴィッツの作品は、涙なしにはみられません」と。

時には「資本の人格化!」とも言いたくなる園長ですが、この時は「さすが!」と嬉しくなりました。「芸術家というものは、多かれ少なかれその時代の子なのです」と言って、その時代の底辺に生きる人々の姿を描き、戦争反対を描いたコルヴィッツ。彼女が描いた子どもの姿。その絵が意図的に飾られている保育園。自慢です。(蓮)2010/10/6


2010/10/7



■@GAKUTOMO NO.137
137期の労働学校の準備を進める中で、みんなと共感して話しているのが、「どうして“余裕”があるといけないの?」という話です。

私は保育士ですが、あと一人職員がここにいたら…と思うことが一日に何度もあります。子どもたち一人ひとりに丁寧に働きかけられることはもちろん、保護者とももっとゆっくり話せ、職員の負担も少なくなる。でも、実際はなんとかやっていける“最低基準”の中で日々必死に保育をしています。子どもを主体に考えると、もっとこんな風にしたいという思いはいっぱいあります。でもそれを実現させようと思うと、今の人数では足りません。

助産師として働く仲間は、「命を守る現場だけど、会議などが入り、人が足りない時間があり、最低限の処置だけをするのが精一杯。ナースコールが鳴っても大したことがなければ、すぐに次の仕事へ移り、患者さんの話も全然聞けない。」と。何もなかったとホッとしていると「この人数でも回ったね」と言われたそうです。「またこの人数で回す日が出てくると思う」と話していました。

また違うところで働く仲間も言います。「“余裕”ができると、じゃあ正職の残業時間を短くしよう、人を少なくしようと言われる」と。「でも、そんな中では仕事にやりがいを持って働けない。仕事がどんどんしんどいものになる」とも話してくれました。本当にその通りだと思います。

どうして“余裕”をなくそうとするのか、そもそも“余裕”のない働き方になっているのはなぜなのかと議論すると、やっぱり根本には社会の仕組みがあるのだという話になります。資本主義社会の中では利潤が第一に考えられます。そんな中で大切にされるのは子どもや患者さんではなくなってしまうんですね。

話せば話すほど、労働者がそんなことについて考える場、学ぶ場=労働学校を大きくしなければならないと強く感じます!気持ちを新たに頑張ります。(蛍)10/10/6

◎新メンバー登場です。うれしいことです。感動したこと、疑問に思うこと、問題提起などなど、科学的社会主義を学んでいることで「科学の目」が鍛えられます。それを世界(オーバーですが事実です)に発信するのです。誰かのせいにするのではなく、自覚的に必要な場所で活動できる力をつけるのです。楽しみです。(む)


■@GAKUTOMO NO.136
5時15分、大きな会社に「学習の友」を持っていくと、終業のチャイムとともに続々と労働者が出て来る光景を見ました。帰路につく人、同僚や上司と飲みに行く人、友人を出口で待つ人などなど、友の読者を待っている間、じ〜っとその人たちをみていました。いろんな目的、意識のなかでそれぞれの行動をしていく。誰ひとり同じ考えで、同じ動きをする人はいません。一見すればバラバラに見える人の流れ。

私が労働学校で学んでいなかったら、ただの「学習の友配達員」になってその流れを見ていただけになっていたでしょう。しかし労働学校で学ぶといろんなものの、見方が変わります。

バラバラに見える労働者の動きにも実はそこにも法則が貫かれている。資本主義の社会で自分がよりよく生活しようとする意識。意識は社会の仕組み(土台)のうえにつくられます。働く者の集団は「階級」となる・・・、学んできたことを基礎に見ると、ここから帰路につく人がみんな「階級」として自覚しみんながよりよく生きるために動きだしたら! すごいことが起こるやろうなあとワクワクします。

想像をふくらませていた数分間でした。そのためにはもう一つ上のステージに活動を乗せないと……あかんのですが。(麦)10/10/6


2010/10/6

しばらく植物園でのパシャで……

■@GAKUTOMO NO.135
「しんぶん赤旗」の、いつも忘れたころにやってくる連載「アロマで心地いい暮らし」(第4土曜掲載)がお気に入り。大先輩に教えてもらった「アロマウォーター」がきっかけです。精製水と無水エタノールと好きなアロマオイルがあれば作れます。安い、たっぷり、便利!労働者の生活にはもってこいです(アロマオイルはちょっとお高いですが)。部屋のカーテンや布類にシュッ、寝癖直しにたっぷりシュシュッ、化粧水の代わりにもなります。さりげない自然な香りが良い感じ。オイルによってはカビ防止や防虫剤代わりにもなるんだからスゴイです。

