学習通信090519
◎絶対的に資本に所属する、自由に処分できる、産業予備軍……
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第2回 職場問題学習・交流講座への報告
幹部会委員長 志位 和夫
──略──
日本の経済社会のあり方を根本から問う
――「ルールある経済社会」への改革
雇用破壊とのたたかいは、日本の経済社会のあり方を根本から問うことにもなりました。世界経済危機のもとで、日本では、「ルールなき資本主義」の害悪が、あらゆる分野で深刻な形で現れていますが、雇用問題はその最大の焦点の一つです。雇用問題を通して、日本の資本主義のこの異常な特質に光があてられる状況が生まれました。そして、その解決方向として、わが党綱領が示している「ルールある経済社会」への改革の展望が、広く社会の共感を呼ぶ新しい状況が生まれています。
さらに、財界・大企業による異常な搾取・収奪の現実が誰の目にも見える姿をとるもとで、私たちの大先輩であるマルクスへの新たな関心が広がっていることも、注目すべきことであります。私自身、メディアのインタビューで、マルクスが『資本論』に書き記した「大洪水よ、わが亡き後に来たれ!」という資本のスローガン――自らの利潤追求のためならば「後は野となれ山となれ」、労働者の健康も寿命も、どんなものでも犠牲にしてはばからないという資本の本性が、現代の奴隷労働ともいうべき派遣労働にもくっきりと現れているということを、語る機会が何度かありました。
『資本論』では、資本の蓄積のもとで、「産業予備軍」という形で、不規則な就業のもとにおかれている労働者がつくりだされることが、労資の力関係を資本家にとって有利にする方向に作用し、その圧力が労働者を資本の支配と貧困に縛りつける「楔(くさび)」の役割を果たすとのべていますが、それは現代の非正規雇用労働者と正規労働者との関係にもそっくりあてはまります。
──略──
(「赤旗」20090428)
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しかし、過剰労働者人口が、蓄積の──または資本主義の基礎上での富の発展の──必然的な産物であるとすれば、この過剰人口は逆に、資本主義的蓄積の槓杆(こうかん)、いやそれどころか資本主義的生産様式の実存条件となる。
それは、あたかも資本が自分自身の費用によって飼育でもしたかのようにまったく絶対的に資本に所属する、自由に処分できる、産業予備軍を形成する。
それは、資本の変転する増殖欲求のために、現実的人口増加の制限にかかわりなくいつでも使える搾取可能な人間材料をつくり出す。
蓄積とそれにともなう労働生産力の発展とにつれて、資本の突然の膨脹力が増大するが、それは、機能資本の伸縮性が増大し、また〔社会の〕絶対的富──資本はそのうちの伸縮自在な一部分をなしているにすぎない──が増大するからばかりでなく、また、信用が、あらゆる特殊的刺激のもとで、たちまちこの富のうちの異常な部分を、追加資本として生産の用に供するからばかりではない。
生産過程そのものの技術的諸条件、すなわち機械設備、運輸手段などが、きわめて大きな規模で、追加生産手段への剰余生産物のきわめて急速な転化を可能にする。
蓄積の進行につれてあふれ出て、追加資本に転化されうる社会的富の大量が、市場を突然に拡大した旧来の生産部門に、または、旧来の生産部門の発展によって必要となった鉄道などのような新たに開発された部門に、熱狂的に殺到する。
すべてこのような場合には、大量の人間が、突然に、しかも他の部面での生産規模に損害を与えることなく、決定的な部面に投げ込まれうるのでなければならない。
過剰人口がそれを提供する。近代的産業の特徴的な生活行路──すなわち、比較的小さな変動によって中断されながら、中位の活気、全力をあげての生産、恐慌、および停滞の諸期間からなる一〇カ年の循環という形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、大なり小なりの吸収、および再形成に立脚する。
産業循環の浮き沈みはそれがまた、過剰人口に新兵を補充し、そのもっとも精力的な再生産動因の一つとなる。
人類の従来のどの時代にも見られない近代的産業のこうした独自な生活行路は、資本主義的生産の幼児期においても存在しえなかった。
資本の構成はきわめて徐々にしか変化しなかった。
したがってだいたいにおいて、資本の蓄積にはそれとつり合いのとれた労働需要の増大が対応した。
資本蓄積の進行は、現代に比べて緩慢であったにせよ、搾取可能な労働者人口の自然的諸制限にぶつかったのであり、これらの制限は、後述するであろうような暴力手段によってのみ取りのぞかれうるものであった。
生産規模の突然かつ飛躍的な膨脹は、その突然な収縮の前提である。
後者がまた前者を引き起こすが、しかし前者は、利用可能な人間材料なくしては、すなわち人口の絶対的増大にかかわりのない労働者の増加なくしては、不可能である。
この増加は、労働者の一部分を絶えず「遊離させる」単純な過程により、就業労働者致を生産増加に比べて減少させる諸方法により、つくり出される。
したがって、近代的産業の全運動形態は、労働者人口の一部の、失業者または半失業者への不断の転化から生じる。
経済学の浅薄さは、とりわけ、経済学が産業循環の局面転換期の単なる徴候にすぎない信用の膨脹と収縮とを、この転換期の原因にすることのうちに示されている。
天体は、ひとたびある一定の運動に投げ入れられれば、絶えずその運動を繰り返すのとまったく同じように、社会的生産も、ひとたび膨脹と収縮とを交互に行なうあの運動に投げ入れられるやいなや、この運動を絶えず繰り返す結果がこんどはまた原因となるのであり、自分自身の諸条件を絶えず再生産するこの全過程の浮き沈みは、周期性という形態をとる。
この形態がひとたび確立されるや、経済学でさえも、相対的な──すなわち資本の中位の増殖欲求との関連で──過剰な人口の生産を、近代的産業の生存条件であると理解する。
(マルクス著「資本論C」新日本新書 p1087-1089)
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学習通信090216
◎科学的社会主義の経済学と労働組合活動家……
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◎「『資本論』では、資本の蓄積のもとで、「産業予備軍」という形で、不規則な就業のもとにおかれている労働者がつくりだされ……それは現代の非正規雇用労働者と正規労働者との関係にもそっくりあてはまります」と。