9月25日付で載っていたのは、「湿布とサシェ(香り袋)の楽しみ方」。温湿布は大好きで、よくやります。お湯にアロマオイルを落としてタオルをしぼり、首や目にキュ〜っとあてると、鳥肌が立つほど気持ちいいです。サシェも早速作ってみました。良い匂い〜。精油の効用を見ると、なんだか効いてる気がします。

でも、実際の効き目は・・??「しんぶん赤旗」に載ってるんだからきっと科学的根拠はあるんでしょう・・・。アレ!?それは科学的じゃないですね。でも、良い匂いは、ストレスを緩和してくれるでしょう。ストレス緩和は免疫力をアップさせる、つまり治る力が高まる・・・それは神経生理学的な根拠があると川島みどりさんが言ってました。こじつけですか!?

実践で実証!とりあえず続けてみます(*^ー^*)b これから試してみたいのは、「ユーカリ、ティートリー:風邪のひき始めに」「フランキンセンス:せき」。この夏は虫よけにも挑戦しましたが、保育園の蚊はなかなか手強いです。来年また改善してリベンジします。(蓮)2010/10/4

◎いいですね。ストレス解消というよりは、次への静かなステップ。私も月1回は植物園にゆきます。1年間通いました。春、夏、秋、冬と違います。夏から秋は、春から夏とは違います。園が良く茂って盛りあがっているのは秋口でしょうか。命のエネルギーを感じ最高。次のステージに静かに移動中です。(む)


■@GAKUTOMO NO.134
 今、137期の労働学校を準備しています。

 総合コースには、“労働学校に参加するのが初めて”という人が受講するので、そのためにも、いろんな人にまわり仲間を紹介してもらったり、街角にでて見ず知らずだけど街ゆく働く仲間たちに声をかけ、そうした“新しい仲間”といろんな話をします。労働学校のことをまず知ってもらうというのは当然のことで、相手がどんな人でどんなことを思って働いたり、生活しているのか、そんなことからいろんな話に広がります。

 いつの頃からか、“初めて会う”人とこんなに話ができるようになったのかと、今改めて驚きもしています…。

 先日、ぜひとも労働学校に来てほしい中小企業団体で勤めだした青年と話す機会がありました。その時の話の本筋ではないですが、日常的に労働学校で仲間たちと学習していることがどれだけ貴重なことかを、改めて気付くことができました。

 その彼には6月から始まる労働学校も話をしてましたが、まだ働きだしたところで、時間的にも経済的にも厳しいということで、10月から始まる労働学校でまた考えるという返事をもらっていました。

 ところが、11月から舞鶴に転勤になるとのこと。彼も、「今、基本的なことを労働学校で学習しておきたかった」と言ってました。6月のときに、何がなんでも彼の背中を押して受講しておいてもらえれば…くやしい限りです。

 私のある先輩で、他の職業の人ですが同じく舞鶴に転勤になった人が言ってたのを思い出しました。「舞鶴に来てみて、京都に労働学校があることの大事さがよくわかったよ。労働組合や、民主的な団体はあるけど、なかなか若い人たちが定期的に集まって集団的に学習する機会をとるのは、本当に難しい。それに講師をみつけるのも難しいよ。」と。

 普段“あたりまえ”にあるものは、その大事さは意識的にとらえないと、忘れがちになったりしてしまうのとよくにたように…今、京都に労働学校があることも“あたりまえ”ではないわけで…。

 まして、毎回毎回、労働学校を開校するために、たくさんの仲間の、たくさんの努力の積み重ねで、やっと開校できるのです。

 137期の労働学校を何としても開校して、一人でも多くの働く仲間たちが、科学的社会主義を学び、そして人間らしく生きるためにその力を発揮してもらいたい!何としても開校させる決意です。

 もう一つだけ…たしかに労働学校が“あたりまえ”に存在する社会の実現もめざすところです!(吉)10/10/1

◎個人の役割は、好き勝手に見えていても結局歴史に規定された歴史的行為! 137期募集に全力を発揮してこそ輝く≠フだ。(む)


2010/10/5


■@GAKUTOMO NO.133
人との対話の中で、いろいろな問題意識が整理されたり、新たな発見や問題意識が生まれたりします。それが面白い。

労働組合の活動について「どうしたらええの!?」って思うことがいっぱいあるよね〜と、同じ福保労の仲間と話していました。彼女は136期労働学校で学んだ仲間。総合コースの労働組合の講義が面白かったと言って、「そこにはリーダーがいるんやって思った」と話してくれました。

ちょうど前日は労組情勢セミナーで、JMIUの山本善五郎さんの講義がありました。そこでは、不安定雇用の労働者も必要だという「安全弁論」が正社員の労働組合員の中にもあったということ、しかし、不安定雇用労働者が立ち上がり、闘いを進める中で、「安全弁論」を克服していったという経験を学びました。「その変化が作りだせた大きな要因は何だったのですか」と質問すると、善五郎さんは「方針と議論・・・そしてなによりも仲間(意識)」と言っておられました。「仲間(意識)」を強調されていましたが、「方針と議論」があったからこそ、その「仲間(意識)」が組織されたのではないかと思います。

「方針と議論」って言ってはったんや!と彼女に話しながら、そういう視点を持てる人(リーダー)を、職場の中に作らないとアカンのやろうな〜と思いました。職場の中にそういう仲間が増えれば、職場の労働組合が変わる、そういう労働組合が増えれば、産別労組も変化してくる、産別労組が強化されるということは、社会を動かす力が強まっていく・・・でも、そんな段階的なものではないのかも・・・などと、考えながら話ながら、また考えながら・・・学んできたことがつながっていき、また新しい問題意識が生まれてくるのを感じました。

まだ浅い理解なのだろうとは思いますが。16セミ、楽しみです。リーダーつくらなきゃ〜。(蓮)2010/10/1


■@GAKUTOMO NO.132
職場ニュースも15号を向かえようとしています。なかなか表面の中身の充実は思うように図れていませんが、なんとか軌道に乗ってきました。
以前にもGAKUTOMOで書いた「みんなで発信」。毎月、全職員に原稿用紙を配り日常生活で感じたことを記事にしてもらうというコーナーです。

今月も「原稿を配らなくちゃ!」と運動会の差し迫った日に慌てて原稿用紙をみんなのロッカーに貼り、(今月は運動会だしみんな忙しくて書いてくれないかも)と不安に思っていました。すると予想外に原稿がたくさん集まってきました。今月は、これまでほとんど書いたことのなかった先生や、年長の担任で多忙な先生も原稿を寄せてくれました。「運動会の忙しさ」は壁にはなっていないことにこちらが驚いています。

原稿の中身の高まりももちろんですが、職場の何人の先生が書いてくれたか、これまで書いていなかった先生が書いてくれたこと、などなど一つ一つが嬉しい前進です。

また私自身も毎日、日刊紙を読むとき(みんなが読みやすい構成ってどんなんだろう、一番注目してほしい記事をどこに持ってきてるのかな、写真はどんなものが目を引くのかな)などこれまでと違った「人が見てどうか」という角度で見るようになってきました。

「組合ニュース」を“みんなのものにする”にはまだまだですが、みんなも声を発信して、編集者(私)も日々研究しながら発行しています。(麦)10/10/2


2010/10/4


■@GAKUTOMO NO.131
ナイチンゲールの「空気の管理が重要」という話から、呼吸・食・排泄・清潔などの人間としての基本的な行為が看護の基本でもあるんじゃないか、それが患者さん自身の「治る力」を引き出すんじゃないかという話をしていると、「そのためには看護師さん自身が“普通の生活”をすることが必要やね〜」と病院労組の専従の方が言っておられました。

「ちゃんと家に帰って寝るとか、シャワーをあびるとか」(それ、できてない状況があるってことですなんですね・・・)「食事もねぇ。カップラーメンとか・・・」と話されていたので、「カップラーメンはいつでもどこでもすぐに食べられますもんね〜」と返すと、違ったようです。「時間があるときは、カップラーメンが食べられるんや。3分待てるから!」

あぁ・・・絶句とはこのことです。そんな働き方、生活の中で、新鮮な空気や素材の味なんてどこ吹く風・・・看護師さん自身が敏感でなければ、病室の空気がよどんでいても、管理なんて誰もしません。ふと、我が身を振り返ってみると・・・保育士も人ごとではないですね。

人間としての基本的な行為として、呼吸などとは少し段階は違うかもしれませんが、労働も挙げられると思います。子どものあそびは広い意味での労働です。自然に働きかけ、変化させる。そこに仲間がいます。連帯も人間の基本的な行為です。運動会でどんな競技をしようと、作品展でどんな作品を作ろうと、やっぱりその基本的な行為が子ども自身の「育つ力」を発揮させるのではないかと思います。

そういう“力の源泉”に目を向けられる仲間を職場の中につくらねば。137期労働学校と16セミナーで学ぶ意義がまた一つ深まったように思います。(蓮)2010/9/29


2010/10/2


■@GAKUTOMO NO.130
「90歳を超えてなお“もういいや”とは無縁でした」と書かれている一文が、ガーーーンと響いて頭から離れません。しんぶん赤旗の「潮流」(9月18日付)に書かれていたハンク・ジョーンズの生き方。1950年前後、黒人差別の時代を生き抜き「ジャズ音楽の生き字引」とたたえられる巨匠、ハンク・ジョーンズ。差別に対しても、音楽に対しても挑戦し続けた生き方。またまた、自分の力のなさにあきらめかけていたところへ、励ましの言葉・・・いや(30年生きてきたくらいで何を甘えとるか?!)と叱咤の言葉のような気がしました。

ハンク・ジョーンズも地道な努力を重ねて、ここまで技術と思想を磨いてきたのでしょう。人が見ていない部分での努力。第3者が見える部分は本当に一面でしかない。実際には何度も何度も同じ部分を練習したり、失敗を繰り返しながら少しずつ積み上げてきた。そのことをしっかり学ぶ必要がいまの自分にはあるなと思いました。すぐに結果を急いだり、見えない努力をすっ飛ばして「できる自分」を思い描いたり・・・。

あせらず、自分のやってきたことから、次にできることを積み上げていこう。くじけそうなときには「90歳でも“もういいや”とは言わなかったハンク」を思いだしながら。(麦)10/9/30


2010/10/01


■@GAKUTOMO NO.129
 労働学校の運営委員会では、定期的に、学習合宿をしています。学習素材は、不破哲三著「マルクスは生きている」(平凡社新書)です。

 一人ひとりの運営委員が、章ごとに設けられている“節”ごとに担当を決め、自分たちでレジュメを作成して、短時間で発表します。丸一日をかけ、それぞれの発表と各章ごとに、みんなで論議をして深めます。

 今回の合宿は9月11日〜12日。136期のプラザが19日でしたから、その直前に開催しました。

 プラザでは、136期の仲間たちが、この2ヶ月学び深めた内容を自分たちで“プレゼン”するというもの。ここでは、班やコースの仲間たちが集団的に論議がすすめられ…どこがポイントなのか、そのポイントを導き出すために改めて講義全体をとらえなおし、なおかつ“プレゼン”するにはそれをいかに“伝わる”ようにどう表現するか等…グッと深まりました。

 この学習合宿とプラザを通じて、学習内容の中で新たな発見も、数多くありましたが、それらとは違ったところで共通して感じたことがあります。

 それは、一言で言えば、“労働者ってホンマに学習を深める時間ってぜんぜんないなあ”ってこと。日頃、労働学校で講義を受講したり、労働組合でも学習会に参加したり、その他いろんなところで話をきいていたとしても…(私は)当然、メモをとったりしていたとしても、けっこう“聞く”ことが中心になっていたりします。“聞く”だけで、“わかった”って思っていたりします。実際に自分で“伝える”ことを体験すると、ぜんぜんわかっていなかったことを改めて気付いたり…それが、学習合宿やプラザで実感しました。そうした講義を受講するだけでなく、ホンマに自分のものにするために深める時間を持てているかどうか…。その“時間”を獲得すること自身が、まさしく闘いです!

 “ホンマに学習を深める”ことをするならば、自分が“わかった”と思うことを、外へ発信できるかどうか、だと思います。それでこそ、“血肉”になったといえるのではないかと…“能動的な”学習だと思います。

 今、137期労働学校を準備していますが、実際に対象者に会って労働学校のことを話す時も、その“ホンマに学習を深める”ことができているかどうかが、真に試されてきます。

 136期に労働学校で学んだみなさん、ぜひ労働学校の準備活動に一緒に取り組みませんか?自分の学習の深まりがよくわかります。そして、2ヶ月学んだことを実践としていかす機会となります。労働学校の学習が“生きた”ものとして、さらに必ず深まります。

 ……と、もう一つだけ……講師の先生ってホンマすごいですよね。あれだけの講義内容を、スラスラと“伝える”ことをされている。(学習を積み重ねてきてやっとわかることでもありますが、)“本質的”なことを、わかりやすく“伝える”ことをされている。当然、現在に至るまでの努力の結晶だとは、思いますが、“伝える”ってそんなにたやすいことではないですよね…。(吉)10/09/27